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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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宝永四年(1707)富士山噴火 『塩尻』

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宝永四年(1707)富士山噴火
『塩尻』
丁亥(宝永四年 1707)十一月三日、辰の時より駿州富士山の半傍(足高山、須走口)おひただしく燃上り黒煙天を覆ひて日の光も見えず、鳴吸音は迅雷にひとし山岳これが為に振い磐石砕け飛て数千里に散る事雨よりもしけし、灰は天に満て雲霧の如く、裾野洩辺近き里々はさな斬がら石にうたれ火に焼かれて跡なき卦も多かるとや、駿相の諸州焼砂を降して積る事四五寸計りなりしという。
行人暗に迷ひ征馬響に驚き間々疵を蒙りし類も少なからず、行先を分たすして民優に入れは富士の焼るとは聯もしらて只今天地打反し海上津波来るかと立騒ぎ罵り、山に逃れ岡に走る故に立よるべき便りもなかりしとぞ。
武城(江戸)同し日未の刻より空冥々として地響き蔀やり戸頻りに動き鳴りて人々安き心もなかりしに、やゝ暮かゝるほと薄黒き砂雪のごとく降しかは希有の変異なりとて騒ぎはへりし、亦申の時より家々燈を張て慌てふためき侍りし、夜に入て鳴動同しまゝに降下る砂は真黒にして金剛砂の如し。
二十四日・五日同じ様にて折々は暗けるに漸々士峯(富士山)の焼灰と聞き定めてそ人々少し落つきける。
有司も命を奉て見分の専有し(五奉行目付三人御小人目付六人)それより日々に下りしかば、木も草も別たず屋根も庭も一色に積りて風吹けば一度に立上がりて満天明け暮れのやうになる事も毎々なりしときゝぬ。
富士火山の歴史
それ富士山燃しは桓武天皇の延暦十九年三月十四日より燃出し圖は烟高く立上り夜は炎光天を照し、其響き雷の如く灰の下る事雨のごとく山河皆紅なりしよし舊史に見え侍る。是は山顛より焼初大なる谷となり、四月の末に止り侍りしとなん。
亦其後清和天皇貞観六年五月大に焼けて人を飛ばし民家を破りけるとそ、それよりは火気もなく侍る故にや、古今集序に今は富士の山も煙立たずなりしといへり。
さても延暦十九年より今年宝永四年迄九百八年にや成侍るらん、其中間元弘元年七月大地靂にて崩れるとかや、信濃の浅間は常にも煙はべれは人あやしともせず、西国にては阿蘇温泉など亦時々焼侍る。北邦は白山ぞ中世焼侍りて(天正十六年二月、同廿三年五月〕今も所々煙ありとかや、十二月の初相州佐川へ人の首亦は手足なと多く流れ来るも、富士の山下の村々石に打たれ形砕けてかゝる物も流れ出けるにやと旅人もうたて驚く、千年に近き迄見さりし富士の煙を、今度そ世に見侍りしかともすさましさに和歌の種とならずや侍るらん、當国へも燈烟見え侍るといふ間或あした田面に出て見侍りしに人の云うに、三州猿投山の少し南のかたにあたり、夏日立雲如くいと黒く凄まじきさまに見え侍る、其後も折々見侍りしか、同じき様に立かさね侍る(十二月四日まで稀に見え侍る)夜は烟中に閃電の如く火見え侍る。十二月八日頃より煙薄く十日の大雪にて十二日より焼止と云う。

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