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山梨県の偉人 栗原信近

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山梨県の偉人 栗原信近
甲州見聞記 (一~三十)松崎天民著
新聞記事文庫 日本(1-002)

東京朝日新聞1912.3.23-1912.5.2(明治45)

一部加筆
 
十七、先覚者栗原信近

 一代にして二千万円の大金持に為った若尾逸平老人も一種の人物なら、其生涯を蚕の為めに過ごして居る八田達也翁も傑出した人材であるが、甲州には尚一人の忘る可からざる大人物が居る

 高い門地が有ると云うで無く、巨万の富を貯えたと云うでも無いに、彼は甲州一国の上下から、恰も革命児の如く先覚者の如くに唱えられて居る、甲府市より北、武田氏の築いた新府城の傍で、北巨摩郡穴山村に呱々の声を上げたは、今より七十年前の弘化元年菊花九月、六十九歳の過去を挙げて一県一国の富に尽し、更に私身を顧慮なかった犠牲の経路美しさを、知る人ぞ知る栗原信近翁

 甲州に生れて甲州に人と為り、甲州に老いた栗原翁は、生きた甲州人の典型である、武士の血こそ流れて居ないが、野生の儘の気を負って、山と川とに呼吸した壮年の栗原翁は、明治維新の大舞台を側面に見て、展開げる歴史の頁に腕を扼して躍り立た、穴山村の一平民国家の為には物の役に立ずとも、甲州一国山梨一県の興隆に力を尽すは此の時なりとあって、覚悟の臍を固めたは明治五年、齢二十八九歳にして、彼の前に投げ与えられたのは、北巨摩郡の曠野日野原開拓の事業であった、栗原翁は此の仕事を維新後の序幕として、凡ての新しき物の創設者たり実行者たる舞台に立った

 明治六年区長代理として、甲府詰所に勤務するや、商業の盛大を期するには、金融機関を設くるの要ありとて、合資組織の興益社を創設し、貸付や為替の営業を開いたのみならず、第一国立銀行とコルレスポンランスの約を結び、今日六十銀行あるの端を開いた、又養蚕盛にして生糸の産出多きも、荷為替の方法無きを見ては、有志を説いて荷為替業の興商社を起し、明治七年には唯一の交通路なる富士川を利用して、貨物運輸の利便を増進するために、富士川運輸会社を創設し、且其の流末蒲原川岸に新水路を開鑿して、富士川の交通に新生面を開いた、且其の沿岸諸村には、三椏栽培の殖産社を起して、村民の他地方へ出稼ぎする窮状を助け、農産社を創立しては牧牛に、機織に農事改良に貯蓄奨励に尽すなど、栗原翁が甲州一国の為に努力した効果は、何人と雖も否む事が出来ない

[写真(山梨県の恩人 栗原信近翁)あり 省略]

 中には翁が最も力を致したは、西八代郡市川町に、綿糸紡績の市川紡績所を創立した事である、祖先伝来の財産を傾け尽しても、少しも悔ず悲しまず、独力を以て明治十五年これを開き、一般の機織界に多大の裨益を与えるは、今も尚県民の感激する所である、この他葡萄栽培組合を設けて、甲州葡萄の声価を高める事に苦心し、或は「会社便」「貯金便」「貯蓄預金の説明」と題する自著を公にして、これを各町村や小学校へ寄贈し、一方では自ら各地方を漫遊して、殖産興業の道を説いて歩いたなど、農に商に工に苟くも公共の事ならば、各方面に渉って、我を忘れて奮励努力した

 栗原翁の仕事はこれ許りで無く、地方森林会、山梨県農会、甲信聯合信用会、山梨県山林会、甲斐園芸協会、山梨実業青年会、葡萄栽培組合などを、或は創設し或は参加して、一国の福利を計るに汲汲とした、精神的の方面に於ては、翁の足跡を見ること出来ないが、何事も幼稚な時代に、自ら進んで各種事業の端を開いた、其の先覚者的眼識と、革命児的の奮闘は、真に甲州人の典型である

 老て身に宿痾あり、晩年頗る不如意なるに似たれど、栗原梧園翁は容易に死ぬまい、甲州に唯一人の先覚者として、翁の健在であることは、翁一人のみの幸福でなく、実に甲州人の幸福である


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