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上田城の戦い

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上田城の戦い

『戦国合戦大辞典③』新人物往来社 一部加筆
 勝=真田昌幸 敗=徳川家康 
日時 天正十三年(1585)閏八月二日  
場所 上田市上田
 
天正十年(1582)三月、武田氏は滅亡し、その家臣であった真田昌幸は岩堰城(いわびつ・群馬県吾妻郡中之条町)に在城し、いち早く織田信長に臣従の礼をとって、厩(うまや)橋城へ入城した滝川一益に従って旧領を安堵された。しかし六月二日、本能寺の変によって信長が死去すると、小田原の北条氏直が上野へ進出し、さらに信濃へ入って佐久・小県郡を占領した。
昌幸はいったん北条氏に従ったが、徳川家康が甲信で北条氏と対立するに及んで、九月、弟の加津野信昌らのすすめによって家康に帰属した。同年十月、北条・徳川の講和によって上州沼田領は北条領となり、真田氏は旧領であった上田城へ移った。
 天正十三年(1585)七月、北信を制圧していた越後の上杉景勝が東信に進出してくると、昌幸は二男の弁丸を人質として景勝のもとへ送り、景勝に臣従してしまった。
真田氏の離反を怒った家康は、ただちに鳥居元忠、平岩親吉らの甲州勢に命じて上田城を攻撃させた。閏八月二日、大久保忠世や武田氏遺臣も加えた徳川軍は、上田城に総攻撃をかけ、応戦した昌幸は数々の奇襲戦法によって攻撃軍を撃退した。
さらに、昌幸は敗走する徳川勢を追って神川まで出撃し、同時に対岸の戸石城から、昌幸の長男信幸も出撃して徳川勢を攻撃した。
徳川勢は大敗して後退した。ついで、徳川勢は真田氏の支城である丸子城を攻めたが落とすことができず、その後、小競合いがあったが、十一月に石川数正が家康に背いて豊臣秀吉のもとへ走り、この事件を契機として信濃から徳川勢は引き揚げた。

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