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甲斐駒ケ岳開山者名

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▶第一代 小尾権三郎

▶第二代 嘉貴刀美之命 

▶第三代 御意眞澄大人(うし)之命 

第四代 佼威稜別道大人之命




江戸時代横手村 駒ケ岳図

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一部間違いがあるかも知れません

甲斐駒ヶ岳略図 明治時代

甲斐駒ヶ岳開山史料 横手村明細帳 延享二丑年(1745)

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横手村明細帳
 『白州町誌』資料編 第一節 村明細帳 一部加筆
 
表紙 「延享二丑年(1745)二月 明細帳 巨摩郡横手村
 
一、高三百八拾弐石六斗三升三合
  比反別百拾九町六反五畝拾歩
一、村内分 東西廿四丁 南北三拾壱丁
一、家数七拾三軒之内 七拾軒役百姓 三軒水呑百姓
一、人数三百五拾四人之内 百八拾壱人男 百拾三人女
一、牛馬百五疋之内 拾四疋馬 九拾壱疋牛
一、道法 甲府江七里半 江戸江四拾三里半 鰍沢江九里
一、田方 稲作一毛作
一、畑方 栗 粟 蕎麦 大豆 油 菜 荏(にんじん)大根
一、作間挊(ロク はたらく)男ハ韮崎薪少少出シ候者も御座候
  女は働無御座候
一、用水堰 長三千五百五拾四間 幅四尺
  是ハ人足御扶持米斗り被下候
一、御年貢皆金納場ニ御座候
一、當村用水堰御人足御扶持米斗里被下候御役引ニ御座候
一、名主給米 七俵
一、定使給 納籾弐俵甲金壱両
一 堰定番賃 甲金壱両
一、奥山入会之儀
當村白須台ケ原右三ケ村者大武川入より濁川迄入会申候
當村柳沢三吹右三ケ村ハ大武川通り
日影日向共双方入込逸見筋日野・長坂上条・同下条・渋沢右四ケ村ハ大
武川限り薪木沢迄入会申候
一、御小物成米四斗三升 奥山草間分
一、當村中山入会 當村台ケ原・三吹村御小物成米九升台ケ原江出し申侯
一、百姓居数 拾ケ所
  是ハ屋敷畑御年貢地ニテ御座候分之内風除ニ竹植御年貢地ニ御座候
一、百姓林 七ケ所 御小物成米壱斗壱升
一、秣(まぐさ)場 御殿原堰上原 大武川御川除上原
一、御普所六ヶ所之内 三ヶ所大武川通り 三ヶ所古川通り
一、土橋八ケ所之内 八間一カ所 三間七カ所 自普請
一、鉄砲七挺 猟師筒
一、當村江入作 大坊新田・白須村・台ケ原村
一、台ケ原江伝馬 大助之場ニ御座候
一、御除地境内百八拾坪 長二町 横一丁 安福寺
一、御除地畑壱反三畝九歩 安福寺
一、御除地高七斗四升四合 西光寺(無住)
一、神主壱人 長門
一、山伏壱人 本良院
一、諏訪大明神 神主 長門(現無)
 御除地高壱石五斗壱升 社中長三拾弐間横拾壱間
  是ハ御黒印地ニ御座候所右黒印焼失仕候
一、若宮八幡宮社中 支配 長門  長八間 横四間
一、愛宕社中    支配 長門  長五間 横四間
一、勘定地社中   支配 長門  長三間 横二間
一、山神社中    支配 長門  長拾間 横七間
一、愛宕社中    支配 長門  長四間 横六間
一、王大神社中   支配 西光寺 長拾間 横十間(現有)
一、辻堂弐ケ所   支配 安福寺
一、秋葉権現社中         長三拾間 横三拾間
右ハ當村ニ有来り候儀銘々吟味仕書上申処スコシモ相違無御座候以上
 
 延享二年(1745)丑二月
          名主  傳左衛門
長百姓 彦左衛門
          同   彦兵衛
          同   仁兵衛
              孫左衛門
          同   庄兵衛
          同   彦右衛門
   吉田久左衛門様
       御役所
                       (横手・桜井初所蔵)
【解説】
延享二年(一七四五)二月巨摩郡横手村役人より、吉田久左衛門御役所宛村明細帳。
 村高、家数、人数、道法、田方畑方、作間拝、用水堰、奥山入会、小物成、百姓林、秣場、御普請所、橋、寺社、そのほか明細帳。

【註】この時点では「駒ケ岳神社」は無い。
 
【附】本良院
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕

巨摩郡(現白州町)横手村当山派修験宗格院本良院

由緒明細書上帳
一、御祈願道場但シ弐間半ニ弐間
本尊不動明王
祭礼日十一月廿八日、
護摩修行天下泰平国家安全今上皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩但シ護摩堂三間四方石鳥居高一丈
祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地
長十四間横六間 此坪八十四坪 祭り十月廿四日
一、山ノ神社地
長拾四間横六間 此坪七十四坪 祭礼十月十七日
一、神明宮社地
但長拾四間横六間 此坪七十坪 祭り日三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間横四間 二十八坪 祭り日九月九日
一、風神社地 長七間横五間 此坪 三十五坪 祭七月十日
一、水神社地 小社 祭礼七月二十五日
一、上今井山神 小社

右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候十一月二度目の亥の日

一、湯大権現 小社
同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院宅 但八間半五間
一、土蔵 弐間半三間
右駒嶽之儀者高山に御座候得バ
峰三ケ処ニテ御本地観世音菩薩也、
中之岳ニハ大権現、
奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、
古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候
以上
尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
慶応四辰年八月
巨摩郡横手村駒獄別当
別納本良院
寺社御役所

山岳修験について 小淵沢町誌

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山岳修験について 小淵沢町誌
『小淵沢町誌』第四章 修験宗 第一節 修験宗の発達 一部加筆
 
 古代より山岳に対する伝統的信仰により、山は神がこもる聖地として山自体を御神体として崇拝し、また祖霊の行く他界として信仰されてきた。
神の宿る山へ人間が踏み込むことは神をけがすことになり、そのたたりを恐れて入山は禁忌されていた。しかし山を生活の場とする狩猟者の山に対する信仰と、仏教・道教などの外来宗教の影響をうけ、山岳で修行する者が現れて山を開いた。山岳における修行は山壁をよじ登り、断崖から宙づりに谷底をのぞくなどの修行をしながら指数し、洞窟で呪言を唱えながら冬を越し、春に山を降りるのである。神の住む山で修行し神と共に生活することにより霊力を授かり、超自然的な力を体得できるとされ、民衆は畏怖、崇拝した山岳におけるこうした修行者に帰依し、自然災害や病気などの生活不安を除くため修行者の呪験力に期待した。
 こうした山岳で修行し、呪術的活動をする宗教を修験道といい修行者を験者(ごんげんしゃ)または山伏ともいう。山伏は山臥とも称し、山を枕に寝食して修行生活をする意味が含まれている。修験道は奈良時代中期役小角によって開かれたとされている。
役小角
役小角は大和葛城山の修行者で、鬼神を使い、空中を
飛行し、葛城山と金峰山の間に橋をかけたと伝えられているすぐれた呪術師である。
 しかし修験道の祖師と仰がれたのは、平安時代末期から鎌倉時代に入ってからであり、同時に役小角による満山開基伝説、縁起が作られるようになった。山岳における修行の効験はすぐれているとされ、奈良、京都の学僧の中から好んで山に入り修行する者が現われ、密教の発展と共に修験道も盛んになり、やがて吉野、熊野を中心とする修験道場が、また修験道の宗派が形成されるにいたった。園成寺末の聖護院を本寺とする熊野系修験者を統轄する本山派と、中興の祖である聖宝が開いた三宝院を本寺とする吉野系修験者を統轄する当山派の二派があり、地方の霊山である立山、御岳、日光、彦山などの諸山もこの二派のいずれかに包括されるようになった。そして修験者の宗教活動により特定の信者との結びつきを強め、修験者は信者と専属的に加持祈祷、配札などをする関係をもった。こうした宗教活動範囲を「霞」といい全国に形成し、修験者は霞を物権的に支配し、これを他に譲渡することもできた。  
このように教団組織が整い、さらに教義が確立してくると、個々の修験者による蜂入から集団による峰入が行なわれ、その修行形態に宗教的意味が加わった。熊野を中心に胎蔵界曼陀羅、吉野を中心に金剛界亀茶経として修験道場を形成したように、修験者は山全体を畳茶経とする仏の世界に 入り、その山中の諸仏を拝しながら修行をするのである。
峰入り修行
この修行を峰入といい、これを成仏の過程になぞらえて十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、緑覚、菩薩、仏)に分け、それぞれに対応した十種、床堅(とこがため)、懺悔業秤(ざんげごうひょう)、水断、閼伽(あか)、相撲、延年、小木、穀断、正灌頂)の修行が行なわれた。この十界の修行は、罪悪を消滅し一旦死し、山中という胎内で再び生きかえり、再生してくるという信仰によるものである。
修験者
 修験者の姿は、頭巾、法螺、錫 杖、笈、金剛杖、肩箱、脚半、結袈裟などを身につけ、またそれは宗教的意味を持ち十界の成仏過程を表す象徴である。この様な仏具に包まれた修験者は、修行を守護する本尊であり、十界を備えた不動明王と一体になるとされる。こうした考えにより、修験者は不動明王の力で加持祈祷をするのである。
江戸時代
 江戸時代になると幕府の宗教統制が厳しくなり、慶長十八年(1613)修験法度が定められ、修験者は本山派、当山派のいずれかに属し、定住することを義務付けられた。峰入の修行形態も儀礼、形式化していき、峰入の回数は修験者の位階を定める教団秩序を維持する基準にすぎなくなっていった。修験者は定住化によって村内の宗教生活にかかわるようになり、鎮守の別当となり、また各種の祭りの導師を努め、憑き物落し、占いなどの呪術的宗教の祈祷師となった。
一方では、一般民衆の山岳崇拝の講を作り、先達をするなどの活動もした。こうして山岳の克己主義による修行の克己主義は薄れ、中世時代における情報収集、伝達の軍事的役割からも遠ざかっていった。
明治時代
 明治時代に入ると神仏分離政策によって、修験者は神職、僧侶、還俗のいずれかの選択を迫られ、明治五年修験道は廃止された。しかし、戦後聖護院が修験宗を設立するなど、修験諸集別の分派独立が行なわれた。
 当町における民間信仰、山岳信仰の中心である八ヶ岳には、赤岳、権現岳、阿弥陀岳、編笠、天狗岳などの山名や奥の院、石室、行者小屋などの地名のほかに石岡、湧水などがあり、修験者が登拝したと考えられるが、八ヶ岳を中心に活動した実態について明らかでない。しかし、当町内の墓地の宝塔、修験者の石像や木像、不動明王の仏像が現存していることから、その活動は盛んであったと考えられ、当町の修験寺院は旧小淵沢村に二〇か寺、上笹尾、下笹尾に各四か寺、松向に一か寺の二九か寺の多くを数えている。
 

甲斐駒ケ岳講 よもやまばなし

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駒ケ岳講 よもやまばなし
『甲斐駒ヶ岳の麓にて』ある山間地農民の20世紀 より
 
 隣家の北側併家の屋敷に接して立派な石の大鳥居が立っている。
これは信州諏訪方面駒ヶ嶽講の人々が明治21年に建てたもので、駒ヶ嶽神社参拝の第一の鳥居であった。
諏訪面から来た旧甲州街道は、濁川を渡った所で左に曲がるが、駒ヶ嶽神社参道は街並ら分岐して真っ直ぐに進んでそこから始まっていた。駒ヶ嶽講の人々は、参道の起点に鳥居を建てた。その立派さから当時駒ヶ嶽がいかに盛んであったかが覗い知れる。大鳥居にある石碑には「鳥居寄附表」と書かれているが、隅から隅までびっしりと細かい字が刻まれている。表面は風化して大変に読みづらいが、目を凝らすと「諏訪講社」、「諏訪茅野」、「諏訪玉野村」、「神道御嶽教」、「駒ヶ嶽大教会所」、「田中鉄弥」「田中重次郎」などと読み取れる。それらの兼社や人々の名前は、数えれば恐らく500はあるだろう。これを眺めていると、大勢の人々がこの鳥居の下を往来した当時の情景が目に浮かんで来る。
鳥居につづく駒ヶ嶽古道は某家の屋敷の西側を横切っている。昭和9年に鳥居の十メートル先の山側に幹線国道20号線が出来てからは、人と物の流れがそちらに移って、今鳥居の周辺には当時の面影は全くない。
なぜそこに立派な鳥居があるのか不恩義に思う人も多い。甲斐駒ヶ岳は、古くから修験者によって崇められていたようだ。それを「駒ヶ嶽講」として多くの人々に開いたのは、信州諏訪中州の弘幡行者という人で、幕末直前の化13年(1816年)のことと言われている。信州富士見高原や諏訪地方から見る甲斐駒ヶ岳の勇姿は、人々が信仰心を起こすにふさわしい荘厳さがある。
今、明野村の上手地区に、駒ケ岳講と摩利支天を削った大きな石柱があり、この場所からも駒ヶ岳の雄大な姿が望める。駒ケ岳は地元よりむしろこういった駒ヶ岳の勇姿が眺められる遠隔の地域でんなのはうなずける。
 毎年412日には駒ヶ嶽神社竹宇前宮、420日には横手前宮でお神楽が奉納された。この日はその村の代表がお参りして、翌日、村の講社一同でお祭りをした。
駒ヶ講は明治時代に最も盛んに行われたようだ。第二次大戦中にはまだ白装束に身を固めた多く修験者が駒ヶ岳神社の鳥居をくぐって行き来する姿が見うけられた。某氏の話では、子供の頃道で遊んでいると白装束の行者が通りかかり、戯れて「何かちょうだい」と手を出すと、飴玉を手のひらに載せてくれたという。駒ヶ嶽講は削戦後急速に衰えた。
 竹宇ヶ岳神社は、尾白川の小さな段丘上の山あいにある。こじんまりとした静寂な空間には、足下から渓流の音がかすかに聞こえてくる。神社裏手の岩山から落ちる細い滝に当たって修行する人の姿が今でも見受けられる。修行を積んだ行者は人々に尊敬され、心配事や病気など悩み事を聞いて祈祷し、お祓いをしてくれる。(中略)
 
駒ヶ嶽神社の歴史は古く、横手前宮の社伝では、堆略天皇の頃、出雲遷祀したという。祭神は、駒形権現観世音、摩利支天といわれている。
竹宇駒ヶ岳神社のずっと遅れて、駒ヶ嶽講が盛んになった頃からのようだ。

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富士見町の史跡 無印名松


北杜市最大のケヤキ大木に出逢った 無印文化財

新春の夢を雲に乗せて 

甲斐駒ヶ岳の信仰 北杜市内 駒ヶ岳神社 開山神明行者

富士山が 神っている

待ちに待つ 富士山日の出 我がカメラ

甲斐駒ヶ岳の信仰 北杜市

台ヶ原宿北原家(山梨銘醸)家相図 解説

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台ヶ原宿北原家(山梨銘醸)家相図 解説
『山梨県史 資料編13』近世6上 山梨県 平成16刊 一部加筆
 
 台ケ原宿・七賢で知られる台ケ原宿(硯北巨摩郡白州町)の北原家(初代・伊兵衛)は、寛延三年(1750)に信州高遠領から問屋宇右衛門の世話で当宿に移住し、当初は藤左衛門の家屋敷を借家して酒造業を営んだという(同家文書、明和三年(1766)「差出申済口証文之事」)。
現存する町家は、近世後期以降の宿場町に台頭した大規模な酒造家の建築遺構として極めて貴重であり、県指定の重要文化財建造物となつている。
 掲載した三枚の「台ケ原宿・北原家家相図」(六)は、酒造家としての北原家の屋敷構の変遷と大規模町家の建設過程が明らかとなる史料である。最も古い文化十二年(1815)「家相図」には、現在の町家が建設される以前の主屋建物が描かれており、表間口二間、下手(東側)に土間と連続した一四畳の居間や表側に見世売場六畳、見世一五畳があり、上手(西側)は、仏間一二畳と座敷一〇畳、床の間のある人畳が設けられる。台ケ原宿の町並に対して既に大きな間口規模を占めてはいるが、未だ賓客を迎える表門・式台と上手の座敷列が存在しない点が特徴である。また、主屋の真には文庫蔵・穀蔵・味噌蔵など土蔵が建てられる。さらに敷地の奥は大きく広がり、東西に水路が貫流し、二棟の巨大な酒造蔵と室家など酒造業に関連する建物群が建てられている。
 次に、天保十二年(1841)「家相図」では、表間口が一三間に拡張され、表門・式台さらに上手に床・棚をもつ一〇畳の続き間座敷を三部屋設け、現在の主屋に近い空間構成が実現されている。ただ、描かれた主屋の規模は現存建物よりも小さく、間取りも異なることから、この家相図は主屋再建のための計画案として作成されたものと推定され、実際には同園において主屋の両側に朱線で示された(後に補筆か)隣接敷地を購入した後に、現在の主屋が建設されたと考えられる。なお、屋敷の奥には離れ家(隠居)が建てられ、敷地の西に醤油蔵など三棟の土蔵が新築されている。
そして、嘉水七年(1854)「家相図」は、前述の隣接敷地を含めて、表間口一六間の現存建物の間取りを描いており、この時期までに主屋が建設されたことが判明する家相図である。
 ところで、当家に所蔵される「屋敷売券」7~14)によれば、近世中期以降の土地集積過程が明らかとなる。
宝暦七年(1757)の「屋敷売券(一)」(七)では、「間口七間裏行細田道迄」の家屋敷を買得し、借家人として台ケ原宿に移住した北原家が、現在地において表間口七間を占める当宿の家持層となったことを示している。
続いて明和六年(1769)の「屋敷売券(三)」(九)では、西隣の表間口四間の家屋敷を字兵衛より買得している。文化十二年(1815)「家相図」は、この時期の家屋敷の状況を描いていることになる。
その後、文化十三年(1816)の「屋敷売券(五)」で、西隣宇右衛門の居屋敷四畝一六歩の内一畝五歩(表間口一面半程度)と竹薮一カ所、さらに天保六年(一人三五)の「屋敷売券(六)・(七)」(三 十三)で残りの三畝二歩、表間口七間裏行」四間半を七郎兵衛より買得し、嘉永二年(1849)の「屋敷売券(八)」(十四)で東隣の六兵衛より表間口三尺奥行十四間を買得している。前述の様に、この間の両隣の屋敷集積状況が天保十二年の「家相図」には描かれているのであり、現存建物は、土地買得後の嘉永二年三月以降、嘉永七年六月「家相図」の頃までに建設されたことが確実である。このように、北原家は、台ケ原宿における新興の有力家持層として、十八世紀中期以降、幕末期にかけて隣接する家屋敷を集積しながら、大規模町家を成立させるのである。
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今日の甲斐駒ヶ岳 富士山 八ヶ岳 韮崎円野から

甲斐駒ヶ岳開山 資料 横手村 『角川日本地名大辞典』

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よこて 横手〈白州町〉
『角川日本地名大辞典』19山梨県
 
甲府盆地の北西,釜無川支流の大武川流域に位置する。地名の由来は,往古に横手姓をもつ者が隠棲したことによると伝え,これにちなむ御殿原・古御所・殿屋敷・使者窪・大濠・御牧場などの地名が残る(北巨摩郡誌)。地内には縄文時代の宮沢遺跡・古御所遺跡がある。
〔中世〕横手郷 
戦国期に見える郷名。巨摩妄郡のうち。武田氏および織田氏の滅亡後,天正10年甲斐に入った徳川家康は武田氏の旧臣の所領安堵や充行を行ったが、武川衆の諸侍も安堵をうけ天正10年(1582127日の徳川家康印判状写によれば,武川衆の一員横手源七郎の本領として「甲州横手郷八拾弐貫文」が安堵された(記録御用所本古文書/甲州古文書2)。また,同11年(1583419日神座山権現社(御坂町上黒駒)に社領を安堵した徳川家康印判状写には,同社領の1つとして「横手道内弐貫弐百五十文」と見える(神座山権現社 甲州古文書2?。
なお,「南葵文庫本武田系図」によると,武田一門一条忠頼5代の末裔一条時頼は南北朝期頃,子息たちを白須(白州町)・鳥原,牧ノ原(武川村),青木(韮崎市)などの諸村へ分封し、これらの諸家および各々の分家をのちに武川衆と
称して武田氏の重要な家臣団としたが,当郷を領した横手氏は,青木に分封された一条時光の分家といわれて,(韮崎市誌)。
近世の横手村 
江戸期~明治7年の村名。巨摩郡の内武川筋に属す。はじめ幕府領(「慶長古高帳」では「旗本馬場氏知行),のち甲府藩領,享保9年(1724)から幕府領(甲府代官所)。枝郷に大坊新田村があったが、(元禄郷帳・天保郷帳),のちに分村した。村高は,「慶長古高帳 1601161464石余(ほかに大明神領1石余),寛文2年の検地高394石余(反別は田85町余・畑99町余),「寛文宝暦村高帳 16241763」も同右,「天保郷帳 18301843396石余,「旧高旧領」も同じで,うち巨麻神社領1石余。村の規模は東西24町・南北31町。
甲州街道台ケ原宿の大助郷役を勤め,助郷勤高964石余。延享2年(1745)の戸数73(本百姓71I・水呑百姓3),人口354(男181・女173),馬14・牛55(村明細帳)。文化初年(1806)の戸数104・人口358(男181女171),馬23・牛55(国志)。畑作物は粟・稗・ソバ・大豆・油・荏葉・大根など,作間稼ぎとして男は韮崎へ薪を出荷,年貢は皆金納で村内には猟師鉄砲7があった。また入会地は奥山と中山とがあり,中山の入会料として台ケ原村へ小物成米9升を払った(村明細帳)。神社は巨摩神社,寺院は曹洞宗自元寺末横手山安福寺があり,ほかに山伏1人がいた。
明治4年(1871)山梨県に所属。同7年(1874)駒城村の一部となる。
近代の横手村
 明治後期・大正期~現在の大字名。はじめ駒城村,昭和30年からは白州町の大字。もとは駒城村の一部。同32年(1957)役場の駒掘出張所廃止。同34年(1959)むつみ保育園認可。同年台風15号により駒城橋流失。同39年(1964)簡易水道完成。同50年町営住宅完成。

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甲斐駒ヶ岳の信仰 北杜市 そこは神の宿る場所だった

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白州を離れて30分 小高い山の上にあった。そこには甲斐駒ヶ岳を信仰した数人の行者の足跡があった。
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厳しい石段を200段
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威力不動尊 摩利支天
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駒嶽白延行者石碑
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通力行者
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法力行者

摩利支天
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