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**芭蕉水役について 『増訂 武江年表』昭和43年刊

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**芭蕉水役について 『増訂 武江年表』昭和43年刊
  (斎藤月岑著・金子光晴校訂 東洋文庫116 平凡社 )
 一部加筆
  承応二年(一六五三) 六月閏
今年、玉川の上水を都下に通じて、衆庶の用に充てしめ袷ふ。
△玉川上水は、遠く西の方甲州丹波山の幽谷に発し、同国丹波村を過ぎて武州多摩郡に至る。甲州一の瀬より留津浦(とつうら)村迄七里余、夫より羽村まで十三里、夫より六郷迄十六里許にして、羽田浦より海に会す (凡そ四十余里)。
承応元年の春、玉川庄右衛門並びに清右衛門といへる者承りて、羽村より江戸までの水道を考へ、同十一月上水道掘割の儀を命ぜられければ、翌巳年初夏より仲冬に至り、羽村より四谷大木戸迄掘り渡し、虎御門まで玉川の水を掛けられしとぞ。其の後諸方武家方市中に分水して日用とす(赤坂御門外玉川稲荷社は、この玉川庄右衛門勧請するところなり)。
△神田上水を開かれし事は、其の始め慥かならず。
 「武徳編年集成」に、大久保某天正中に台命を受けて水道を考へしより、多摩川の清泉を小石川より引かしめられしといへるは、則ち神田上水の事なるべし、沾涼が説には、江戸繁昌につき此の池水ばかりにては不足なる故、承応に至り玉川を助水にかけられしかといへり。
中古神田上水御再修のとき、藤堂家より御手伝ひとして、松尾忠左衛門(一説甚七郎ともあり。俳師芭蕉翁の事也)掘わりの普請奉行たりしといへり(『俳家奇人談』には、此の時傭夫となりしと云ふ。文壇より少し上の方に竜隠庵といへる庵室ありしも、芭蕉翁此の地を愛して旧址をとゞむるといへり)。此の事世上に伝ふるをもて按ずるに、翁は寛文十二年九月始めて東武に下るといひ、又薙髪したるは丁年置いて延宝二年なりと。されば翁が俗体にて江戸にありしは僅かに一年の余なり。此の頃御普請の事行はれしなるべし。
 
 『筠庭』云ふ、こゝに引く『編年集成』の説は妄なり。
 「見聞集」に、神田明神山岸の水を北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、此の二水を江戸町へ普く与へ賜ふとあり。神田上水と云ふ事は是れなり。御入国以来、猪頭の池水を御公儀御入用を以て、上水道に仰せ付けられ、町年寄承り相勤め、玉川上水道は清右衛門、庄右衛門請負ひ申し候に付き、水道端の村々へ我儘申し掛けざるため、又村々に水道へ不浄なる儀仕らず侯為め、
 寛文年中玉川上水羽村と申す処より、代々木千駄ヶ谷村迄十三里程の間、水道両端三間通りづゝ召上げられ、水道南之方は喜多村彦兵衛、北之方は奈良星市右衛門拝領仰せ付けられ仮に付き、右三問二十三里程之場所、其節自分入用を以て、松杉の苗木植え置き申し供云々。此の書き上げ事長ければ略す。
桃青が水道にかゝりたる事も其頃の日記にあり。こゝに云へるは非なり。
△神田上水は井の頭の他に発し(多摩郡牟礼村)、
善福寺池(同郡廃寺の旧跡也)、妙正寺池(同郡)、多摩川の分水等の諸流中、荒井村の末に至り合して、神田上水の助水となる。今其地を落合村といふ(水流落ち合ふ故の名なり)。牟礼村より落合迄十二村
を経て高田村に至り、目白台の下にて二つに分かれ、
一流は余水にして大洗堰より江戸川に落ち、
一流は上水にして小日向を廻り、水府様御殿の中を東流す。
すべて牟礼村より受に至るの問、樋なくして流るゝを自堀と号す。其の水流御茶の水掛け樋を伝ひ、小川町を経て神田に至る故に、神田上水の名あり、又南は京橋辺、東は木材木町通り、両国の辺、浜町等に至る、町数凡そ二百七十丁程に及ぶ。
△両上水専ら通ぜざる前は、赤坂溜他の水を引き、其の余所々の水溜まりの池水を、ここかしこに引きて用水としたりしかば、殊に不自由なりしに、此の上水の出来て、万民ほしいまゝに汲んで快楽の思ひをなす事、誠に御恩沢仰ぎても猶あまりありとやいはむ。

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