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珍しや加藤市長(甲府市) 松崎天民著

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珍しや加藤市長(甲府市)
甲州見聞記 (一~三十)松崎天民著
新聞記事文庫 日本(1-002)

東京朝日新聞1912.3.23-1912.5.2(明治45)

一部加筆
 

十七日甲府に入る、空晴れたれど八ケ岳風寒う吹いて、砂塵濛々と舞狂う、信玄公の善光寺には、名物の桜が笑い初めようと云う季節に、此の冷たさは何事を、山の頂には残の雪虎斑を描けり

 甲府に着いてから、何は偖置きいの一番に、逢いたい人一人あり、自らを語るに過ぎるかは知らぬども、県も国も郡も同じ岡山県美作国真庭郡の出身にして、旭川三里を隔し勝山の城下に生れた、今の甲府市長加藤平四郎翁が、逢いたい人のいの一番なり、逢って市長の甲州観を聞かんとするよりは、逢って先ず其の顔を見んとするのが、その逢いたさの本願なり、真底なり、掛値の無い所なり

 気の利いた村役場よりも、未だ薄暗くて穢い受付に刺を通じて、塵埃が一寸余も積って居る古い階段を上り、郡役所然たる仮市会議事堂を通り貫けて、ペンキの剥げた扉を開けば、在り、在り、当年自由党の志士、我が郡選出の代議士たりし加藤平四郎翁健在なり、広さは二十畳敷もあらん、粗末な印刷物の教育勅語の額と、世界各国国旗の軸物と、何とやら大書した大額の下、此室を市長室として、翁の甲府に市長たること足掛六年、黄面短躯、頭髪半は霜深うして、当年の意気を見る能わざるも、その目に一種の底光あって、甲州人化した面影を見る、翁も亦これ一種の漂泊人に非ざるか

 「貴君の来たことは、今朝の新聞で承知した、エラい早いが手廻しじゃなア、岡山県は何処、作州うん、うん、真庭郡で落合の人かナ、俺も長いこと帰国せんが、貴君も左様、十三四年も戻らにゃア大分様子が変って居ろう、なに、俺の選挙運動に、貴君も子供だてら割木棒を持って、演説会場へ暴れ込んだ、左様かなア、明治二十六年の事じゃ、二十年一と昔、夢に夢見るとは此の事じゃろう、先日も弁護士の小出五郎が来て、国から出ようと思うと相談したが、福井三郎も最う古いでなア、若手を出すが好かろうテ、うん、うん、甲州かな、大した所では無いよ、故郷の岡山県と似て居る国じゃ、海は無し、山は多いし、水害は有るしなア、甲州を故郷にする気持にはなれんが、俺も最う六十に近い、何処で死んでも焼くか埋められるか流されるか、はッはッはッ」と、加藤翁淋し気に笑う

 
[写真(甲府市長加藤平四郎氏と同氏の筆蹟)あり 省略]
 

 明治二十年から二十一年頃、国会開設の運動に狂奔して居た時、予等十歳前後の少年の耳に、「加藤平四郎」の名は豪傑の如く、偉人の如く聞えたものなり、演説会を中止解散させた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一同ともどもとそれを水葬に附した昔話など出て、初対面に等しき二人の間に、一種の懐し味、限り無く湧くを覚えしむ、甲府の市長でありながら、甲府の事は容易に語らず、思は夫れから夫れへと、遠き昔を辿る気の面持なり、当年の志士加藤平四郎先生が、甲府市長加藤平四郎翁となった迄には、真に長き歳月あり、二十余年の時間あり

 甲府市長加藤翁は、この二十年振の訪客に、何等甲州の新智識を与えぬ代りに、しみじみと旅の心を味わせたり、甲府市長としての現在よりも、政客たりし当年に微笑まんとする気の風情は、痛ましい「旅人の心」と知るや知らずや、翁は平気で昔を語り、「行末の短い身体じゃ、何処で死んでも宜いよ」と、云う固より私人としての話しながら、反って翁の心が読めて、其処に一種の淋しさを見る

 助役辞してより二ケ月、新任者の任命で紛擾し居る折柄、老市長の御苦労も並大抵の事で無し、未決未済の書類を持って、給仕が出たり入ったりする、加藤翁は一寸眼を通して印を捺す(甲府にて)


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