大森義憲(山梨県郷土史家 文人) 追悼
「中部文学」一瀬稔氏著 一部加筆
去年の十一月二十五日の夜、大森義憲死去の電報が届いた。
勲五等双光旭日章を受章され、十一月三十日に地元の富士急ホテルでその叙勲祝賀会が催される手筈になっていた矢先のことである。それに十二月十一口には『中部文学』同人の中村鬼十郎氏の山梨県文化功労者受賞の祝賀会があり、その会に出席の返事をもらったばかりだった。
大森さんは八月末ごろから持病の心臓疾患で吉田市内の病院に入院され、治療を受けていた。そのことを知ったのはほぼ一カ月余り経ってからだったが、とにかく一度お見舞いに行かなくてはと、だいたい日を決めて友人の車で伺うことになっていた。ところが予定していた当日生憎の大雨だったのでとりやめ、いずれ日を改めて行くことにしていたのだが、そのうち大森さんから退院して目下自宅療養中との知らせを受けた。十一月初めごろだったと思う。
そんなわけでとうとうお見舞いには伺えなかった。自宅に帰ったので暫く静養すれば健康を回復されるだろうと、内心ホッとしていたのだが、今になって考えればやはり会って置くべきだったと悔まれてならない。
告別式には都合がつかず、二日後の二十九日に知人の車で内田画伯同行、忍野の大森家へお悔やみにうかがった。大森家の奥の間の仏前で、ぼくらはすでに帰らぬ人となった義憲さんの遺影に対面した。もう二度とこの先輩と盃を交わすことが出来ないと思うと、何か切なく胸が詰まるばかりだった。去年の一月も畏友鈴木久夫を失い、告別式の仏前で同じ思いに胸をしめつけられた。そのことがフッと頭をかすめた。
大森義憲は郷土研究家としての功績はいうまでもなく、折口信夫の愛弟子であり、その直系の民俗学に造詣が深く、なお歌人としても優れた業績を残されたが、そうした面については他に誰か書かれると思うので、ぼくはここでいつも顔を会わせれば酒中の人生や、文学を語り合う人間としての素肌の義憲さんについて少しばかり触れたいと思う。
大森さんとのつき合いはもう三十年余りになる。もっとも大森さんは『中部文学』創刊当時(昭和十五年)からの同人で、そのころは椎葉何とかというペンネームで短歌を発表していた。大森さんと個人的に酒を酌み交わすようになったのは戦後二十五、六年ごろではなかったかと思う。そのころほかに友人二人と忍野の大森宅へ押しかけ厄介になったことがあった。まだ四十代の若さで、それに皆屈強の飲み手揃いだったので、昼日中から深更に及ぶまでドブロク(当時は清酒が配給制で思うように飲めなかった)のご馳走になった。
大森さんと歌仙というものをはじめたのは、たしか昭和三十二、三年ごろだったように思う。大森さんは当時信立寺の住職で郷土研究家の塩田義遜氏(故人)と二人だけで連歌をやっていて、たまたま両氏の酒席に招かれた折、ぼくにも仲間に入らないかと誘われた。その方には全くの素人なので一応断ったのだが、どうせお遊びだから気軽にやりましょうと軒引に言われ、それから両先輩の指導を受けながらはじめたのだった。(大森さんはそれより前から師の折口信夫を中心に同好の弟子たち何人かで時々歌仙を巻いていた)。
当時『中部文学』育ての親である農民作家石原文雄氏が中風で倒れ、市川大門の自宅で療養生活をつづけていた。
石原さんは小説が書けなくなったので、手なぐさめに俳句を作って時々『雲母』などに投句していた。かねがねそのことを知っていたので、ぼくたちは石原さんに歌仙の仲間に入ってもらおうではないかと提案、さっそく三人で石原さんの純床を見舞い、承諾を得た。
ぼくたちとしては、そんなことで石原さんの病床のつれづれが少しでも慰められればという気持ちがあってのことだった。その時の床の上に坐った石原さんを囲んで撮った写真が今でも手元に残っている。
石原さんは重点の小平に移ってから逝くなる少し前まで、約七、八年間ほどぼくたちの連歌の仲間入りをしてもらった。もちろんハガキで順に廻すので日数はかかるのだが、その間塩田氏が逝くなり、あと鈴木、備仲君が入り、両君が逝くなったあと俳人の加賀美子麓氏に参加してもらい、ずっと続けてきた。
それらの歌仙はすでに何巻か『中部文学』誌上へ掲載されて今日に及んでいるが、何にしてもこんなに永く続いたのは一つは大森さんの熱意とはげましがあったからだと思う。
大森さんは郷土研究会の会合その他の用件で甲府へ出て来られると、たいていぼくのところへ立ち寄ってくれた。家で喫茶店を始めてからは店の方へ見えて、会合まで多少時間があるとカウンターで銚子二、三木傾けてから出席された。そして出がけには、会が終わったらいつもの酒場で待っているからと言って、会そのものよりも、あとで一杯やるのが何よりもたのしみ、といった風に見受けられた。
以前は飲み屋で時々連句をひねったりしたものだが、そんな場所で顔見知りの文学仲間がいく人か見えたりすると、飲むほどに酔うほどに、侃々諾々、お互いに自己主張がはげしく、しまいにはてんでんばらばらで、何を論じ合っているのやら判らないような騒ぎになるのが落ちだった。
大森さんは酔いがかなり廻っても意識は割合しっかりしていて、周りのものがこれくらいで切り上げたらと心配するのだが、次々に行きつけのバーを思い出してはつい三軒四軒と梯子するのが常習みたいだった。
ぼくの家で旅館をしていたころは、家へよく泊まってもらったが、廃業してからは遠慮されてかぼくの紹介した宿へ泊まるようになった。
そんなふうで晩年の大森さんは気心の知れた文学仲間と慣を合わせると、飲み且つ放談するといったフンイキを何よりも好んでいたように思われる。
大森さんは専門の民俗学や短歌のジャンルだけでなく、文学全般にわたって関心が深く、一見識を持っていて、時に手きびしい批判を下した。
伊馬春部氏とも親しくされていたので、伊馬氏の台本が上浜されると必ず観に行かれ、会うと詳しく私見を述べられた。
慶応に在学中西脇順三郎氏の講義を聴いていた関係で、よく西脇さんのことを話された。入院中最新刊の『西脇順三郎詩画集』を講読したと言って、その寸感を認めた手紙をもらったが、それが最後になった。
ふだんは無口で、はにかみ屋で、社交性に乏しく目立たない人柄だった。野人的な風格があり、(ぼくらはそこに特に親近感を抱いたのだが)彼は人なつっこく、やさしい温かい心の持ち主だった。酔うと上気嫌で、それがいつも口癖になっている「おろかな」「おろかな」という言葉を連発した。その時の笑みを含んで細めた眼鏡の奥の限がいつもやさしくまばたいていた。
西行峠 故大森義憲氏
「中部文学」一瀬稔氏著 一部加筆
鳳来ゆ市山の深きに真昼間も仏法僧の鳴くがいとまし
山の端の街角にして山梨の人雨畑硯の店を出しゐる
蓬莱寺ゆ山の深きに伊馬春部の観光のために書きし書のあり
山深き長者屋敷の橋の下の河原に石仏ならべられをり
西行峠越え下りきて柔かごを負ひたる人の老いてゐますも
西行峠のぼりとなりて旅芸人入るを許さずと道標のあり
大黒天の岡にわづか銭そなへゑびす講の赤飯(おこわ)はむなり
里神楽
精進古関がけ下の空に小春日の柳の吹きながしただよひてをり
下部丸畑とたどりゆき木喰仏きざむ人膚せたるそびら
この人も永き来歴のあるならむ木喰仏をきざむをながむ
蔵王権現山の深きに鼓川流れどよもす一日をこめて
カルサンをはき原稿書きてゐし藤村語りし日すら遠くはるけし
大黒天像の祠は蔵王の山深く昼も灯ともすなり金桜の庭
春朝雑詠
ほかなさは生命終りになりゆくや葉桜の葉の厚きに朝光
投げ入れの矢車草に菜の花の狂女のおもかげ朝の窓際
かつこうが窓辺に近く親しげに鳴きとよもす時の間なれど
ひたひたと肩たたきゐし野妻肩もみの歌作れよと云ふ
朝のテレビ釜無川の鮎釣りの銀鱗のうごき南画の眺め
老年
生き死にの忽ちにして父祖父も物言ふことなくゆき給ひたり
さしこみの痛みはげしく及ぶとき水枕の故ひ助け乞ふなり