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信玄、父信虎公を追出の事 腰原哲朗氏著

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信玄、信虎公を追出の事
 参考資料-『甲陽軍艦』腰原哲朗氏著
 
 信虎公はひとかたならぬ狂気の人であられたので、おおいに怒って大声をあげておおせられるに、家督を譲るも譲らぬもこの胸三寸にあることだ。先祖代代の物を譲ろうというのに厭だというならば、弟の信繁を武田家の惣領にする、この父の命令をきかない者は追放してやれと。その時、勝千代殿は諸国を流浪したり、ほかに何か方策を考えても、なまじ父は承諾すまいと考えて、備前兼光の三尺三寸の刀を抜き放ち、使いの者を信虎公のもとへ迫い払われた。けれども禅宗曹洞宗の賢者、春巴と申す和尚が仲裁にはいられたことにより大事にはいたらなかった。
その後互いにわだかまりはとけず、ややもすると勝千代殿を信虎公は苦しい目に合わせられた。で、家中の多くの人達は皆、勝千代殿を馬鹿にした感じでみていた。勝千代殿はこの軽んじられた表情を御存知だったが、なおのこと愚かなそしらぬふりで、落馬して背中に土をつけ汚れた姿で信虎公の前に出られたりした。書もむりにまずく書き、水を浴びても深い所でおぼれて助けられ、石や材木の大物を引く場合でも弟の次郎殿は二度引けても、勝千代殿は一度きりでだめだという風であった。何もかも弟より劣る人というわけで、信虎公が勝千代殿をそしられるのにならって、家中皆それに靡いたという。
 けれども駿河の今川義元公の肝煎りで、勝千代殿は十六歳の三月吉日(一五三六)に元服なされて、信濃守大膳大夫晴信と命ずる旨の勅使が宮中より参った。勅使転法輪三条殿(三条公頼)が甲府へ下向なされ、そのおり勅命をもって三条殿の姫君を晴信へということで、同年七月お輿入れということになった。その年の十一月は晴信公の初陣であった。敵は海野口(長野県佐久郡南牧村鳥井城とも)といって信濃国に城をもっていた。ここへ信虎公は出陣なさって、敵を追いつめたが場内の兵は多い。平賀の源心法師という者が加勢に来て籠もっている。とりわけ大雪が降って攻めにくく、城はとても落ちそうな気ない。甲州勢はそこで内々相談して、城内には三千ほどの人数ということなので我攻(無理押しの攻め)ではまずいということになる。味方の兵もよもや七、八千には達していまい。それに今日はすでに十二月二十六日で暮れもせまった。ひとまず甲州へ帰陣されて、来春攻めてはいかがであろうか。敵も大雪であり、年末であり、追撃するなどということは決して考えられないことですから……と申しあげると、信虎公は納得して、では明月早々に引き返そうと決心しておられた。そこへ晴信公が参られて、それでは私にしんがりを仰せつけられたい、と所望されたのであった。
 信虎公はそれをお聞きになって大いに笑い、武田家の不名誉になることを申すものだ。敵は追撃すまいと戦いの巧者がいっているのだ。たといお前にしんがりを申しつけても、それは次郎に仰せつけていただきたい、といってこそ惣領というべきなのだ。次郎がお前の立場ならけっしてそのような望みは申し出まい、とお叱りなされたが、晴信が非常に強くしんがりを望まれたので、実現した。それではということで、信虎公は二十七日の晩に先頭にたって軍馬を引かれた。
 晴信公は東道甲州方面へ三十里ほどあとの地に残って、いかにも用心したようすで、ようやく三百ばかりの手勢を指揮して、その夜は食を一人あて三人前ほど作って、早々に出発の準備をする。足袋、行纏(脚絆に似たもの)、兵器をそのまま身に付けて、馬はよく養い、鞍も置いたままである。寒空なので、明日出発するという時、上戸下戸ともども酒をふるまい、夜七ッの時分(午前四時)になったら出かけるつもりだ、と自分で触れてまわった。内衆(家人・召使い)も晴信公が深慮なされているとは知らない。ほんとうに信虎公が悪く言うのもごもっともだ。この寒天にどうして敵が追撃などしてこようかと、部下の人々皆がつぶやくのだった。さて七ッの時分に出発したのだったが、甲府へは行かずにとってかえし、あとにしてきた城を攻略し、二十八日の暁にわずか三百あまりの兵力で、あっさり敵城を陥してしまわれた。城の内では平賀の源心法師が、側近の部下をすでに二十七日には里にかえし、源心だけは一日くつろいで、寒天なので二十八日の昼にでも発とうとのんびりしていた。他の侍も年越しの用意に自分の家に帰り、城に歩武者七、八十人のみであった。
 晴信公の軍勢は、源心をはじめとして番兵を五、六十人討ちとり、功名も何のその、平賀の源心の首だけをここへ持って参れと命じて前に置かせ、根小屋に火を放ち、あちこち油断していた侍どもを一からげに、二十、三十人と討ち捨てる。他からの加勢の者は村々におって、この度は一日休息してから帰城しようとしていた矢先だったから、なおのこと戦わずに逃げて行くのだった。その中には剛の武者がかなり居るにはいたけれども、すでに落城し、そのうえ晴信公大将一人とは思わなかった。信虎公が引き返して戦っていると思っているから、一万人によぶ人数が攻めているのだから何の応戦もできまいというわけで、女子を連れて逃げるのに急で、山の洞谷に落ちて死ぬ有様であった。まったく晴信公の手柄は古今まれなことだと、他の国の家臣にまで評判がたった。
 ところでこの平賀源心法師は、非常に剛の対で、力も七十人力との評判であった。きっと十人力はあっただろう。四尺三寸ばかりの刀を常に所持している大人で、数回の激しい戦いで働いてきた強兵である。これを晴信公は初陣で討ちとり手柄をたてたのだ。これが十六歳の時のことである。ところがこのことも信虎公がいわれるには、城にそのまま居て使者もたてずに城を捨ててきたのは臆病者だと批難されたこともあって、内衆十人のうち八人は晴信公の戦功をほめなかった。時の運だったとし、その上敵方は加勢の者もいなくなり、地元の侍も年とりの用意に城から在所に降りていて、あき城になっていたのだから勝利も当然だと、晴信公の武勲を認める者はすくなかった。信虎公へのおせじもあって、弟の次郎殿をほめる手前、心では晴伝公を讃しながら、口先ではそしるものばかりであった。弟の次郎殿とは、後に典厩信繁と申された人のことだ。
 
 とにかく、晴信公は奇特な不思議な魅力をもつ名人であられた。このような武勲をたてられてもおごること気配もなく、そらとぼけた様子で時々駿河の義元公へ書信を寄せた。次郎殿を惣領にたて、自分を嫡子から外すと信虎公は申されるが、そのおりは義元公だけが頼りですからよろしく、といろいろお頼み申されたのだ。だから義元公もまた欲をおこし、信虎公は舅(義元の妻は信虎の女)にあたるし、自分より前から剛者としてきこえているから、今は甲州一国であるが我が配下にはとてもなりそうにない。だから晴信をとりたてておけば、確実に我らが統治下に入り、そうなれば子息(今川氏真)の代までも旗下に仕えるかたちになるだろうと考えられて、晴信公と組んで信虎公を駿河へ招かれたのだ。そのあと晴信公が思いの通りに謀反をおこして成功なされたわけだが、それには今川義元公の以上のような思惑がはたらいていたのだ。しかしこの謀叛も信玄殿の御工夫が大きくものをいったのである。信虎公が次郎殿を物惣領にたてたいという意図は、重大な手ちがいであったから、先祖の新羅三郎公の御憎しみをうけて、あのように御牢人の身(浪人)になられたのかと思われる。前車を覆すをみて後者のいましめ(前人の失敗は後人の戒め)といわれるように、勝頼公はこれに学び、まずい判断をけっしてなされぬよう申上げる次第です。
 
 さて信玄公の初陣のしるしに、平賀の源心を石地蔵として祭り、今でも大門峠に碑を建ててある。刀は常に館のお弓の番所に「源心の太刀」として置いてある。武士はただ剛強なだけでは勝つことができない。勝利がなければ評判をとって有名にはなれぬ。信玄公のなされた業績を手本になされず、ただやたらと勝利と名声を望まれるから今度の長篠の戦も失敗し、家老衆を多く失ったのである。これは勝頼公の若気のいたりであり、おのおの方の配慮が浅く誤っていたからである。我らが死んだあかつきには、この書物をどうか御覧になっていただきたい。右のような御父子の事は、信虎公が四十五歳で浪人になられた時のことである。信玄殿は十八歳の時であった。
 
       天正三年乙亥六月吉日                     高坂弾正
 

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