上田原の戦い
『戦国合戦大辞典③』新人物往来社 一部加筆
勝=村上義清 敗=武田晴信
日時=天文十七年(一五四八)二月十四日
場所=上田市上田原
前年に佐久郡の志賀城を陥落させた武田晴信は、天文十七年(1548)に入ると早々に小県郡への出陣を決定した。小県郡は村上義清が支配しており、その居城は坂木(更埴市坂城町)の葛尾(かつらお)城であった。
村上氏は埴科・更級二郡を中心に、高井・小県・水内三郡をも押さえ、小笠原氏とともに信濃での最有力の大名であった。
二月一日巳刻、武田晴信は、村上氏の本拠である葛尾城に向かって出陣し、諏訪から雪深い大門峠を越えて小県郡へ入った。
翌二日には、小山田出羽守信有も小県都に出陣し、武田勢は上田原に陣を敷いた。上田原は、上田市の西方約四キロの千曲川の対岸の平地であり、村上義清も坂木から出陣して千曲川を挟んで岩鼻の地に本陣を敷いた。
二月十四日、両軍は上田原で激突し、『勝山記』によると、甲州勢が打ち負けて、板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門尉などの大将が討死し、晴信も手庇を負ったという。わずかに小山田出羽守信有勢のみが奮戦したが、大勢は武田方の大敗北であった。
晴信は、その後も上田原から撤退しないため、『高白斎記』によれば、それを心配した駒井政武らが、御北様(晴信の母)に使者を遣わし、退陣の説得を要請している。その結果、三月五日になってやっと諏訪上原城へ帰陣した。
上田原での敗戦は、それまで順調に進行してきた武田氏の信濃進攻策に一頓挫をきたした。小県郡への進出はおろか、いったん占領した佐久郡の維持も困難な状況になってきた。
四月二十五日には、村上勢が内山城を攻め落とし、佐久郡における武田方の拠点であった前山城も佐久衆に奪取された。