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山梨県の偉人 真下晩菘(ばんすう)

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山梨県の偉人 真下晩菘(ばんすう)
真下晩菘(ばんすう)と樋口一葉の関わりについて
                     雨宮美寿江氏著
年輪「山梨ことぶき勧学院大学院」平成6年度卒業(5期生)
文学・芸術コース卒業論文集 山梨県教育委員会
一部加筆
 
 塩山市教育委員会・塩山市公民館主催「晩蕗没後120年記念 真下晩菰誌上展」、この催しを見て、郷土の生んだ立志伝中の偉人晩菘先生を偲び、若くしてこの世を去った樋口一葉女史が、あれはどの名作を書きえたのも、陰に真下晩菘の力添えがあったればこそと知り、真下晩菘と樋口一葉女史との関わりについて調べることにした。
1.真下晩菘について
 真下晩菘、別名専之丞は寛政11年(1799)現塩山市中萩原476番地で生まれた。
 父、仙衛門は現益田謙次郎家の分家である。益田家には現在益田謙次郎夫妻が住んでいるが、長男は塩山市役所勤務である。女子は他家に嫁ぎ、謙次郎夫妻は果樹農業を営んでいる。母は塩山市西広門田、北井是七の娘である。現在はその子孫にあたる北井隆盛氏が農業を営んでいる。
 文政4年(1822)晩菘24才の時、塩山市下粟野、金子ふじを妻に迎えた。
 益田謙次郎の父、故勝俊は大菩薩峠の山小屋勝縁荘を作った人。小説「大菩薩峠」の作者中里介山や、禅宗の一本山塩山向嶽寺の若き修業僧、中川宗淵師(帝大出身)らと語り暮らした人でもある。
 勝俊の曽祖父治郎右衛門は一葉の父大吉とは別刎頸の友であった。曽祖母カツは一葉の両親と幼馴染みであった。一葉の父大吉24才、母あやめ18才の時、同じ村に育った二人は恋仲になるが、あやめの両親が二人の結婚を許さなかった。カツの兄秀造が二人に晩菘を頼って江戸へ駆け落ちすることをすすめた。この時あやめは一葉の姉ふじを身龍もっていた。
 一葉の祖父八左衛門は嘉永の水飢饉の時、百姓の苦しみを代表して代官と争い、一揆を指導して、阿部伊勢守に駕籠訴までした人である。この訴えが成功したのも、竹馬の友であり学友でもあった真下晩菘の助言と助力を得たからである。すでに晩菘は徳川幕府に仕えていた。
真下晩菘、幼名益田藤助、中農程度の生まれである。27才の時発奮、江戸へ出る。身分制度の厳しい時代(1825)に村で身に付けた学問をもとに徳川幕府に仕え、蕃書調所調役出頭にまでなる。現東大総長にも相当すると思われる。
 専之丞は旗本真下家の家録を買い、家督を譲り受けて真下晩菘となり士族の列に入ることができた。天保7年(183638才の時である。
 一葉の父則義の庇護者晩菘は、徳川幕府崩壊後は横浜に隠棲する。72才であった。
 8代目山梨県知事、坂本三郎は晩菘の孫にあたり、樋口一葉の許婚着でもあった。因みに塩山市上於曽で米穀店を営む益田和光氏の母トヨは坂本三郎の兄の孫にあたる。
2.樋口家について
 駆け落ちした大吉とあやめは、晩箱の口利きで蕃書調所の小使いとなり、あやめは旗本稲葉家の乳母となった。これを振り出しに幕臣の従者や公用人を務めながら貯蓄にはげんだ。同郷の先輩に習い、蓄えた金で士族の列に入ることができた。これも晩菘の力添えがあったからである。大吉、名を改め則義となる。慶応3年(1867713日南町奉行組下同心の列に加わる。則義39才の時である。喜びも束の間、わずか3ヶ月後の慶応31014日、将軍慶喜は大政奉還を奏して、徳川幕府は終末を迎えた。則義の粒々辛苦も水泡に帰せざるを得なかった。身分制度は壊滅したのである。
慶応498日、明治元年と改元される。
 則義はそのままの身分が新政府によって保証された。明治7年(18744月則義の持高13石の代償として、6ヶ年分の米78石の代金47617銭を受ける。則義が経済的にもっとも豊かな時代であった。
樋口一葉
明治5325日生まれの一葉は恵まれた幼児期を過ごしたと思われる。兄二人姉一人の次女として一葉は生まれた。後に妹の邦子が生まれた。
 則義が自力で得た士族の肩書きに対する執着は強く、直参だった誇りは、子女に対する教育、躾とな?て現われる。則義は一葉の才能に夢を託して、上流社会の子女が学ぶ萩の舎に入学させる。一葉は萩の舎でたちまちその才能を現す。
 明治206月則義は職を退く。若干の蓄えを資本に晩年の生活設計を立てようとした。同郷の人の事業に加わり、事務総代となり、設立資金を負担した。これが樋口家の没落の原因となる。
 明治201227日則義が望みを託した長男の死、現明治大学の前身明治法律学校を卒業し、就職したばかりであった。事業は失敗に終わり∴出資金は戻らず借金が残った。
則義は心労が国で、明治22年(1889712日、60才の生涯を閉じた。一葉18才の時であった。
 次兄は分家していたので、戸主として一葉の肩に一家の生活と父の残した借金が重くのしかかる。一葉は小説家として一家を支えようと闘うが力も気力も尽き果て、明治29年(18961123日、24才の若さで散っていったのである。「人生は短く芸術は永し」は、一葉にあてはめて初めて適切な言葉と感じる。一葉窮境の一端を日記から引用する。
「早朝、邦子と少々物語する。我家の貧困日々にせまりて今は何方より金借り出すべき道もなし、母君は只せまりにせまりて、我が著作の速やかならんことをの給ひ いでやいかに力を尽くすとも 世に買う人なき時にほいかがはせん‥………後略
                     明治26330日 晴天」
3.晩菘会 一葉会について
 甲州農民の血筋を引く真下晩菘、樋口一葉を郷土の誇りとして、一葉の母の生家の隣に位置する慈雲寺に二人の顕彰碑が建てられている。そして晩茶会、一葉会が作られ毎年碑前供養をしている。昭和52年晩茶会は結成された。勝俊氏が中心となり晩菘翁の生涯の研究と遺品の保存を目的とする団体である。初代会長は勝俊氏であった。現会長の益田穣氏の母は、勝俊氏とまた従兄弟にあたる。穣の名付け親は坂本三郎である。
 大正4年一(1915)一葉の妹邦子は墓詣に両親の故郷を訪れた。この折、横浜に出て生糸の取引で財をなした同郷の人、広瀬弥七氏に姉の顕彰碑の話を持ちかけ基金を得る。中央の文壇人に呼びかけ大正11年(19227月一葉の碑は完成した。その年の10月、一葉会は結成された。初代会長は弥七氏であった。会員約50名の会である。来年は一葉会結成75周年にあたる。現会長の広瀬宗国氏は弥七の孫にあたり4代目である。また弥七の父太郎左衛門は、一葉の祖父八佐衛門と共に、青梅街道の拡幅工事に骨を折った仲でもあった。
 

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