山梨文学講座山口素堂の実像素堂の姓名と号
素堂は官兵衛を名乗っていない
素堂は市右衛門を名乗っていない
山口素堂の伝記は概ね文化十一年に編まれた『甲斐国志』の記述が基になって現在まで各書に紹介されている。
『甲斐国志』の編纂は幕府の要請で始められて書で、集められた膨大な調査資料や踏査の中から取捨選択して出来たもので、一時期甲府勤番支配松平正能が編纂主任となっているが、実際は内清右衛門や森嶋弥十郎それに村松弾正左衛門らの手により編集されたものである。
当時の山梨県を記す歴史書とすれば価値あるものであり、現在でも山梨の歴史を語る場合はバイブルとして活用されている。が、その内容の全てが正しい訳ではない。それは随所にわたり曖昧さと不正確な箇所があるからである。これは編纂者の努力と苦労の及ばない部分が多かったからではなかろうか。『国志』編纂当時残された歴史資料は散逸していて、激しい時代の変遷に歴史に対する甲斐の人々の認識も薄れ、しかも過去は忘れ、常に新しい世界を切り開くことに専念しなければ生活出来なかった時代背景が大きく作用していて、編纂に携わった人々の苦労が忍ばれるのである。しかし私の調査研究からは山口素堂に対する『甲斐国志』の記述は実証されるものは少なく、そのまゝ「素堂伝記」として信じられる著述内容ではないことが明らかになった。ここにその一端を述べて多くの人々のご批判を仰ぎたい。
1、生誕日について
山口素堂の生まれた日は『甲斐国志』(以下『国志』)では「寛永十九年五月五日に生まれる」とあり、既に定説化している。五月五日とする説の根拠はどんな歴史資料から引用したものであろうか。その根拠を知りたい所で、歴史を実証するには誰もが納得できる資料の明示が欲しいものである。
『国志』意外に素堂の生まれた日を記した書には『連俳睦百韻』(佐々木来雪の三世素堂号襲名記念集。以下『連俳』)がある。その中で法橋能悦が述べる文中に素堂の生まれた日は一月四日と記している。しかし法橋能悦が一月四日と記していてもやはりその根拠は計り知れないのである。
寛永十九年の生れは間違い無いとしても、『国志』の云う五月五日に生まれたので幼名を重五郎(五が重なるから)は事実とすれば、素堂について相当知り尽くしている人物の言が当時の資料として残っているはずであるが、国志編纂時の参考資料の中には該当するようなものは含まれていないようである。
『国志』は素堂の生まれた場所を甲斐の事として記しているが、『連俳』の寺町百庵(素堂の家系の人物)の序文では甲斐の出来事にするには違和感がある内容である。法橋能悦の詳細は不明であるが『連俳』の刊行は安永八年(1779)で『国志』の完成は文化十一年(1814)であり、いずれの説が正しいかはそれを立証できる確かな資料しかない。
素堂の生存中は勿論、死去してからの歴史資料にも生まれた日については右記の二書しか記されてはいないから正確には二書の説を並列して記しておく。
『国志』以後の甲斐の歴史書や紹介書には五月五日説が多く見受けられ、中には()印により『連俳』の一月四日説を添えている書もある。これらは国志偏重の現れではないだろうか。
素堂亡き直後の享保二年(1715)山口黒露編の素堂一周忌追善集『通天橋』には甲斐の事や素堂の生まれた日に関する記述は見えず、享保六年(1721)に素堂の晩年の世話をしていたと目される子光の『素堂句集』にも若い頃の事は生活及び句作態度や人柄については記してあるが残念ながら生まれた日については触れていない。明和二年(1765)姪(おい)と称される山口黒露の編んだ『摩詞十五夜』にも足跡は窺えても生まれた日の記載はない。享保十七年(1732)の生川春明編の『俳諧家譜』・明和七年(1770)の『俳諧家譜拾遺』等にも記載は無い。
『国志』刊行以後の書物には国志を引用して五月五日説が主流となる。文政年間(1818~29)刊行の『蕉門諸生全傳』、嘉永年間(1848~1853)に素堂の号とされる其日庵九世を名乗る馬場錦江(元禄年中に甲府代官として赴任して例の濁川改浚工事の立て役者櫻井孫兵衛の家系にある)の著した『芭蕉翁桃青伝』・『葛飾蕉門文脈系図』・『葛飾正統系図』は、祖師とする素堂のことを『国志』の記載内容をそのまま引用している。いわゆる素堂身辺の良好な史料がなく、しかも当時素堂の生涯に関わる伝書も見出せなかったからである。
素堂の紹介書は多々あるが、出生から二十歳までの経過は殆どが『国志』の引用である。『通天橋』、『素堂句集』、『連俳睦百韻』、『摩可十五夜』などにも素堂生涯の部分的な事蹟は載せてはある。
不確かな史料でも繰り返し引用紹介するとそれが人々に歴史事実のように伝わり、年月の経過とともに定説となる。『国志』優先と後世の安易な紹介が素堂の生涯を歪めた大きな原因ともなっている。(別添資料参考)
2、生誕地について
素堂の生まれた地についても正しくは不詳と云わなければならない。現在は『国志』の「思われる」と云う記述が「そうであろう」、「国志に書いてあるから間違いない」になる。そして著名な研究者が「そうではなかろうか」との仮説をたてると、いよいよ定説の核が生まれる。ここから定説が史実と離れて一人歩きを始める。後刊の紹介書はさらに特定の事蹟を私説・推説を交えて誉め崇め讃える。
こうなると地域も「ここから偉い人が出たと本に書いてある」が、「ここで生まれた」、「私の家が素堂の生家があった場所である」、「素堂家の遠縁にあたる」などして地域も疑うことなく事実のように思い込んでしまい、それが地域にも歴史事実のように後世に伝わることゝなる。やがて重々しい碑文の石碑が建ち「仮説」は「定説」になるのである。著名の人の研究論文で述べた私説や推論は辞書・辞典等にも歴史事実の如く紹介されている。また見直されることも少ない。
『国志』は素堂が没してから百年後の書である。国志編纂には各村々に書上書の提出を命じている。しかし当時の生誕地とされる巨摩郡教来石村字山口の書上書にそうした記載があったとは思われない。それは国志が素堂の生家の山口市右衛門を、盖(ケダシ・考えてみるのに。思うに。)としている。
文化年代に山口に有った口留番所(通称「山口関所」)は当時地名としても知名度はあった。『国志』著実者は次の様に考えたのではないか。
《素堂は甲斐の出身で山口姓であり、歴史的根拠より編纂当時山口の地名は山口番所で知られる「巨摩郡教来石村字山口」があり、「盖し」ここの出身ではないかと思われる》と。
土地名では山口は全国何処にでもあり珍しくはない。(韮崎にも山口の地名が現存する、山の入り口が山口である)又九州(特に長崎)近畿、神奈川、静岡でも山口姓は多く見られ、特に長崎県など九州地方には多く長崎県は特に山口姓は多い。素堂も延宝六年夏から翌年七年にかけて九州旅行の際訪れ、また長崎所縁の俳人去来や卯七との結びつきも深い。(別述)地名を頼りに巨摩郡教来石字山口を素堂の生誕地とするのは直接的な史実に基づいたものとは思われない。もし北巨摩郡下教来石字山口が素堂の生地であるならば、『国志』が根拠とした資料が必ずある筈である。『国志』は幕府提出の地歴史書である。安易な考えや思いつきで書される筈もない。と云っても素堂没後から『国志』編纂までの約百年間に書され残された歴史書などにも一切素堂の名は見えなかったのは不思議である。素堂の甲斐との関係は明治時代以降、『国志』から生まれた話である。また『国志』「素道」の記述方法も他の箇所とは大きな相違がある。素堂の話し言葉もあり、涙々の講談調の記述は異質で他の箇所と比べて見ればその差が一目瞭然であることが理解できると思う。
素堂以外の人物でも甲斐と深い繋がりがあり徳川幕閣を左右した柳沢吉保などは、その事蹟から離れ興味本位の悪人に志仕立てられ現在でも一部地域を除いて評価も低い。これなども吉保を扱った諸本により「定説」となった例である。柳沢吉保と素堂は年代が重なり接触した可能性もある。
歌舞伎役者の初代市川団十郎などの出生地には諸論があるのに、山梨では甲斐市川にその祖を断定している。これなども資料を持たない地名の類似が定説になった例である。確かにそれらしい説もあるが、団十郎の関係諸文献を読んで見れば、決してその祖が甲斐市川の出身とは断定できないことが分かる。「そう云われている」ランクの話である。
ここで『甲斐国志』をはじめ諸文献の出生地への疑問については次の点が指摘できる。(別表参照)
一、『国志』の記述は解釈によっては教来石村字山口の生まれとも解釈できる内容である。『国志』の記述は魚町の生まれであるとも解釈できる。(そうした書も見える)『国志』の記述は祖先の住んでいた地とも解釈できる。(そうした書も見える)
二、『連俳睦百韻』の親族とする寺町百庵序文に「素堂の家系は蒲生氏郷の家臣山口勘助」とあり、『国志』とはかけ離れた記述となっている。
三、馬場錦江著の『葛飾正統系図』『葛飾蕉門文脈系図』『芭蕉桃青伝』には『国志』を引用して巨摩郡教来石字山口としている。『桃青伝』ではさらに濁川改浚工事についても『国志』を引用しているが最後に「然不得其詳不能記焉」とある。
四、『蕉門諸生全伝』には「素堂は甲斐酒折の産」とあり、夏目成美の『随斎諧話』でも「素堂は甲斐の産、酒折宮の神人真跡を多く所持して云々」の記述あり(神人=飯田家か)
註…『蕉門諸生全伝』の記載は『随斎諧話』の読み違いである。
五、『本朝文選犬注解』には素堂は江戸の産とある。
六、昭和七年功刀亀内の『甲州俳人傳』には素堂は巨摩郡上教来石村山口の出身市左衛門として紹介して、これを後世の研究者が引用して定説化する要因となる。
七、昭和七年に俳文学の大家、荻野清先生による「山口素堂の研究」で功刀亀内の『甲州俳人傳』+『甲斐国志』+『連俳睦百韻』+『推説』で素堂翁の生涯を綴っておられる。
ここで「素堂の生地」について整理して見るとおよそ次のようになる。特に『国志』以前と以後の記載内容が一変することが分かる。『国志』の一、二に見られる曖昧な記述を夏見成美『隨斎諧話』で「素堂は甲斐の生まれ」と断定し、馬場錦江著の『葛飾正統系図』『葛飾蕉門文脈系図』『芭蕉桃青伝』は『国志』の説を更に強め功刀亀内の『甲州俳人傳』では既に定説化し、国文学者の荻野清氏の『素堂研究』により、「素堂は甲斐巨摩郡教来石村字山口」と確定して辞典や辞書にもこの説が採用される事となる。
親族とする寺町百庵の『連俳睦百韻』の序文に「素堂の鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助」の説は、その一部を紹介しながらも結局のところ抹消されている。他の書も同じく抹消されている。これは甲斐と蒲生氏郷の関係と結びつきが見えないからである。
余談ではあるが蒲生氏郷は天正十年織田信長の甲斐武田撃滅に同行していて、諏訪から甲斐に入って勿論巨摩郡教来石村山口も通過しているのである。織田軍は巨摩郡台ケ原村に陣を張り、翌日武田勝頼の新府城を攻撃しその後武田軍は滅亡する。
さらに諸書を都合よく繋ぎ合わせ『国志』や『連俳』両書を結びつけて紹介しているものもあるが、それは著述者の考えが大きく左右していて歴史事実とは認められない。いわゆる仮説の域を脱していない。
かの芭蕉でさえ故郷に何度も帰り立ち寄っているのに出生地については未だ定まらないのである。
3、素堂の姓名と号について
素堂の姓名は山口信章。これは諸俳諧書にあり間違いの無いところであるが「しんしょう」なのか、「のぶあきら」かは判明しない。『国志』の云う山口勘兵衛は調査からは素堂とは別人である。素堂の生まれた前年に甲府城番山口勘兵衛の名が見えるが、山口素堂との関係は明確ではない。
1.『甲斐国志』は姓は源、名は信章と紹介して更に「官兵衛」「市右衛門」「幼名重五郎」等の名も挙げている。しかし国志は「素道」と「素堂」を同じとしているが、素堂は「素道」(そどう)を名乗った形跡は俳諧書などにも全く見えなくその出処が知りたいところである。
2.子光の『素堂句集』は「信章」「素堂」
3.『連俳睦百韻』は翁の名は「太郎兵衛」「信章」「素堂」(鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助)
4.『俳諧家譜』は「信章」「素堂」
5.『葛飾正統系図』『葛飾蕉門文脈系図』では国志の説をそのまま引用して「山口官兵衛」幼名「重五郎」とする。
6.素堂の著した数少ない俳書『とくとくの句合』(翁没後の刊行)の雷堂百里の詞書には素堂が「松兵衛」を名乗った時期があることが記されている。又宝井其角(芭蕉門人)の『錦繍緞』には素堂の号として「山松子」が見える。この書は一説には偽書とする説もあるが、「山口松兵衛」=「山松子」が成り立つことになると『甲斐国志』の云う幼名重五郎、官兵衛、素道。 官兵衛、素仙堂、素堂という図式が正確な資料に基づいて記されているか疑わしい事となる。
7.『連俳睦百韻』では太郎兵衛…素仙堂-仙=素堂としている。
8.現在国会図書館にある江戸元禄時代の土地の調査書によると、山口素堂の名で四百坪強の所有地が確認される。「素堂」は俳号ではなくて本名であることが判るし注目に値する。(この土地は芭蕉の晩年の芭蕉庵と深い関わりある。別述)
又、余談ではあるが素堂の孫の山口素安は百庵の『毫の穐( )』の中で存在が確認出来るし、それは素堂没後の享保二十年の事として記載され素安の存在は素堂の家系にとっても重要な件である。『連俳』には先述したように素堂親族寺町百庵の序文で翁の家系を、法橋能悦の詞文には素堂の生誕日が記されていてその記載内容は何方も『国志』とはかけ離れている内容である。連俳からは素堂と甲斐を結ぶ物は浮かんで来ない。素堂翁本当に山口官兵衛や山口市右衛門を名乗った時期があったのであろうか。名乗ったとしたらそれを示す歴史資料はいったいどの書なのか。官兵衛の他に甲斐と翁を結ぶ最も大切な姓名は山口市右衛門である。山口市右衛門は代々山口家の家名と『国志』は云う。(後世甲斐府中に住む素堂の家系とされる山口伊兵衛等は血縁関係にはないと思われる)
魚町山口屋は存在したが、『国志』並び諸書の云うように、素堂が幼少の時一家で移住して一代を成し「山口殿」と呼ばれた山口屋であるかどうかは当時の歴史資料が少なく判明しない。(別添資料参照)
素堂も一時は家督を継ぎ市右衛門と名乗り弟に家督を譲り、老母を連れて江戸に出た。櫻井孫兵衛の僚属となり数年山口官兵衛を名乗り致任して素堂を名乗る。元禄九年(1696)には再び山口官兵衛と名乗り工事を指揮する。
とある。これらは『国志』以外に山口官兵衛や市右衛門を示す資料は見えず「作り話」とも思える。
資料調査研究からの結論は山口素堂は「山口官兵衛」は名乗った事実はないと云う事である。
4、素堂の号について
素堂の号は『国志』によると、素堂・素道・子晋・公商などが列挙されているが、この中で公商の号は伝わらない。絵画に関する号かもしくは数多い趣味の分野での号かも知れない。「子晋」は儒学に於ける号で俳諧松尾芭蕉の若くて優秀な門人宝井其角の号に「晋子」がある。表面的には素堂と其角の関係は薄いと思われがちであるが、他の書道や儒学関係では繋がりがあり、素堂に師事していたと見られる。
素堂と林家との関係は晩年まで続いている。また当時の著名な俳人の集には、素堂の序文は多く見られその数は他の俳人を圧倒している。素堂は俳人としての一面を持ちながら俳諧研究者と漢学者などの側面を持ちなら生涯を閉じている。現在の素堂の評価より当時の評価は相当高く、それは素堂の交友・交流関係から実証できることである。(素堂と芭蕉の関係の書簡) 其角が元禄十一年(1698)に編んだ俳諧集『錦繍緞』には「江上隠士山松子」の号を用いている。「信章」は本名か俳号か。『国志』は素堂の本名としているが、素堂の俳諧書に見える号は「信章」(伊勢の加友編『伊勢踊』。寛文七年・1667)が初見である。本名をそのまま使用したとも考えられるが確証はなく、当時幕府の公職に就いていたとされる時期である。この「信章」は延宝六年・七年(1678~79)まで使用される。延宝六年(1678)には「来雪」の号も使うがこの号は長くは使用はしていない。山口黒露の編んだ『睦百韻』には「来雪」号のいわれについて記してあり、先輩で親友の人見竹洞の言も掲載されている。又素堂三世を襲名する佐々木来雪は素堂号だけでなく来雪号も継承していた事になる。その来雪号襲名記念集が『睦百韻』、素堂三世襲号記念集が『連俳睦百韻』である。来雪号で珍しい素堂の書がある。それは富山秦氏の著した、『大津と芭蕉』で、漢詩の端書が掲載されていてその号は素堂主人来雪とある。内容は漢詩文であり、自筆の書としては珍しい物である。尚来雪の前に来雨と名乗ったと『連俳睦百韻』の中で法橋能悦が述べている。この号も他の俳書には見えず、来雨の号での俳句も見えない。その他序文には「かつしか散人素堂」「かつしかの隠士素堂」「山松子」「山素堂」「素堂山子」「武陽散人素堂」など号が見える。又素堂の初期に俳人に山口清勝(『あせい集』編)も見えるが素堂との関係は見出せずにいる。
延宝八年(1680)以降の素堂号は本名でもあり俳号でもあったのでる。井原西鶴の『大矢数』に素堂翁は入集しているが、同書には信章と来雪の名が見えるが、多くの研究書は信章をとっている。結局のところ素堂の号(実名を含む)は、「太郎兵衛」、「子晋」、「信章」、「来雪」、「素堂」と変遷していくが、それは実名とも深い関わりがあり、山口素堂は幕府の土地台帳にも記載されている。これは素堂が号名ではなく実名であったことが理解できる。
実名とされる山口官兵衛は資料からは抽出することはできなく『甲斐国志』一書のみだけの名称である。これは『伊勢踊』から没年までの俳諧集、序跋文、書簡、俳論など調査した結果である。
素堂号は晩年諏訪出身の曽良宛書簡の署名に「素堂主人」と記してある。素堂は自らの生涯を語る事はなく、江戸の大隠士として活躍する。素堂がどれだけ偉大な人物で、残された多くの事蹟は松尾芭蕉をはるかに凌ぐものである。芭蕉一辺倒の俳文学界は素堂をはじめ歴史資料を交えて再検討する時期に来ているのではないかと思われる。