内山城の戦い
『戦国合戦大辞典③』新人物往来社 一部加筆
勝=武田晴信 敗=大井貞清
日時=天文十五年(1546)五月二十日
場所=佐久市内山
天文十五年(1545)五月三日、武田晴信は、佐久郡の内山城(佐久市内山)の大井貞清を討伐のため甲府を出発した。佐久郡海の口を経て、六日には前山城へ着城し、八日巳刻に先発隊が内山城へ向かい、翌九日には攻撃を開始した。十日には城の水の手を取り、十四日には本丸を除いて他を占領した。
内山城は佐久郡から上野国甘楽(かんら)郡へ通じる要路を押さえ、大井貞隆の子貞清が守り、上野の菅原城主(北甘楽郡妙義町)高田憲頼らと連絡をとって武田氏に反抗していた。すぐ北の志賀城とともに佐久郡では数少ない反武田勢力であった。内山城は断崖絶壁上にあり、本丸はなお持ちこたえていたが、五月二十日には開城し、城主大井貞清は城を明け渡して野沢へ下っている。この合戦の模様は『高白斎記』にのみ見えており、佐久郡側の記録は皆無であり、これ以上の詳しい経過は不明であるが、晴信が内山城を占領後の六月五日には、佐久郡の市河右馬助に感状を出して、通路馳走を褒美しており(市河文書)、さらに七月十八日には、上原伊賀守昌辰(後の小山田昌辰)を内山城の守備隊として送り込んでいる(『高自斎記』)。
こうして佐久郡はほぼ全域にわたって武田領となり、残るは笠原新三郎清繁の守る志賀城だけとなった。笠原氏は、上野国平井に逃れてきた関東管領の上杉憲政と連絡をとって武田氏の上州入りを牽制していた。翌十六年に入ると、四月十六日、晴信は大井貞清父子に甲府への出仕を促し、五月に入ると、父子は甲府へ参じ、六日には出仕している。
同年七月に入ると、再度、武田勢は佐久郡へ入り、小田井原(北佐久郡御代田町)で合戦の後、志賀城攻めを開始している。