東京朝日新聞1912.3.23-1912.5.2(明治45)
東宮殿下の御旅館に召されて、実業の為めに益奮励せよ、との難有い御諚を蒙った山梨県の実業功労者中に、「八田達也」の名があった、八達翁は人も知る我が国蚕桑業界の先覚者たる第一人
齢六十を過ぎたけれど、少しも屈託の無い元気な人で、蚕も桑も繭も生糸も知らぬ者に、噛んで含める様に判り易い講話をする処、如何にも明治十三年から奮起して、蚕種の改良発達に半生を過した人と首肯れる、単り甲州の八田達也に非ずして、今や日本の養蚕界に無くてならぬ元老となるまでに、翁の歩いた道は多種多様であったけれど、志業は唯蚕と桑と繭と生糸の他に出なかった
明治十七年には、始めて蚕の温暖育を試みて、洽く其の利益を唱導鼓吹する、蚕種、蚕室、蚕具、桑樹の改良を企図して、着々その実効を挙げる、秋蚕を改良するは蚕業界の急務なりと看破し、力を其の方面に注いだのみならず、蚕種の改良には最も苦心経営し、富士の風穴を発見利用して、蚕種を安全に貯蔵するの道を開き、一方では養蚕茶話、新選養蚕書など数種の著作物を公にする、請いに応じては日本全国を行脚して、養蚕に関する講話をするなど、八田達也の蚕と云うよりも、蚕の八田先生として、入ては郷土に重んぜられ、出ては全国に斯界唯一の老先生と仰がれるに至った
この矢田翁と逢ったは、皇太子殿下行啓前三日の夜、翁は大きな火鉢に両手を翳しながら、極めて謙遜な態度で、山梨県の財政難から甲州の生活難、人口が五十五万も有るに、米の産額は三十五万石位に過ぎぬ、一人が一年に一石喰うとしても、二十万石は他国から供給を仰がねばならぬ、夫れに水は悪し塩は無し、甲斐絹は有っても綿が足らぬで、着る衣物は他から仰ぐと云う有様、農業も他国に比ぶれば不便至極で、交通と云った所で一条の中央線が有るばかり、何うも四通八達の他府県の様な訳に行かぬ、僅に誇るに足る物は生糸ばかり、一ケ年に一万五千梱を産して、此の価格七百五十万円内外、甲斐絹が五十万匹で先ず三百五十万円位、繭は春秋合せて十四万石から十五万石の出来高で、今の処三万石の不足、甲斐絹原料の半額だけは、他から供給を仰いで居る、と熱心に物語る
水晶じゃ、葡萄じゃ、印伝じゃと云った所で、産額にしては僅少なもの、甲州の代表的産物としては、繭と生糸を挙げる他は無い、米の実収でも四十三年には二十五万九千七百石、麦が三十七万石に過ぎぬ程の国柄なれば、県民の生活を確実に保証するには、何うしても蚕を第一位に挙げねばならぬ、三十九年の水害で三十万円、四十年に百九十九万五千円、四十三年に百十六万五千円、三度の大水害に三百四十六万円の県債を負って居る山梨県、将来金の必要な甲州を支えて行くには、唯蚕業に信頼する他は有るまいと、八田翁は各種の統計表を示しながら、眼中蚕あるのみの気概を以て説く
その官歴としては、山梨県技師から勧業課長、甲府測候所長より転じて、東八代と北都留の両郡に長となったに過ぎぬが、蚕種、蚕業など、苟くも蚕に縁の有る団体には、会長、頭取、委員とならぬはなく、以て今日の老先生と仰がれるに至った、緑綬褒章や有功章や頌功状は唯翁の歩いた道程を記する一断片のみ、八田達也に流れる血汐は、直に蚕の血汐となって、人を彩り世を染めた
山梨県に人材無しと云う勿れ、甲州人は営利本位、自我主義なりと云う勿れ、若尾逸平は、一代にして巨万の富を得たけれど、八達翁は富まず欲せず、唯蚕と桑と繭と生糸に我を忘れて居る