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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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北杜市の巨人 八巻九万 生家と墓 水竹先生(九万の号)

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墓所から生家を見る

考資料

八巻九萬先生

『山梨共修社』編 昭和6年刊 一部加筆
 
 中央線韮崎駅頭から北を望むと、中央正面に八ヶ岳の峻峰、念場が原の裾長く、鬱蒼たる密林の上に、淡紫の靄(もや)越しに、巍峨として秀麗雄偉の體躬を抽んでている。山嶺尖立分岐、剣嶺互いにその鋭さを競うが如く高く屹立する姿は、見る人をして先ず驚異の目を睜らせる。それから東は茅ケ岳、金峰山、西は地蔵、鳳凰、駒ヶ岳の連峰が屏烈聳立し、三面悉く壅塞されて、ただ南面のみ開いている。中巻の平野は起伏する大小の丘陵と共に、南に向って漸次低く傾斜を展開し、全体の地勢がこれのみで完全な一区画を為している。甲州を古来峡と云い、山間の一国を意味していた如く巨摩郡はまた自ら峡中峡の観を呈し、甲府盆地に対し甲斐国北部に広大な大地を形作っている。この大地の中央を須玉川の渓流が水清く瀼々と巨摩郡土創成の太古から今日に至るまで殆どその儘に、夏には涼しき緑樹の影、秋には唐虹の落葉を浮かべ、春は山鶯の音に和して、冬は岸辺の氷に音を潜め、風には怒り、春光には笑い、ある時は疼く、ある時は緩く、南へ南へと流れて塩川と合流し、更に南流して韮崎の南隅の宇津ノ谷において釜無川に合流して、更に東より西に向かって流れ来る笛吹川と合流し、甲州米や塩の集散唯一の河港であった鰍沢の付近で、本邦三大急流の一たる富士川となり、駿河に入り、蒲原町の東より水天渺茫、対岸四千五百哩(マイル)の彼方に米国を望む太平洋に注ぐのである。(米国は令息彌一氏がかつて三回数年を送られた所である。)
 我が八巻先生は実にこの巨摩台地の中央八ヶ岳の裾須玉川の上流で、信州佐久往還の街道寄り小松原美しい安都那村(高根町)箕輪の豪農八巻勘弥の次男として、嘉永五年(一八五二)即ち米国水師提督ペルリが浦賀来航の前年古暦十一月四日をもって呱々の声を挙げられた。母の名はちゑ子と云った。
先生の幼名は熊太郎と云い、幼いころから資性穎悟、夙に近隣郷党の畏敬するところであった。
 先祖は誰かであるが、明確な資料が見えず今これを詳かにし得ないが、八巻家の居宅より、東方二三町を隔てて、俗称養光庵と称する広大な山林中に古い墓石が五六基ある。これに依れば父を彌右衛門と云い、彌右衛門の父を好太郎と云った。なおその他に古墓の跡らしきものが数多散在している。昔から豪家では屋敷の一隅を代々の墓所として祖先を祀っていたが、明治初年諸般の改革に伴ない墓地は一般公有地に編入された。
(註、この地方一帯では現在も屋敷墓の痕跡は多く残る。)
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