新事実!武田信虎、志摩に蟄居する事あり
『武将感状記』熊沢正興氏著 一部加筆
九鬼菩隆、日本丸を建造し、佐久間父子遊興にふけり放逐さる
信長、本願寺門跡光佐に大坂の城地を請ひ求む。光佐許さず。信長怒りて大軍を以て攻むといへども利なし。天王寺に対塁を築きて佐久間右衛門尉信盛、其の子甚九郎に命じて代将とす。数年の間、大坂と相持す。山陽、南海、西海の其の宗旨を崇信する者、糧芻、器仗、無塩の類まで船に積みて城に納る。故に由て大坂屈せず、是に於て信長志摩の九鬼右馬允喜隆をして、その漕輸を断たしむ。喜隆は伊勢、尾張、志摩の海上にて舟師に長錬し、巨艦を造りて日本丸と号す。
これを見るに高楼を淀べたるが如し。喜隆が領地に七島あり。荒島越中は荒島に任す。三浦新助は国府に住す。
武田左馬助は甲加に住す。武田信虎志摩に蟄居する事あり。その時左馬助善くこれを過す。信虎喜んで武田の姓を与えられぬ。本氏甲加なり。
青山豊前は和具に遇す。小鹿隼人は小鹿に任す。渡島次郎左衛門は浜島に任す。此の七士各兵船を造り、是れを七捜楯と云ふ。この八艘を始めとしてあまたの舟を揃へ、喜隆、志摩より出る処に紀伊、熊野の海辺、小鷲浦、錦島、三鬼島の三ケ所にて船戦ありて喜隆皆勝ちぬ。また和泉にて谷の輪より出たる敵と戦ひて、船多く乗取りぬ。また摂津の西宮に至りて南海、西海より大坂漕輸の船と戦ひて大いにこれを破り、首級及び糧芻、器使を獲たる事計量すべからず。此より大坂の力弱る。光佐、正親町院の勅命に応じて信長と和団し、城を避けて紀伊の雑賀に移る。大坂の城は、丹羽五郎左衛門尉長秀、織田七兵衛尉信澄をして守らしむ。天正二年より相攻伐して同八年に至りて款和す。
信長、喜隆が舟師の功に由て福島、加島七千石の加禄を与へ、銘刀及び金三百両を賜ふ。堺浦に於て近国の僧俗男女、日本丸を見物して皆驚歎す。佐久間父子、堺の商人と相親しみて茶を嗜み、遊びを好み、弓欠の道を廃したる罪を怒りて、独夫となして高野山に放逐す。信盛これを憂ひて寤寐に忘るる事能はず、天正十年病みて死す。其の後、甚九郎は赦されて信忠に仕へ、信長、信忠兢に遇ふてより名を不勘と更む。