戦国の合戦 川越の合戦
『武家事記』山鹿素行 新人物往来社 一部加筆
武州川越城は、扇谷朝興(上杉修理大夫)の居城なり。初め朝興同国江戸を居城とす。
大永四(1524)年、上杉家臣太田源六、源次、北条に内通して朝興を背く、これに因り北条氏綱、正月十三日品川小杉に出張して朝興と戦う。朝興敗北して、江戸を捨て直ちに川越城に楯籠る。
天文六年(1537)四月朝興病死す。嫡子朝定(五郎)十三歳にて相続す。其の年七月十一日、北条氏綱川越を攻め落とす。朝定は同国杉(松)山の城に逃れ入る。これにより上杉家ひとたび川越還住のはかりごとをなす。朝定、上杉山内忠政と示し合わせ、天文十二発卯年(1542)九月山内上杉憲政、扇谷上杉朝定(十九歳)両大将関東八箇国の勢を揃え、合わせて八万余騎にて武州沙久保に本陣をすえて、先勢を以て川越の城を囲ましむ。
其のころ公方晴氏は、北条氏綱の婿となって下総古河城に居住し、関東の
諸将又この命を重んず。このゆえに上杉憲政かねて使者を遺し、晴氏を味方に引きつけ、北条退治においては、以前のごとく鎌倉にましまして、関東の公方たらしめん事を約す。これに困り晴氏外戚の好みを忘れ、上杉へ合力あって、十月二十七日晴氏既に川越へ動座し、分国の諸将悉く相集まりて、川越の城を昼夜これを攻む。
この城無双の名城なり。殊更上杉還住の競望たえざれば、必定上杉大軍を以てこの城を攻むる事あるべければ、その時堅固に籠城せしむべき大将を選び、相州甘縄の城主北条左衛門大夫綱成(後上総介に改む)手勢五百騎に、伊豆、相模の兵士三千飴騎をすぐって籠め置く。綱成、北条家の勇将、世に直八幡というほどの者なれば(網成指物地黄、四万に八幡の字を書く、故に人皆曰く地黄八幡、之を翻し直八幡という)、八万の大軍を引き請け、昼夜の戦い更に利を失わず、是によって上杉力尽き、此の城の体たらくへ力攻めにして落とすべからず、唯粮道を断ちて食攻にせよと下知して、諸手皆陣々に引退きて模造を断ちて速攻めにいたしてけり。既に今年も暮れて、明くれば天文十三年(1544)、川越の城堅固なりといえども、両年の籠城に士卒疲れ、粮道つきて危うければ、則ち氏康後責の催あり、其切ころ駿、甲の境目及び房州への手あてとして、三浦に兵を残し、小田原に留守を置き、わずか手廻の兵士八千に過ぎず、此の小勢を以て、八万の大軍に向かわん事、衆寡を以て、云時は十に一つも勝つべき処あらずといえども、軍の勝負は智謀計策のより処にして、必ず大小によらざる事なれば、氏康かねて手段をもうけ、晴氏へ使節を通じ、此の度川越の城兵力尽き飢に及ぶの間、命ばかり助かりたまうごとくにはかられたせわば、城井びに領地をば晴氏に献ずべし。氏廉僅かの小勢にて後詰めの義存じ寄らざる問、此の旨晴氏に嘆申の由、度々云い遺す。晴氏此の事を聞いて、弥勝に乗って氏康をことともせず、両上杉此の事を聞き、さてこそ氏康よりも後詰めかのうべからず。川越の落城旦暮にあり、此のついでに小田原へ発向せしめ、氏康を退治肘拭い無しとさぎめく。氏康又小田の政治が陣代菅谷隠岐守が元へ使を通して川越落城疑い無き間、せめて北条綱成が命を何とぞ助けたまわれ、左あらば川越をば其の方へ渡し、上杉と無事になし引きとらんと云いおくる。上杉此の事を聞いて、耳にも入らず、弥大軍にほこって、氏康を事ともせず、其の時分を考えて、氏康後詰めと号し入間川の辺まで出勢す。上杉きいて、則ち人数を氏康が方へさし向いたる。上杉勢出向と聞いて、氏康急ぎ小田
原へ引返す。かくのごとくする事二三度に及んで、民度ひそかに忍びを入れて、上杉方の取沙汰を聞くの処、諸大将皆議しけるは、氏康の小勢にて後詰めかなわざる事こそことわりなれ。二三度出勢しても上杉へ手向いは成らざる事尤もなり。重ねては氏康出たりとも其の分にさしおき、少しもかまうべからず。取合はざるともやがて引取るべし。彼が小勢を以て此の大軍にかけ合わせん事沙汰に及ばずと各評定すと聞ゆ。この旨憶にきき届け
て、四月二十日の晩、無二の一戦をとぐべし。小を以て大をうつ事は夜軍に過ざる事なれば、この度も夜軍をしかくべしと諸将密議をなし、民度軍令を出し、合図には(胴)肩衣合詞を定め、敵なりと云えども、白き物を著せしものを伐つべからず。打捨てにいたし、首とるべからず。引揚よと、相図の貝をならさば、敵と切り結ぶと云うとも引揚ぐべしと、三箇条の法を堅く定め、多目周防守をひかえ備えとす。
然ればこの旨城中へ通ぜずしては、綱成先立ちて城を陥ること計り難し。ことには内外なれ合いて、合戦をなす図を考うべしと議す。然れども大軍取り囲む処の城中へ入るべき様これなく、いかがあらんと云う処に、氏康の籠男福島弁千代(綱成弟)いまだ十七歳 (或は云う十八歳)なりけるが、此の使をこいうけて行かんことを欲す。
然れば主君への忠と云い、兄弟への誠と云い、尤も然るべきとて、則ち弁千代、この使を承りて、大軍とり囲める中を、髪をちらし形をかえて城外にいたる、城中木村と云ものみしりて、やがて城中へ入り、氏康の手段を通す。城将士卒に至るまで、大いに勇みて、いよいよ気を励ます。而して氏康は相図るごとく、四月二十日に出勢して、砂久保の辺に陣取る。上杉勢運の極なれば、更に事ともせず取り合わず、氏康はかりすまし、其の夜の夜半ばかり、月も曇りて定ならざるに、上杉が本陣砂久保へ切ってかかる。
上杉勢にわかの事なれば、ことの外に周章して、前後に途を迷う。上杉が本陣小野播磨守、本間近江守、倉賀野三河守、難波多弾正をはじめとして、ことなる大将皆戦死しければ、憲政かなわずして敗北す。
一陣敗れて残党全からざるためしなれば、上杉さしもの大軍一時に崩れ、夜中物の分も見えず、皆同士打をいたす。其の内に氏康のひかえ軍多目周防守能く図を考えて、揚螺(あげがい)を吹き、諸卒を引きあげて氏康を守護し、松山城へ引入る。
川越城をとりまきし軍勢、悉くみだれ、或いは氏康の旗本を討たんと云い、或いは川越城を攻めんと云いて、詮議まちまちの処へ、城中より綱成ついて出て悉く打ちとる。
凡そ今夜中上杉勢うたるるもの一万除、疵を蒙るもの一万余なり。さるほどに上杉譜代の士太田源右(左)衛門、藤田左衛門佐以下、皆氏康へ降参し、氏原は竜の雲をうるごとくなれるなり。
是より上杉家再び振わずして、天文二十年(1551)ついに北越に逃れて、長尾輝虎に上杉の名字をゆずり、管領職たらしむるなり。其の本此の一戦に利を失えるゆえなり。
北条左衛門大夫綱成元福島氏、父は福島土総介正成と号す。遠州土方の城主なり。大永元年(1521)正成、武田信虎と甲州飯田川原にて合戦して討死、綱成七歳にして小田原へ浪々、北条に属す。後氏綱の寵男として婿たり、北条氏を与られて相州甘縄の城主たり。
古河の晴氏、元氏康に従うといえども、難波田弾正並に小野三河守等此の度讃訴しけるは、北条久々の外戚たりといえども、ついに公方を引立て、鎌倉還住の事あらざれば、此の度幸い上杉が力を頼みたもうて、還住の計然るべしとしきりに諷諌す。これにより晴氏すなわち上杉に属す。此の一戦上杉大敗軍に付て晴氏の軍勢皆敗る。其の後氏康、軽部豊前守を使者として(総州関宿の城主桑田中務大輔)方まで申し送り、晴氏を恨み奉る。川越夜軍は、北条綱成川越城を堅固に持ん、多目周防守がひかえ軍をつとめけるゆえに、始終の功全かりしなり。故に氏康此の両人を抽賞せらる。
世俗に天文七年(1538)七月十五日の夜軍なりと云う事甚だ誤れり。天文六年(1537)七月川越城落ちて、上杉朝定没落のことを云い違えるなるべし。氏康の父氏綱天文十年に卒す。若し天文七年ならば、氏綱の代なるべき事なり。『甲陽軍鑑』に記す所誤りなり、これを用うべからず。氏康三十歳の時の事なり。松山城は元上田左衛門居城、其の後難波多弾正が居城なり。難波多弾正川越の夜軍に古井戸に落ちて死す。これにより松山城あきたる故に、此の城へ氏康取り入るなり。又云う、松山難波多が後、太田実操守入道三楽在城、川越夜軍に、太田三楽等皆敗軍に付いて、松山をあけすてて引退く。氏康是れへ入れかわりたまうと、太田が日記にこれ出づ。両説迫って考うべし。