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山梨県の偉人 若尾逸平翁

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若尾逸平翁
甲州見聞記 (一~三十)松崎天民著
新聞記事文庫 日本(1-002)

東京朝日新聞1912.3.23-1912.5.2(明治45)

一部加筆
八、高齢者の多い国

 「皇太子様にお上げなすって」と、甲州一国の善男善女より、差出たる各種の献上品は、県庁の一室に山の様に積重ねあり、其の中にて最も人の注意を惹けるは、高齢者が手製の品々なり

 真綿、生糸、甲斐絹、坐蒲団など、老ても女の手業を忘れず、三分心の洋灯影暗き所にて、水涕すすりつつ造りけん品品に、蒼生の赤誠こもりたるを見そなわさば、畏れ多きことながら、殿下侍医を顧みさせて「佳し」とや微笑み給うべし、甲州は山が荒れて水狂う土地柄なれど、東京より十日早く、桜花が開く気候は佳し、海抜九百尺乃至千尺の空気が好いので、男女も長命すると見えたり

 陛下の行幸、殿下の行啓に、目出度いものの一つとして、何時も重宝がられる高齢者は、此の山梨県にも沢山有る、実際の生存者に就て一々調査した所に拠れば、八十歳から八十九歳まで男九九七、女一五二四、九十歳より九十九歳まで男四九、女一〇三、百歳は郡部に男一、女五と云う割合、他に百一歳の最高齢者女一人が、中巨摩郡にあるとのこと、総て二千六百八十人の老人を有って居るは、これ又甲州の誇であろう、雨の十日も続いて降れば、雑用の井戸水忽ち赤土色に濁って、飲むに困る村落もあると云うに、高齢者が斯る多いのは、お国自慢の一つとして、威張っても宜さ相なり

 一代にして稀有の大地主となり、巨万の富を致し得た若尾逸平老人も今は九十三歳の高齢者として、甲斐一国の宝物足り、耳こそ稍遠くなったが、眼も腰も確なもので、白髪蒼顔生来の強情張は、今に至るも衰えない、四十一年に赤痢を煩って、危篤を伝えられても容易に死なず、今年一月尿毒症に罹ってからは、健康復昔日の様でないが、それでも朝は六時頃に起きて、夜は十一時にならぬと臥床に入らない、三年前の九十歳までは、漢籍を村上帰雲に就て学び、書は市河万庵の手本に依って、毎日唐紙に二千字ずつ書くと云う元気、八十の手習いとは真に此老人の事である、客を好んで能く語り、碁を囲んでは時の移るを知らず、脂肪濃い物は好まないが、淡白な物は何でも食う、殊に好物は蕎麦と豆腐で、パンなども出せば頬張る、九十三歳でありながら、老人臭くないのが逸平翁の異った所[写真(九十三歳の若尾逸平翁)あり 省略]

 何うして長命が出来ますかと、逢って聞いて見ても笑って答えぬ、芝居も講談も見ず聴かず、字を習って書くだけで、書画骨董にも趣味を有たぬ、壮年から初老の頃を、多くは南船北馬で送った、最も老人に珍とするは、餅を好むこと異常な一事で、大概朝は海苔に巻いた餅七切位を平気で食う、碁を囲んで居る折の如きは、無意識の間に餅を食うこと驚くばかり、人は若尾逸平の長命を今日の富に帰するけれど、人並勝れて餅を食っても、更に胃腑を害ねざる其の性来の健康体も、富貴長命の素因をなしたに違いない、甲州一の分限者若尾逸平は、また甲州の代表的高齢者として記するに見る[写真あり 省略]

 山梨県民五十余万が、挙って若尾家の富を謳歌して居るかと云えば、決して断じて左様では無い、然も甲州第一の富豪であり、また高齢者である一人の、荒尾逸平を有して居るは、此の山国の装飾であり、此の山国の色彩である、時と場合との幸運にも因ったろうが、兎に角一代にして二千万の富を致した、其の足跡を辿って見たなら、就て甲州健児の学ぶべき伝記と逸話が有るかも知れず

 段々齢老るに従って、気丈な男性的の面影は少くなり、今は誰が見ても老婆としか思えぬ容貌、多額納税議員であった頃には「貴族院のお殿様」と云われて居たとか、兎に角一種風変の高齢者

 
九、若尾逸平の足跡

 文政三年十二月六日に生れて、今年九十三歳の若尾逸平老人は、高齢者としてこそ珍重されて居るが、最う現代の人では無い、老人の後を享けて、今若尾家を背負って立つは、其の養子民造氏

 市街宅地が二百万円、郡村宅地と田畑山野が百五十万円、若尾銀行を百五十万円とすれば、若尾家が山梨県下に有する資産は、五百万円に過ぎぬけれども、株式その他の有価証券を合すれば、其財産実に千五百万円以上を数える、東京電灯の株だけでも、二十万株以上を所有する富豪として、丸に三ツ引を定紋の若尾家には、如何なる過去が有るであろう、如何なる歴史が有るであろう

 先祖の若尾藤三郎は、遠く甲斐源氏に仕えた武門であったが、新九郎の世となって、中巨摩郡在家塚村に住んで農に帰した、後年、智恵林右衛門と謳われた学者が出て、生れたのが今の逸平老人、後妻に出来た弟幾造は、今横浜で貿易商として富で居るが、二人とも生れた儘の長者で無かった、逸平翁は齢十八の生意気盛を江戸に出で、材木奉行の清水新右衛門に仕えたものの、志望を得ずとあって国に帰り、二十三歳まで為す事もなく暮したが、これではならぬと青年の血湧き立っては、一刻も無為にしては過されずと、桃、葉莨、野菜綿なんどを担いで、信州方面の行商に数年を送った

 二十九歳で小笠原村の若松屋へ婿養子となり、三十五歳まで辛抱したが、妻なる人が不義をした為め養家を去り、天秤棒を担いで辛酸備に嘗めた後、二三十両の金を持って甲府の町へ出で座敷借して商売する内、細田家より妻を娶りて初めて家を成したのが四十の春、半生を苦労に痩せた逸平翁にも、時代の新空気は吹き寄せて、横浜開港に生糸の売込み、繭の取引もすれば製糸場も新設して、恰も順風に帆掛けた勢い、明治五年には二十万円の富を為した、大小切の租税納付方御廃止に就き、甲斐一国に百姓一揆が起った頃には財産の半額を損失したけれど、齢六十に近い逸平翁は、志望を面倒な浮世と絶って、財産の六分を兄弟僕婢に分ち与え、自分は四万円を持って郷里に退隠した、大抵の人間なら此処等で往生すべき所を、逸平翁には未来があった、然も真に幸福の多い未来があった

[写真(東宮行啓地矢島糸製工場)あり 省略]
[写真(東宮行啓地甲府中学)あり 省略]

 明治十年製糸貿易が順調に向うと共に、旧臘に寝て居た老人は猛然として起た、西南役には不換紙幣の売買をして、一攫千金の奇利を得る、経済界の動揺に乗じては、巧に渦中を泳ぎ廻って、人の知らない儲けもした、経済界の順調やら株式市場の好況やら、要するに運命の神様に可愛がられて、甲州第一の分限者、山梨第一の大地主、日本有数の富豪となった訳だが、其今日に至るまでに、努力し奮闘した逸平老人の足跡には、人の知らない汗があろう、甲州人の気力胆力腕力を、明治の上半期に代表する一人として、若尾逸平の昔日を観るに、何の憚る所あろう、何の妨げる所あろう

[写真(東宮行啓地草薙製糸工場)あり 省略]

 今では銀行倉庫、土地、家屋の各部に大別して、当主民造氏が主宰者となり、一門の人々で経営して居るが、其の富と其の勢力には屈服しても、丸に三ツ引一家の威望が、甲州一国に冠絶し、徳望全山梨県に遍かるには、尚多くの月日を要する、「金を儲けるも好いけんど、金を散ずる事も考えねば」とは、其の富に反比例して、公共に尽す所未だ全からざるを、甲州論客の是非する所

 負け惜しみでは無けれども、其の富や羨むに価せず、唯人間一代にして斯の如くなりし所に、学ぶべき若尾逸平の力量あり、模うべき甲州人の魂性あり、豈ただに時勢のお蔭様とのみ申さんや


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