東京朝日新聞1912.3.23-1912.5.2(明治45)
小さい国だとて笑う可からず、甲州には多くの特産品が有る、蚕種、繭、生糸、絹織物、葡萄酒、水晶、印伝、紙、硯、柿、栗など、中にも水晶は、特産品中の特産品として、天下に光輝を放って居る
甲州から水晶が出る事を発見したは、凡そ四百年前の昔であったと云う、当時は加工の方法も判らず、其の利用の途も開けず、唯一種の宝石として珍重したに過ぎなんだ、百年前京都の人で玉屋弥助と云う者、御岳へ来て水晶の原石を取り、金剛砂で琢磨して玉類の置物を造ってから、加工の術も漸次に進歩し、販路も段々拡張して、四十三年には十八万余円を産出するの盛況を見るに至った
今では印材を始め、室内装具、装身具などに応用され、加工者百六戸四百二十人、販売店は甲府市に二十余軒、各地方への行商人も二百余人ある、販売店の中では甲斐物産商会石原宗平、玉泉堂土屋愛蔵、精美堂越石勲の三店が、最も重きをなして居るが、数年前から互に敵視して一歩も譲らず、同業組合を組織しても直ぐ解散する、常に紛擾絶えたこと無かったが、東宮殿下の行啓を好機会として、此の三人は平生の感情を和らげ、協同して水晶玉の床置物を献上した、甲州の水晶界は、これを一転機として、反目敵視の悪弊を去り、将来益その光輝を放つに至ろう、と一楽観者は語る
茶水晶は美濃から出る、紫色は宮城から出る、甲州に出るは主として白水晶で、中巨摩郡の倉沢山、東山梨郡の竹森、中巨摩郡の黒平、北巨摩郡の増富が、重な産出地である、白に続いて各種の草入も出るが、白に対して二割強にしか当らない、仲買の手を経て原石を加工者が購い、此に様々の技工を施して販売者に渡す、売行の盛なは春の三四月と、秋口の八九月位のもので、十月から二三ケ月までは不景気だ、何分原石の価格が一定しないので、加工者と販売業者の間には、賃金問題で紛擾の絶えた事が無い、販売業者は加工者からくびり買をし様とする、加工者は又少し金の余裕が出来ると、直接行商人や普通の購客に売ろうとする、種種の原因で甲府の水晶業者は、協力一致せずして今日に及んだ、水晶業者の紛擾と云えば、又かと物笑いの種になって居たが、将来は何うなるであろう
数多い水晶加工者の中で、彫刻の名主として聞えて居るは、土屋華章と云う青年である、西八代郡市川町の人藤井直蔵の曾孫で、直蔵は自分で水晶を磨く事を発明し、金桜神社へ献上した事がある、その子宗助も加工に従事して、名手の名を馳せたが、宗助の子松次郎は松華と号し、水晶彫刻の上に新技工を試みた、今の華章は実に松華の子で、十四歳の秋から水晶彫刻に従事し、遺伝的の才分を発揮した、手工のみでは時間を空費するとて、機械応用の彫刻に着目し、数年の間苦心惨憺の結果、去る四十二年初めて機械応用の彫刻法を発明して、水晶の彫刻界に、手工以外の一新生面を伝えた
土屋華章の発明した機械彫刻は、一本の針か鑢の様なものを、足踏か手廻しの動力で、猛烈に廻転すれば、其の摩擦作用に依って、花鳥草木を自由自在に彫入するので、水晶以外の硬性玉石類も、手細工で無くて、一種の機械作用を以て、短時間に立派に彫刻し得る機械を発明した、他の加工者が三四日間を要する物も、華章は半日で見事に彫刻し得るとて、水晶彫刻界に、天才の名を馳せて居る
生糸や繭などに比すれば、年産額頗る僅少だけれど、敢て金高の多少を云う勿れ、甲州に肌白い水晶を産出する事は、真に甲州人の誇りである、甲州美人は居なくても、水晶だけで満足しましょう