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素堂、秋、芭蕉に「四山瓢名」を与える。

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素堂、秋、芭蕉に「四山瓢名」を与える。
    
瓢重泰山 自笑稱箕山
慣首陽山 這中飯顆山
一書… 〔莫慣首陽餓〕
素堂自筆懐紙……『蕉影余韻』所収。
瓢銘 芭蕉庵家蔵(右の四山瓢名)貞享三年仲秋後二日  素堂山子書
(貞享三年八月二十二日)
芭蕉……「瓢の銘」読み下し
一瓢は泰山より重く 自ら笑って箕山と称す
首陽は餓に慣ふことなかれ 這の中に飯顆山あり
顔公の垣穂に生へるかたみにもあらず、恵子が伝ふ種にしもあらで、我に一つの瓢あり。これをたくみにつけて、花入るる器にせむとすれば、大にしてのりにあたらず。小竹筒に作りて、酒を盛らむとすれば、かたち見る所なし。ある人のいはく、「草庵のいみじき糧入るべきものなり」と、まことに蓬の心あるかな。
やがて用ゐて隠士素翁に乞うて、これが名を得さしむ。その言葉は右に記す。その句みな山をもつて送らるゝがゆゑに、四山と呼ぶ。中にも飯顆山は老杜の住める地にして、李白がたはぶれの句あり。素翁李白に代りて、わが貧を清くせむとす。且つ、むなしき時は、ちりの器となれ。得る時は一壺も千金をいだきて、黛山もかろしとせむことしかり。
もの一つ瓢はかろきわが世かな 芭蕉庵桃青
 
口語訳… 『芭蕉俳諧の精神』赤羽学氏著

顔回の垣根に生えた夕顔の子孫でもなく、恵子が伝えた種でもなくて、自分の家に一つの瓢がある。是を細工師に依頼して、花入れにしようとすれば、大きすぎて規格にわない。竹筒に作って酒を盛ろうとすれば、恰好が悪い。ある人の言うには、草庵の大切な食料を入れる器にするのがよい。なるほど自分はこせこせした狭い心の持ち主であったことだ。早速米入れに使うことにして隠士素翁に願って、この名前をつけてもらうことにした。その言葉は右に記した。

その詩句に皆山の字を付けて贈られたので、四山と呼ぶ。中でも飯顆山は老荘が住んでいた地で、李白が杜甫に戯れた詩がある。素翁は李白に代わって、自分の貧を清貧としてくれた。その上、空である時は、塵のたまる器となれ。米を得た時は、一壺千金を抱いて、その重きことは、黛山も軽いと感ずる。それはもっともなことだ。
〔俳諧余話〕
異同 『七柏集』蓼太編。天明元年(1781)刊。
顔公のちまたにおへるかたみにあらず、恵子のつたふたねにもしもあらず、我垣根にふたば生いでゝより、軒端はいまとはりて、終に花さき実を結ぶ。大き
さ五升ばかり。云々
《註》…この瓢は後に二代目市川団十郎(俳名、柏筵)の手に入り、歴代の市川家に伝えられたが、関東大震災の折焼失した。
《註》…市川団十郎について
山梨県三珠町は歌舞伎の市川団十郎の発祥の地であると云い、立派な歌舞伎会館建っている。『近世奇跡考』によれば、江戸の俳優市川団十郎は堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯(165
1)、江戸に生まれる重蔵は下総国成田の産(或云、佐倉播谷村の産、役者大 全に云ふ、市川村なり)江戸にうちり住。曾て任侠を好み、番随院長兵衛、唐犬十左衛門と友たり。団十郎生まれて七夜にあたる日、唐犬十左衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし。初名を段十郎とよび、後に團十郎に更む。曾て俳諧を好み、舊徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。(中略)延宝三年(1675)五月、木挽町山村座、凱歌合曾我といふ狂言に、曾我五郎の役を始めてつとむ。時に二十五才。延宝八年(1680)不破伴左衛門をつとむ。
衣装の模様、雲に稲妻のものずきは、
稲妻のはしまで見たり不破の関
といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。
〔俳諧余話〕
……歌舞伎俳優の俳号について
江戸や大阪を中心に歌舞伎俳優の俳諧活動は盛んで、『俳文学大事典』によると、初代市川団十郎は才麿を師と仰ぎ、自ら才牛と号した。その子二代目団十郎は格別に風流に親しみ、其角の門に入り、三升・才牛・栢筵と号し、著書『老のたのしみ』其角、破笠等との交流などが記されていると云う。
素堂はこの初代市川団十郎と並び称された俳号「少長」の中村七三郎〔寛文二年(1662)生、~宝永五年(1708)歿、年四十七才〕との交流が深く、『梅の時』には素堂の序が掲載されている。
〔素堂余話〕
『日本随筆大系』巻の四、「寸錦雑綴」作者不詳。には素堂筆の「四山の銘」のある米櫃は、
芭蕉庵米櫃、柏筵所持 五粒に伝え今は三桝に 蓋木黒ヌリ。伝懇望〆一見写之
とあり、銘が掲載されている。素堂の号は「葛飾隠士素堂」とある。
『日本随筆大系』巻の十四、山口素堂「立軸臺表具」『一話一言』大田南畝著。芭蕉庵家蔵として「四山の瓢」がある。
興味があるのは、号で、素堂山子、花押、我思古人とある。
《註》
四山の瓢-『鵲尾冠』越智越人編、巻頭。享保二年(1717)刊。
歳旦
此発句は芭蕉、江府船町の囂に倦、深川泊船堂に入ラれし、つぐる年の作なり。茶碗十ツ、菜刀一枚、米入るゝ瓢一ツ、五升の外不レ入、名を四山と申候。
似合しや新年古き米五升   芭蕉
内田魯庵氏著『芭蕉後伝』所収
是眞が写生したものに、瓢の高さ二尺三四寸、直径五寸程の細長いもの、素堂の銘は朱塗で書かれてある。四山の名が上にあって下に素堂の銘が二行になって居る。
《註》
『芭蕉後傳』 内田魯庵著。
是信が写生した原形のまゝの大瓢を見しに「高さ二尺三四寸、直径五寸ほどの細長き形にして、素堂の銘は朱塗にて認められ、其背部に黒漆を以て塗りたる鉄環あり」とある。-『芭蕉の全貌』萩原羅月氏著。
〔俳諧余話〕
『芭蕉後傳』(二)「芭蕉の学識修養」内田不知庵著。
(芭蕉は)儒学は伊藤坦庵に学び山口素堂に益を享けたり。漢士の文芸殊に経学に精通したる事跡傳らざる上に林門の一書生にて不熟の悪詩を残せし素堂をすら詩に精して称したるほどなれば、造無有で造詣の度は想像すべしといへども白氏を渉獵したるの痕跡は明かに俳句の上に見えたり。云々(芭蕉の)勿論学才と眼識とは明かに時流を超えたれども修養の深浅広狭を以て比ぶれば季吟の篤学なる素堂の博文なる由的な精通なる其他猶ほ芭蕉に勝る者多かりしなるべし。云々貞享の末頃、芭蕉が素堂の需めに應じて、和漢朗詠集を浄書したことがある。其れは芭蕉庵に於ての書写であらう。此處に掲げてある寫眞版がそれである。(東京伊藤松宇氏所蔵)
本間道意
…本間家四代道意は道仙の實子で、醫を南臺先生に学び、俳諧を麥林舎乙由に受け、墨齋左右と稱し(略)其頃閣老安部能登守吐花と號し、俳諧に高名であった。或時左右吐花邸に召され(略)家蔵の舊翁真跡を所望されたので、止むを得ず、鹿島詣の草稿、山口素堂十三夜の清書したもの、其他一品都合三點を吐花侯に献上した。(略)素堂亭集残り発句一幅、芭蕉が読み、抜き書きした著聞集(略)などが傳へられた。
素堂の社中
…『日本随筆大系』には素堂関連の記事が二三掲載されている。
「社中と云事」『鳴乎矣草』(文化三年板) 田宮仲宣著。
社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいえり。社中と云は、廬山の恵遠法師、庭際の盆地に白蓮を植て、その社を白蓮社と云。劉遺民雪次宗宗炳等の十八人、集会して 交りをなす。これを十八蓮社といふ謝靈運、その社に入んことを乞ふ。恵遠、謝靈運が心雑なるを以、交りゆるさず。斯る潔白なる交友を集、蓮社の交と云。然るに芭蕉の友人山口素堂師、致任の後深川の別荘に池を穿、白蓮を植えて交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧専ら社中と云事流行しぬ。云々。

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