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北杜市の断層 高根町
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武川町・白州町航空写真 遠くに甲斐駒ヶ岳
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豊臣秀吉一代記 図版
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尾州野間 大醐堂縁起資料
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甲斐駒ヶ岳資料 富士山の駒ケ岳と八葉
富士山の駒ケ岳と八葉
富士山頂には最高峰の剣ヶ峰・白山岳(釈迦ヶ岳)・久須志岳(薬師ヶ岳)・朝日岳(大日岳)・伊豆ヶ岳(観音ヶ岳)・成就ヶ岳(勢至ヶ岳)・浅間ヶ岳(駒ヶ岳)・三島岳(文殊ヶ岳)があり、廃仏毀釈以前は括弧の呼び名通り如来菩薩が祀られていて(駒ヶ岳は宝生如来)、これらの山頂廻りをお鉢廻りと呼ぶ。
とあるが『地歴の甲斐』(昭和11年発行)には次のように記してある。
富士八葉(はちよう)後に八峯という。
一嶽 天照大神
二嶽 熊野権現
三嶽 白山権現
四嶽 伊豆権現
五嶽 日吉山王
六嶽 鹿島大明神
七嶽 三島大明神
八嶽 箱根権現
一合目 大日霊尊 鈴原大日堂
二合目 御室浅間神社 コノハナサクヤヒメ
三合目 行者堂
四合目 御座石社 繁山祇命
五合目 小御嶽石尊社 富士太郎坊是
五合目 経カ嶽 日蓮行法の處
五合五勺 不浄ケ嶽
六合目 神満岩(カマイワ)諸神集う
七合目 駒ケ嶽
七合五勺 烏帽子岩 食行身禄入定
八合目 大行会(北口と東口の出会い場所)
九合目 日の御子
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甲斐駒ヶ岳開山 資料『甲斐の修験』
修験
修験は、我が国古来の原始的山岳信仰と仏教の密教的信仰とが習合された宗教であって、山岳に登り修行をつみ呪力を体得すること、また体得した山伏に対して帰依することである。奈良時代の役の小角を開祖とし、平安時代の聖宝を中興とした。紀伊半島の熊野大蜂、金峰山、出羽三山、四国の石槌山、九州の彦山が山伏の中心道場であった。
室町時代に天台宗城寺聖護院系を本山派といい、真言宗醍醐寺三宝院系を当山派と呼んで組織された。開祖役行者が奈良県吉野山から大峰山にかけての山々金峰山に住んだという伝説から、平安時代以降この地が修験道の聖地とされ、貴族の間にも金峰山に詣でる弥勘浄土、密厳浄土と信仰されて埋経もしきりに行なわれた。また金剛蔵王菩薩が山の主とされて堂舎の発展を見た。
甲斐では
甲州においても、平安時代に入ると、富士山・金峰山・地蔵ガ岳・鳳凰山・大菩薩をはじめとする霊山を中心に山岳宗教が盛んになり、中でも金峰山と富士山は信仰の拠点であつた。
金峰山
甲州の金峰山も吉野に擬して、平安の中期から後期にかけて顕著な発展をみた。府中の北方拾弐里の山頂に蔵王権現を祀り、金峰山への登り口としては数カ所あって、南登山口が御岳村(甲府市御岳町)、東登山口として仙口村(東山梨郡牧丘町仙口)、西登山口として小尾村(増富)、北登山口として信州佐久郡等があって、各登り口とも里宮に金桜神社を建て蔵王権現を祀り、山頂の蔵王権現を本宮とした。この金峰山蔵王権現には富士山と共に修験者修行の霊場として、盛んなときには全国から山伏が集って大峯入りと称し、登山して行を修めた。この修業の中心になる蔵王権現、里宮である金桜神社は神仏混淆の社であって、お宮には社憎がおり実権をもっていた。そして社僧と修験者は性格的にも類似したところがあり、修験者は社僧を通して峯入の拠点としていた。
金桜神社
東山梨郡杣口村の金桜神社は、地名を米沢といい、往古は大社であったが後世荒廃して臨済宗雲峰寺の境内になっているが、寺中に蔵王権現が祀ってある。延喜式所載の山梨郡九座の内の金桜神社はこの社をさすものである。
大善寺
先年発見された勝沼町大善寺東方の白山平から出土した康和五年(1103)の長文の銘をもつ経簡は、この金桜神社の別当であった米沢山雲峰寺において書されたものである。銘には山城国乙訓郡石上村出身の寂円なる僧が、康和二年(1100)に甲斐国山東郡内牧山村米沢寺の千手観音の宝前に籠居して、如法経を書写し大善寺において供養して理経したことが記されている。この銘文にある米沢寺は雲峰寺を指している。この時代には末法到来の危機を感じ寛治四年(1090)道長が吉野の蔵王堂に理経したことは有名であるが、米沢寺写経も末法思想の中の蔵王権現信仰のあらわれである。
道者海道
現在でも青山千坊・東谷・西谷・神願坂・飯関三十八末社等の遺跡が残されている。この金桜神社より金峰山まで七里の道程があり、また南方富士路黒駒に達するを道者海道といい、富士山と金峰山を結ぶ修験者の通用道であつた。
奈良の吉野に皇居があつた南北朝時代には、諸国の山伏が甲州の金峰山に修行したことが伝えられている。現在金桜神社に南北朝時代の蔵王権現像が祭祀してあるが、当時の繁栄を物語るものであって、蔵王権現すなわち金剛王菩薩は、胎蔵界釈迦院の釈迦化身の教令輪身といわれるもので、荒っぽい雄渾な力をたくわえることが理想視されたのであった。
一方北山筋御岳村の金桜神社も金峰山の里宮として、伝えでは雄略天皇十年に里宮に分社したものとされているが、平安末期から修験の蔵王権現への拠点となったもので、とくに鎌倉末期以降は仙口の金桜神社より隆盛をきわめたことが、昭和三十年に焼失した金桜神社中宮本殿・東宮本殿などから推察することができる。この神社は正殿・中宮・東宮の三殿があって、中宮は正殿と東宮の中間にあって日本武尊を祀り、鎌倉末期の建造物であつた。正面三間に八双金具で飾った板扇を立て壮厳を極め、本殿向拝上三個、長押上に配置された三個の葺蟇は蓮花彫刻が施され、神仏混滑の影響を如実に示している。
『甲斐国志』
『甲斐国志』によると、南北朝時代には、関東関西の山伏等皆な此山を大峰に擬し入峯して修行した。六月十五目を峯入の初日とし、御霊渡場より御霊平に上り八王子峰(猪狩村)にかかり横路を経て御岳に至り、登拝の者は八・九月の間を候とし、御岳里宮より登った。山北薬師ケ岳に牛頭天王の祠があり、金峯の奥の院と称するこの下川端下村に盤古の岡があり、三女神を配祀してあってこの辺を戦場高天の原といった。神社の社職に三派あって、社僧は読経して法味を献じ、社人は斎戒して神事を奉納し、年番神主は公用神役を兼帯し、三沢会合して恒例の神事・臨時の新宿を勤め、毎七年目総代を以て御祓を献上し正月六品目空した。社僧12坊弥警の開山は明らかでないが、真言宗醍醐報恩院に隷し、支配の坊には中之坊・下之坊・大部坊・西之坊・刑部坊・滝本坊の六カ所があった。この坊が修験の峯入の拠点になる場所であって、宿坊も兼ねのちの御岳御師として発達していったのである。
富士山
往古において、金峰山と共に修験の峯入の盛んであったのが富士山である。北口の河口は北方御坂山塊越えに河口の里に入って、河口湖畔から吉田へ廻って頂上までのびていた。この古道は後に甲州街道の開発によって桂川筋の富士道と吉田で合流し、吉田口が登山口として盛んになっていった。
このほか東麓須走から登る古道を東口と呼び、南東愛鷹連峰との裾合から拓いた一路があって、いずれも山岳仏教の修験者たちが、度重ねて入峰した踏跡が、次第に踏みひろめられた古峯入路で、修験者たちが富士山を練行道場して登山するときの拠点霊場を拡充するための争いがしきりに行なわれた。
村山口に本山派の修験者が入蜂の足場を固め河口では当山派の修験者が北口を護り、信徒と各師檀関係を結び、熱心な旦那を山中錬行の場所近くへ案内するようになった。これが富士講先達の興りである。修験者が入峯するのは、毎年春秋の二回で、春の峰入を華供の峰といい、農耕をはじめる頃各修験者もちの信徒の五穀豊穣無事息災などの代参祈祷のため、五合目の錬行場で修法を厳修したのである。秋の峰入は初夏から初秋にかけての修業で、本格的な富士練行であった。
年二何の峰入は民間信仰として、春田の神を山から迎え、秋また山へ送るという、農耕信仰として行なわれた。戦国時代の末から浅間信仰が特に盛んになり、一般登拝者に不踏の門戸を開くことになり、この時点から従来の考えが異なり、そこに富士講特有の型が生れて行った。社僧は自坊を開放して導者の宿舎とし、通行税を取り営業化していったため、本来の祈祷師とは幾分内容を異にした社僧が、より御師的な働きを行なった。
上吉田口
上吉田の場合、天正弐拾年(1592)の地割からみられるところの川口坊・毘沙門屋・珠数屋・浅間坊などはおそらく、かつての真言・天台の坊または修験者の拠点になっていた坊が、近世当初御師団を形成して発展した、ひとつの形であると推察ができる。
一方寺院としての体裁を整えていた真言・天台寺院は山岳仏教の変遷にともない、経済的理由もあってむしろ廃寺となり、中世に他に転宗しているのが実態である。上吉田の西念寺は行基の創立であり、富士来迎の阿弥陀三尊を安置した古刹である。祥春庵は浅間神社の師職を兼ねており、下吉田の月光寺は、かつて天台宗として浅間神社の祈祷を掌(ツカサド)っていた。
一方富士山の麓鈴原には大日如来の社、中宮社など修験につながる社が多い。
また八代郡右左口村の七覚山円楽寺も役小角の草創にかかる寺で、大宝元年(701)卓錫して始めて富士登山の路を開くとあり、役行者堂がある。全盛時代は本州修験道の巨頭で、山中に数多の堂坊を建て、南北朝時代には七覚山徒が石和氏と結んで国主武田信武と争ったことが伝えられている。
鎌倉時代
こうして金峰山、富士山等深山幽谷に入りはげしい練行、苦行を積み、自己の験力をあらたかなものにしようとしたのであるが、鎌倉時代には武士・庶民が進んで山伏の先達につれだって峰入をして行を積むことや、自己の意志を先達にしるして峰入りの代りをしてもらう代参が行なわれ、金峰山や富士山等の麓に拠点としてあった山岳宗教が、この平安時代の末から鎌倉時代にかけ里に下っていった。
伝云宝日修験道ノ盛ナリシ時ハ小室妙法寺、休息立正寺、柏尾大善寺、七覚円楽寺、窪八幡普賢寺、藤木法光寺ノ類皆修験ノ渠魁ニシテ此ニ会衆シテ行法斎戒ヲ修セシ由ナリ今其事ハ止ム (甲斐国志巻九十一)
このように修験の盛んな時代には、これらの寺院は拠点となっていたが、のちになって修験は真言・天台宗の別派の如き考えをもつようになって、修験道として固まったので純然たる学僧は山伏を軽蔑し、寄任させることに不満があった。また山伏同志も争いが絶えなかったようである。
小室妙法寺 休息立正寺
小室の妙法寺は往古は真言宗であって、肥前上人は東三十三国山伏の司であったという。また休息の立正寺も真言宗であって、永保三年(1083)時の住持覚範阿閣梨は専ら真言修験を行ない、関東三十三カ国の棟梁として部内を取締るに至った。この時代を子安千坊と称する塔中の数千余、末寺数百を有し宗風全盛を極めたといわれている。
柏尾の大善寺 藤切 鳥居焼
柏尾の大善寺も修験道の根本道場であって、寺中六力院のうち玉善院・一乗院・大覚院・竜宝院の四力院は本山修験であった。毎年四月十四日(現在が五月十八日)の礼祭に行なう児子舞、修験者による藤切も当時を偲ぶ行事である。この藤切りと同じ行事が八代郡右左口村の円菜寺にも伝えられており、其戟(しんきり)と呼ばれている。
なお大善寺には鳥居焼と称せられる精霊送り僚の道風がある。また鳥居焼には伝えがあり、それは大善寺と共に春日居村に菩提山長谷寺と呼ばれる修験の大刹があって、西山では一年おきに七月十五日の夜、篤火を焼く慣わしになっていた。それは柏尾山と菩提山の衆徒が山伏問答の末、勝った柏尾山側は菩提山側の鳥居(山梨岡神社の鳥居)を奪い取り、菩提山側は柏尾の笈を持ちかえり、夫々これを焼却し合ったことにはじまるという。この行事は孟蘭盆会の終りの日に、精霊送りの燎(かがり火)を焼いたことは諸国に残っているが、これは平安以降鎌倉時代仏教の盛んな時代に行なわれたもので、とくに修験道に結びついていったものであろう。
山梨郡八幡村普賢寺
山梨郡八幡村普賢寺は窪八幡神社の別当として大きな勢力をもち、社僧六坊・本山修験五坊をもった八幡宮の神宮寺であった。
藤木村放光寺
また藤木村の放光寺はかつて大菩薩の山麓一瀬高橋部落に山岳仏教として発展した寺で、鎌倉初期に今の地に移して中世に於ける修験道の根本道場であった。
武田信玄時代の修験
次に信玄の時代の時代の修験道の実態をみるに、数字のうえでは把握できないが、真言・天台の往古において隆盛をきわめた妙法寺・大善寺・円楽寺・普賢寺・法光寺資料からして修験の発展過程を推察することができる。とくに信玄は修験に相当な保護を与え、これを利用し、外に対する秘密外交にはその間に介在せしめ、特別の公命によって軍事探偵の役割を勤めさせ、戦時においては戦勝祈願を行なぁせた。
当山派の触頭として、府中元紺屋町の祇園寺があげられるが、清光山峯本院と称し武田の時代躑躅が崎の城南に牛頭天王の社を造営し、武田家の保護を受けていた。祇園寺文書によると永禄三年(1560)に信玄から国中客僧衆、即ち修験に対して条目が出されている。
条目
一、棟別役之普請、悉皆免許之叓
一、遠国江之便、可相勤之事
一、道者引導之人者、不可有路銭之事
但依妹可相渡、其外之客僧へハ、如積可出路銭之事
永禄三庚申(1560)八月廿五日
国中客僧衆
第一一条の「遠国之便可相勤之事」とあるが、永禄十二年(1569)園坊宛の晴信判物にその具体例がみられる。
今度房州江為使者罷越無相違令帰国者、甲州当山之山伏年行夏、可任干所望候、又家壱間諸役、自只今令免許者也、佃如件
永禄十二年己巳八月拾九日
覚園坊
この年安房国里見氏に使者の役を無事に遂行した山臥覚園坊が質せられて甲州当山派の年行事職に補任されたとある。外に対する秘密外交には、このようにしばしば修験を介在させ、特別の公命を申付、軍事探偵の役を行なわせた。また中には行商的に物品売買の取次をした修験さえあった。また第三条に「適者引道之人者、不可有路銭、但依妹可相渡、其外之客僧へ者、如積可出路銭之事」とあるのは信玄家法に
「弥官井山伏等之事ハ、不可頼主人若背此旨ハ、分国徘徊可停止韮也」
とあるのと関連する文書であって、山伏の古い特性である抖(扌数)性、移動性を保存しなければならない、師檀関係の恒常化に伴う経済的得分の固定化を排斥しようとする制条である。
元三日町の玉泉院も密使の役并に軍中先達法螺貝之役を信玄から仰付られており、この武田軍出陣の折の法螺貝役を勤めた修験には八代海蔵寺、上曽根村東養院などが数えられている。
武田氏滅亡後、加藤光春の知行地になって修験道界規制の仕方が、些細な点にまで及んでいる。
「当国之山伏年貢之外諸役之義被成赦免上老於誰々違乱不可有之者也」
(上曽根村・東養院文書)
さらに同院文書で文禄二年(1593)井上梅雲斎栄秀判物には次のように述べられている。
国中山伏衆諸役並に田地役夫銭共被成御赦免之旨光春様御印差遣候条不可有異儀者也」
東養院文書に天文八年(1539)の聖護院甲斐国客僧衆番帳がある。東養院は本山派修験甲斐先達二十四院の一である。
客僧衆御番之次第
壱番 大蔵坊 福泉坊
二番 密蔵坊 京腰妨
三番 大善坊 勝蔵坊
四番 東養坊 重蔵坊
五番 地蔵坊 善蔵坊
六番 大覚坊 満蔵坊
七番 宝蔵坊 一乗坊
八番 宮内卿 信濃殿
九番 善明坊 南泉坊
十番 玉泉坊 常兼坊
十一番 東蔵坊 阿蔵坊
十二番 花蔵坊 不動坊
天文八年己亥卯月吉日 大蔵公
慶長十八年(1613)に江戸幕府は全国の山伏を聖護院(本山修験)・三宝院(当山修験)の両院に分属させた。また儀礼・作法の規定められた。両派の 勢力を『甲斐国志』によってみよう。
本山修験(聖護院)京都聖護院宮下住心院直院 24院
本山修験 61院
計 85院
当山修験(三宝院)
京都三宝院門主末流 84院
駿州江尻延寿院同行 51院
勢州世義寺同行 79院
羽黒派修験 26院
計 240院
また『社記・寺記』によって幕末から明治にかけての実態を見ると、本山修験122院・当山修験226院と数字の上からは、本山修験は増加を示しているが、これは他宗の場合と同じように必ずしも幕末から明治初年にかけ本山派が活発になったのではなく、『甲斐国志』の資料が細部にわたって調査されたのに対して『社記・寺記』の資料提出が杜撰であつたとみた方がよい。
『甲斐国志』(割注『社記・寺記』の間違いか)の修験の部よって幕末の修験道の実態を見るに、本山派としては、京聖護院宮下住心院直院の本山修験甲斐
24箇院がある。聖護院は天台宗寺門派の大本山であって、住持は園城寺の長吏と熊野三山の検校とを兼ねていた。そこで慶長十八年(1613)江戸幕府から修験道本山派法頭に定められ、山伏の本山となった。これが修験道本山派のはじまりである。
甲州本山派二十四院の主なところをみると、府中元紺屋町福昌院、熊野山と称し霞場は東河内領であって、もと城屋町にあり、慶長年間に御城の鬼門鎮護のためこの地に遷された。また境町にある三光院は稲生山と呼び、霞場は西河内領であって、元城屋町にあったのを遷し、御城内の御祈願所であつた。
文政八年(1825)に三光院と八代郡市部村花蔵院が、本山派二十四院の年番役を毎年相談の上で二人ずつ置くことを決めて寺社奉行に届け出ている。和田平町の松雲院は、右左口七覚山の塔頭を移している。
その他二十四院に数えられている寺院に、
白木町万能院・元三日町玉泉寺・三日町大東院・金手町愛染院・板垣村観音院・一宮村大善院・同村正蔵院・河原部村善明院・同村宝積院・同村長学院・小笠原村持宝院・大八田村自性院・白須村斎法院・同村文殊院・岩尾村加納院・西野密蔵院・上宮地村一乗院・西南湖村常乗院があり、本山派の年番役を輪番にて二力寺ずつ交代で行なっている。
他に本山修験六拾箇院があり、その主な寺院を拾ってみると、西保中村の大徳院は昔は金剛坊といい、金峯山の初地役の行者堂の別当であったと称し、初期の修験が後世になって里に下ったことを示している。一宮村の興法寺も三坂山と号し三坂山の行者堂であったものが、近世になってから山を降りている。その他60余カ寺の寺院名は、『甲斐国志』修験之部に詳かである。
天台系を中心とする本山派に対して、真言宗醍醐派の総本山三宝院を中心とする修験を当山派と呼び、本山派の役小角を開祖としているのに対して、当山派は理源大師聖宝を開祖として強調した。
甲州の当山派修験を『甲斐国志』にみると、直接
京都三宝院門主末派が84院、
駿州江尻延寿院同行が51院、
勢州世義寺同行が79院、
奥州羽黒派26院があり、
総数では244院あって本山派より勢力があった。
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甲斐駒ヶ岳開山 資料『甲斐の修験』その2
三宝院末流84四院で、その触頭であるとともに武田信虎以降の中心勢力であつた祇園寺は府中元紺屋町にあつた。この祇園寺は祭場を飾る竹木等は公儀より賜わり、神符献上並に御郭内外町家に軒別に配札し、御都内西御門通より東北の納戸小路・愛宕町・新紺屋町・元紺屋町・大泉寺小路・岩窪等はこの祇園寺の産子場であつた。『甲斐国志』に県内の祇園寺触下が70箇院としているが、『社記・寺記』によると配下末寺之分56カ院である。当山派の触頭にはこの祇園寺のほかに、『甲斐国志』をみると当山修験触頭三カ寺を決めており、府中工町宝蔵寺、堺町明王院、武河筋台ケ原宿智拳寺が数えられている。
当山派の院のうち
駿州江尻延寿院同行が51院、
伊勢国世義寺同行の院が79院
を数えていることは注目すべきことである。羽黒派であるが、文化年間には26院みえるが、『社記・寺記』では8院しかみられない。
『社記・寺記』によって修験の分布を第一表によってみるに、本山修験は北都留が圧倒的に多い。次に北巨摩、東山梨、東八代一帯である。当山派は北巨摩、東山梨、東八代、中巨摩に多く分布を見る。
〔甲斐国社記寺記のよる甲州修験の分布〕
甲府 | 東八代 | 西八代 | 北巨摩 | 中巨摩 | 南巨摩 | 北都留 | 南都留 | 東山梨 | 計 | |
本山修験 | 12 | 15 | 15 | 21 | 5 | 0 | 33 | 16 | 15 | 122 |
当山修験 | 20 | 22 | 18 | 91 | 21 | 0 | 3 | 20 | 31 | 226 |
ここで今、まで紹介されたことが少ない、修験の世界を紐解いてみる。と、そこには甲斐駒ヶ岳開山既報とは全くかけ離れた世界が存在していたことが明らかになる。
白州町の修験 横手村 当山派修験宗格院 本良院
資料 『甲斐国社記・寺記』(山梨県立図書館編集)一部加筆
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕
これによれば、駒ケ岳神社や権三郎開山とは全く関係ない、地域と密接した修験との関連が明確読み取れる。小尾権三郎も父も修験の世界に身を置くものであれば、当山派修験宗格院本良院を始め横手近隣の修験に身を寄せなかったのか不自然である。横手には下記の本良院もあり、山田家が関与する事案ではない。また白須(字前沢)の長学院も「駒岳大己貴神」を堂場に勧請している。しかし権三郎との関与は認められない。権三郎による甲斐駒ヶ岳開山伝記は、駒ケ岳講の振興に伴い関係者に依り過大創作されたともとれる。ここに甲斐駒ヶ岳開山に関わる謎が横たわることになる。
横手村 当山派修験宗格院 本良院 明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕 巨摩郡(現白州町)横手村 当山派修験宗格院 本良院 由緒明細書上帳 一、御祈願道場 但シ弐間半ニ弐間 本尊 不動明王 祭礼日十一月廿八日、護摩修行天下泰平国家安全今上 皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候 兼帯所 一、駒ケ嶽観世音菩薩 但シ護摩堂三間四方 石鳥居 高一丈 祭礼日八月六日柴燈護摩修行 一、愛宕大権現御社地 長十四間 横六間 此坪八十四坪 祭り十月廿四日 一、山ノ神社地 長拾四間 横六間 此坪七十四坪 祭礼 十月十七日 一、神明宮社地 但長拾四間 横六間 此坪七十坪 祭り日 三月十六日 一、鳳凰大権現社地 長七間 横四間 二十八坪 祭り日九月九日 一、風神社地 長七間 横五間 此坪 三十五坪 祭 七月十日 一、水神社地 小社 祭礼 七月二十五日 一、上今井山神 小社 右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候 十一月二度目の亥の日 一、湯大権現 小社 同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日 一、妙見大菩薩 小社 一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地 一、院 宅 但八間半 五間 二 土 蔵 弐間半 三間 右駒嶽之儀者高山に御座候得バ峰三ケ処ニテ 御本地観世音菩薩也、 中之岳ニハ大権現、 奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、 古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候 以上 尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候 右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上 慶応四辰年八月 日 巨摩郡横手村 駒獄別当 別納 本良院 ㊞ 寺社御役所 |
白州町内の修験 白須 斎法院 巨摩郡白須村 明細書上帳 聖護院官末派 本山派修験二十四ケ院組 斎法院 巨摩郡白須村 斎法院 良印 除 地 一、弐百坪 東西二十一間 南北拾間 右境内之内 一、東西八間南北四間 家作 但し板屋根ニ御座候 一、東西三間南北弐間 土蔵 壱ケ所 同断 一、神変大菩薩 木像 壱躰 一、本尊 不動尊 木像 壱躰 |
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甲斐駒ヶ岳開山の真実と誤伝 山梨の資料をもとにして
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サブやんの気まぐれ調査研究
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武田信玄の城(現武田神社)には城があった
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甲斐駒ヶ岳の信仰 竹宇駒ケ岳神社案内図 昭和初期
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甲斐駒ヶ岳の信仰 白州町の石碑
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白州町 台ケ原宿
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白州町案内 竹宇駒ケ岳神社
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白州町の案内 鳥原石尊神社
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白州のご案内 宗良親王の足跡
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獣医,人妻の股ぐらを診察するの巻
獣医人妻の股ぐらを診察するの巻
「艶説 生きものの記録」泉二三彦氏著 昭和31年刊
ストリップショウなどというはだか踊りが一世を風靡して以来、女性の裸体美、特に乳房と臀部の美が、公然と鑑賞できるようになったことは御同慶のいたりです。画壇の亘匠ルノア-ルは、「女に乳房と臀部とがなかったならば、自分は決して裸を画かなかったであろう」と、のたまわせられました.ルノア-ル先生の言をまつまでもなく、女性美の焦点のひとつはたしかにこの地帯にあるといってよいでしよう。
盛上っている乳房が、あたかも生きもののようにブルンブルンと動く情景は、男性の血を頭にのぼらせるに十分です。乳房の大きいことを恥じて、無理に乳押えをしたりした古い習慣は愚の骨頂でした。和服で帯を強く乳房の上にしめる様式もすみやかに改良したいものです。従来、日本人はあまりに乳房を虐待しすぎていたと思います。歌麿えがくところの古代の美人画にも、オッパイの美はあまり示されていないのが残念です。
東郷青児さんあたりが、オッパイの美を強調されて以来、オッパイの商品価値がいちじるしく高められたことは喜ばしい限りです。東郷青児さんがオッパイ小僧とかいう、巨大な乳房美人を世に紹介して以来、オッパイ二世、三世が相ついであらわれ、今日ではもう百世ぐらいまであらわれているかも知れません。
小屋がけのストリップショウなどでキこのオッパイ何世かをでんと正面に鎮座させてその拝観料を巻き上げているのがあります。乳房が美の対象として、日本のサムライ共に認識されだしたのは、裸体画、ヌード写真の影響もさることながら、ストリップショウの影響が大であるといわざるをえません。
パラリと脱ぎすてた下着の下に忽然とあらわれて、ブルンブルンとゆらぐオッパイの躍動を見るとき、男性たるものはそこに偉大なるエロ、否、美の再発見をしないではいられません。
従来、日本人には乳房を生殖器の一部だとする思想はなく、単なる授乳用具だとする悲しい思想があって、電車の中などでも、衆人環視のなかで平気でデンとオッパイを引っぱり出して、子供に乳を飲ませていました。外人はこれを見てキモをつぶしたそうですが、今日でもこのような風景は別に珍らしくはありません。元来、乳房はその性能の上からみれば、たしかに生殖器と深いつながりのある器官ということができますから、乳房は羞恥であるべき性質のものでしよう。
お隣りの中国では、乳房はこれを決して人に見せないのを礼儀として、乳房をできるだけ小さく見せるのを美装術の心得とさえしていました。ですから中国婦人は決してわが大和撫子のように、人前で胸をはだけるような失礼なまねはしないようです。
生物のなかで、もっとも高等な部類に属する哺乳類のみが、この乳房という器官をもっています。哺乳類の子供は、人間でも同じことですが、乳房の中央部にある乳頭から出て乳を吸って成長します。乳頭払は十二~十五の小さな孔が開いていて、ここから乳がにじみ出ます。乳房の皮下にはたくさんの乳腺という管があって、これがこの孔にあつまっているわけです。
さて女の子は色気づいてくると、急に乳房が発達して、やがて椀をふせたような半球形の可愛らしい乳房になります。花もつぼみの頃のこの可愛らしいお碗型の乳房は、次第に皮下脂肪の沈積によって肥大して、体の運動につれてプルンソブルンと波うつように発達してくるわけです。
処女の乳頭は、愛のボタンとよばれ、バラ色に色づいていて、まさに花のつぼみのように美しく、生き生きとしています。
これにくらべると、カビの生えた古女房の乳房などは兎の糞のようで風情がありませんし、オバアチヤンのそれは乾ブドウのようにひからびてしまって全くいただけません。乳房の大きさは、決して、一定不変のものではなく、大きくなったり、小さくなったりするようです。特に妊娠の末期には極大に達することはいうだけヤボというものでしよう。処女の乳房は、左右同じ大きさですが、男を知った女性の乳房は百人のうち七十七人までが、左にくらべて右の方が大きいといわれています。
この原因は、女は性生活がはじまると右を下にして寝る習性があるからだともいわれています。右側を下にして寝るとなぜ右乳房が大きくなるかといいと、脂肪が下側のほうにたまるからだとも思えます。
古代インドの性典「アナンガ・ランガ」という本には、「二つの乳房の大きさや、位置のちがう女を妻にめとるな」ということが書かれています。左右不同の乳房をもつ女は処女ではないという警告なのでしょう。これをきいて、ギョギョッとなる女性もあるかも知れませんが、心配だったら当分左側を下にしていればばよいでしよう。乳房は、元来、哺乳のための器官ですが、男性の愛撫の対象となるところから「愛のポタン」とか、「愛のクッション」とかいわれるようになったものでしよう。つまり性行為における愛の玩具ともいうべきものでしよう。愛のボタンとよばれる乳房はまさに、男性のペニスに共通する性質をもっています。興奮すると充血して勃起します。愛撫をうけたボタンは、水を吸った小豆のように膨脹することはサムライどもは先刻承知しております。
乳房は人間では左右一対ありますが、多産の哺乳顆では、乳房の数も五、六対もあるのがふつうです。この乳房の数は、大体その動物が産む子の数と一致するようになっています。豚などでは、時に乳房の数より余計に子を産むことがありますが、乳房取り競争にアプレた弱気な子は栄養失調で死んでしまいます。
人間は二つ乳房がありますから、双児までは安心して産めるわけです。三つ児以上は計算を誤ったものといえます。しかし、人でもまれに二対以上の副乳というものをもっている例があります。副乳のある女性は百人に四人ぐらいの割に見られるといいます。人間にもこのようにたくさんの乳房がある例は、人間も大むかしは犬や豚のように多産であったことがある歴史を物語っているものでしよう。乳房は女性の象徴ですが、ふしぎなことには男性の肉体にもれっきとした乳房がついているという事実です。この事実から、大むかしは男性も哺乳の役目を受けもっていたのだとも証明されています。アイスランドの言い伝えに、ソールギノルという男があって、婁が分娩後死亡したので、子供をそだてるのに困って、自分の乳房を吸わせているうちに、本当に乳が出るようになったという話があります。これに類する話は日本にも珍らしくありません。
医学的にも、男の乳房から乳が分泌されたという現象は確認されています。面白いのは、男に女性ホルモンを注射すると、乳房が発達してくることです。
こんなはなしがあります。ある女性ホルモン製造工場、で働いていた男が、ある時、乳頭の痛みを訴えたので、医者がしらべてみると、乳弱から乳がしみだすようになっていたということです。これは作業中に女性ホルモンが皮膚から吸収されて、乳腺の発達をうながしたものと思われます。乳房の肉体実は、人間特有のものであって、他の動物の乳房にはわれわれは肉体美を発見することはまずありません。
牛や山羊のピンク色の乳房はちょっとばかり美しく見えますが、あれは製乳機械としての横機械美ともいうべきものでしよう。
哺乳顆のなかで一風変っているのは、カモノハシというオーストラリア産の動物で、乳房というものはなく、からだの表面から乳がにじみ出てきます。哺乳のときは母親は仰向けにひっくり返ります。すると、予は母親のお腹中をペロロとなめてしみだす乳を吸うのです。それにつけても、カモノハシの雄どもは、オッパイというものの魅力を知らないあわれな奴等です。
さて、あるところに、人の人妻がいました。あるとき、乳房をはらして痛くてたまりませんでしたので、近所の医者のもとにかけつけました。ところがあいにく留守でしたので困惑しましたが、ふと近くに獣医さんがいることを想い出して、「獣医さんでも、医者は医者にちがいない」と考えて、獣医さんの門を叩きました。「先生、御迷惑でしようが、乳房がいたくてたまりません。ひとつ、みては頂けないでしょうか?」「いいとも、いいとも、たやすい御用だ。さあこの寝台の上に構になりなさい」というわけで、女は寝台の上に横になりました。すると、獣医は彼女の胸元には目もくれず、ハッと彼女の裾をまくって、下腹部へいなり手をつっこんだので、女はたまげて、ガバッとはね起き、「あれっ先生、何をなさいます!」と、鋭くきめつけますと、獣医先生は、頭をかきかき、「これは失礼しました。いつも牛の乳房を吸いつけておりますもので、あなたのもテッキリとここあるものた感ちがいいたしました!」と、あやまったそうです。
「艶説 生きものの記録」泉二三彦氏著 昭和31年刊
ストリップショウなどというはだか踊りが一世を風靡して以来、女性の裸体美、特に乳房と臀部の美が、公然と鑑賞できるようになったことは御同慶のいたりです。画壇の亘匠ルノア-ルは、「女に乳房と臀部とがなかったならば、自分は決して裸を画かなかったであろう」と、のたまわせられました.ルノア-ル先生の言をまつまでもなく、女性美の焦点のひとつはたしかにこの地帯にあるといってよいでしよう。
盛上っている乳房が、あたかも生きもののようにブルンブルンと動く情景は、男性の血を頭にのぼらせるに十分です。乳房の大きいことを恥じて、無理に乳押えをしたりした古い習慣は愚の骨頂でした。和服で帯を強く乳房の上にしめる様式もすみやかに改良したいものです。従来、日本人はあまりに乳房を虐待しすぎていたと思います。歌麿えがくところの古代の美人画にも、オッパイの美はあまり示されていないのが残念です。
東郷青児さんあたりが、オッパイの美を強調されて以来、オッパイの商品価値がいちじるしく高められたことは喜ばしい限りです。東郷青児さんがオッパイ小僧とかいう、巨大な乳房美人を世に紹介して以来、オッパイ二世、三世が相ついであらわれ、今日ではもう百世ぐらいまであらわれているかも知れません。
小屋がけのストリップショウなどでキこのオッパイ何世かをでんと正面に鎮座させてその拝観料を巻き上げているのがあります。乳房が美の対象として、日本のサムライ共に認識されだしたのは、裸体画、ヌード写真の影響もさることながら、ストリップショウの影響が大であるといわざるをえません。
パラリと脱ぎすてた下着の下に忽然とあらわれて、ブルンブルンとゆらぐオッパイの躍動を見るとき、男性たるものはそこに偉大なるエロ、否、美の再発見をしないではいられません。
従来、日本人には乳房を生殖器の一部だとする思想はなく、単なる授乳用具だとする悲しい思想があって、電車の中などでも、衆人環視のなかで平気でデンとオッパイを引っぱり出して、子供に乳を飲ませていました。外人はこれを見てキモをつぶしたそうですが、今日でもこのような風景は別に珍らしくはありません。元来、乳房はその性能の上からみれば、たしかに生殖器と深いつながりのある器官ということができますから、乳房は羞恥であるべき性質のものでしよう。
お隣りの中国では、乳房はこれを決して人に見せないのを礼儀として、乳房をできるだけ小さく見せるのを美装術の心得とさえしていました。ですから中国婦人は決してわが大和撫子のように、人前で胸をはだけるような失礼なまねはしないようです。
生物のなかで、もっとも高等な部類に属する哺乳類のみが、この乳房という器官をもっています。哺乳類の子供は、人間でも同じことですが、乳房の中央部にある乳頭から出て乳を吸って成長します。乳頭払は十二~十五の小さな孔が開いていて、ここから乳がにじみ出ます。乳房の皮下にはたくさんの乳腺という管があって、これがこの孔にあつまっているわけです。
さて女の子は色気づいてくると、急に乳房が発達して、やがて椀をふせたような半球形の可愛らしい乳房になります。花もつぼみの頃のこの可愛らしいお碗型の乳房は、次第に皮下脂肪の沈積によって肥大して、体の運動につれてプルンソブルンと波うつように発達してくるわけです。
処女の乳頭は、愛のボタンとよばれ、バラ色に色づいていて、まさに花のつぼみのように美しく、生き生きとしています。
これにくらべると、カビの生えた古女房の乳房などは兎の糞のようで風情がありませんし、オバアチヤンのそれは乾ブドウのようにひからびてしまって全くいただけません。乳房の大きさは、決して、一定不変のものではなく、大きくなったり、小さくなったりするようです。特に妊娠の末期には極大に達することはいうだけヤボというものでしよう。処女の乳房は、左右同じ大きさですが、男を知った女性の乳房は百人のうち七十七人までが、左にくらべて右の方が大きいといわれています。
この原因は、女は性生活がはじまると右を下にして寝る習性があるからだともいわれています。右側を下にして寝るとなぜ右乳房が大きくなるかといいと、脂肪が下側のほうにたまるからだとも思えます。
古代インドの性典「アナンガ・ランガ」という本には、「二つの乳房の大きさや、位置のちがう女を妻にめとるな」ということが書かれています。左右不同の乳房をもつ女は処女ではないという警告なのでしょう。これをきいて、ギョギョッとなる女性もあるかも知れませんが、心配だったら当分左側を下にしていればばよいでしよう。乳房は、元来、哺乳のための器官ですが、男性の愛撫の対象となるところから「愛のポタン」とか、「愛のクッション」とかいわれるようになったものでしよう。つまり性行為における愛の玩具ともいうべきものでしよう。愛のボタンとよばれる乳房はまさに、男性のペニスに共通する性質をもっています。興奮すると充血して勃起します。愛撫をうけたボタンは、水を吸った小豆のように膨脹することはサムライどもは先刻承知しております。
乳房は人間では左右一対ありますが、多産の哺乳顆では、乳房の数も五、六対もあるのがふつうです。この乳房の数は、大体その動物が産む子の数と一致するようになっています。豚などでは、時に乳房の数より余計に子を産むことがありますが、乳房取り競争にアプレた弱気な子は栄養失調で死んでしまいます。
人間は二つ乳房がありますから、双児までは安心して産めるわけです。三つ児以上は計算を誤ったものといえます。しかし、人でもまれに二対以上の副乳というものをもっている例があります。副乳のある女性は百人に四人ぐらいの割に見られるといいます。人間にもこのようにたくさんの乳房がある例は、人間も大むかしは犬や豚のように多産であったことがある歴史を物語っているものでしよう。乳房は女性の象徴ですが、ふしぎなことには男性の肉体にもれっきとした乳房がついているという事実です。この事実から、大むかしは男性も哺乳の役目を受けもっていたのだとも証明されています。アイスランドの言い伝えに、ソールギノルという男があって、婁が分娩後死亡したので、子供をそだてるのに困って、自分の乳房を吸わせているうちに、本当に乳が出るようになったという話があります。これに類する話は日本にも珍らしくありません。
医学的にも、男の乳房から乳が分泌されたという現象は確認されています。面白いのは、男に女性ホルモンを注射すると、乳房が発達してくることです。
こんなはなしがあります。ある女性ホルモン製造工場、で働いていた男が、ある時、乳頭の痛みを訴えたので、医者がしらべてみると、乳弱から乳がしみだすようになっていたということです。これは作業中に女性ホルモンが皮膚から吸収されて、乳腺の発達をうながしたものと思われます。乳房の肉体実は、人間特有のものであって、他の動物の乳房にはわれわれは肉体美を発見することはまずありません。
牛や山羊のピンク色の乳房はちょっとばかり美しく見えますが、あれは製乳機械としての横機械美ともいうべきものでしよう。
哺乳顆のなかで一風変っているのは、カモノハシというオーストラリア産の動物で、乳房というものはなく、からだの表面から乳がにじみ出てきます。哺乳のときは母親は仰向けにひっくり返ります。すると、予は母親のお腹中をペロロとなめてしみだす乳を吸うのです。それにつけても、カモノハシの雄どもは、オッパイというものの魅力を知らないあわれな奴等です。
さて、あるところに、人の人妻がいました。あるとき、乳房をはらして痛くてたまりませんでしたので、近所の医者のもとにかけつけました。ところがあいにく留守でしたので困惑しましたが、ふと近くに獣医さんがいることを想い出して、「獣医さんでも、医者は医者にちがいない」と考えて、獣医さんの門を叩きました。「先生、御迷惑でしようが、乳房がいたくてたまりません。ひとつ、みては頂けないでしょうか?」「いいとも、いいとも、たやすい御用だ。さあこの寝台の上に構になりなさい」というわけで、女は寝台の上に横になりました。すると、獣医は彼女の胸元には目もくれず、ハッと彼女の裾をまくって、下腹部へいなり手をつっこんだので、女はたまげて、ガバッとはね起き、「あれっ先生、何をなさいます!」と、鋭くきめつけますと、獣医先生は、頭をかきかき、「これは失礼しました。いつも牛の乳房を吸いつけておりますもので、あなたのもテッキリとここあるものた感ちがいいたしました!」と、あやまったそうです。
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芭蕉と素堂 芭蕉死す、その時素堂は
芭蕉死す
元禄7年 甲戌 1694 53才
世相
○側用人柳沢保明は、しだいに加増され正月に七万二千三十石で武蔵川越城主となり、
○十一月二十五日の評定所の式日に出席し、十二月には老中に准ぜられ、牧野成貞に代って側用人として実権を掌握することになった。
○四月、伊賀上野大火、一千余戸焼失する。
◆生類憐みの令続行
四月、場末で犬を傷つけものを逮捕し町奉行に訴えさせる。捨犬禁止。
七月、傷ついた犬は毛色・傷の様子を記録した犬医師のところで治療させること。
十月、幕臣等に令の精神を示達する。
○出版禁止令。歌舞伎役者・遊浪の少年・前髪もの・女踊子などが女性の家に出入りすることを再禁止する。
俳壇
○二月、芭蕉は許六宛書簡で「軽み」を説き、野坡・沾圃・桃隣の新風を評価する。
○四月素龍は「奥の細道」を清書し、跋を記す。素龍は芭蕉の依頼で、『炭俵』の序を記す。三千風が隅田川畔に仮寓する。
芭蕉の晩年の動向については後述する。
依水
三月七日付、曾良宛書簡
来ル十八日の翁も参られ候筈に御座候。
一席催し候間、素堂子御誘ひなされ候
ひて御出で下され候様に待ち奉り候。
芭蕉
五月十六日付、曾良宛書簡
『芭蕉文集』(荻野清氏著)
尚々宗波老へ 願置候素堂書物早々かへされ候と相申よし申上可被下候。
尚々宗波老へ 預置候素堂書物早々かへされ候様ニ頼申よし御申可被下候。
『甲斐俳壇と芭蕉の研究』(池原錬昌氏著)
素堂
九月刊、戸田茂睡編『不求梨本隠家勧進百首』入集。
すむ庵を世の人のかくれ家といふきゝて
人しれぬ身にますれはをのつから もとむともなきかくれかにして 法し 茂睡
いりかある言葉の花の世にもれは身のかくれかのかひやなからむ 信章 素堂
隠家もとなりありとは言の葉の道をわけたる人にしられて 幽山 高野
けふはまつよろつの民の言の葉に治る御代の春をしるかな 清水 宗川
貝ひろふ蜑の子あまた数見えて霞む海邊の春の朝なき 原 安適
茂睡
寛永六年(1620)生、~宝永三年(1706)歿。年七十八才。
戸田氏。通称茂右衛門、後に茂睡。渡辺監物忠(三河国戸田家から旗本渡辺山城守茂の養子となる)の子として駿府城内に
生まれる。父は主君徳川忠長の改易の事に坐して下野国黒羽に蟄居、茂睡も二十才まで同地で過ごした。
その後江戸の伯父戸田政次の養子となり、明暦元年~寛文十二年(一説には天和三年~宝永元年)の間、本多侯に仕官した。
しかし本多侯の国政改革に際して浪人となり、晩年は遁世して浅草金龍山などに住んだ。祖父・父とも和歌連歌を嗜む名門で、環境に恵まれた。実作より歌学面に見るべき点があり、古今伝授や制詞を重んじる因襲的の堂上歌学に痛烈な批判を加えた。
著作書
『梨本集』『百人一首雑談』『僻言調』『鳥の迹』『紫の一本』『梨本書』『御当代記』など。
素堂
閏五月、『炭俵』発句二入集。野波・孤屋・利牛編。
むめがゝにのつと日の出る山路かな 芭蕉
蓬莱に聞ばや伊勢の初便 同
みちのくのけふ關越ん筥の海老 杉風
春や祝ふ丹波の鹿も歸とて 去来
喰つみや木曾のにほひの檜物 岱水
猶いきれ門徒坊主の水祝ひ 沾圃
東雲やまいら戸はづすかざり松 濁子
目下にも中の詞や年の時宜 孤屋
長松が親の名で来る御慶哉 野坡
夏の部発句
髭宗祇池に蓮ある心かな 素堂
三日月の隠にてすゞむ哀かな 同
『炭俵』
芭蕉が江戸深川の草庵で冬の夜に、肖柏のくぬぎ炭の歌を誦して「炭だはらといへるは誹也けり」に基づく。
野波
寛文二年(1662)生、~元文五年(1740)歿。年七十九才。
越前国福井の生まれ。越後屋両替店の手代(番頭)、元禄以後は其角の指導を受け、俳諧師として生涯を過ごした。元禄六年芭蕉に師事して教えを受けた。
この頃の垣の結ひ目や初しぐれ (『続猿蓑』)
孤屋
生没年不詳。貞享三年(1686)~元禄十五年(1702)にかけて活動。通称小泉小兵衛。江戸駿河町越後屋の手代(番頭か)
こほろぎや箸で追やる膳の上 (『すみだはら』)
利牛
生没年不詳。元禄六年(1693)~宝永五年(1708)前後に活動。
江戸駿河町越後屋の手代(番頭か)
子は裸父はててれで早苗舟 (『すみだはら』)
素堂
『蘆分舟』入集。不角編。素翁序(素堂)
五月あめ晴過る比蘆分舟をさしよせて、江の扉たゝく人有。この舟や難波の春を始めて玉江のあしの夏狩りものせて是をおもしとせず。尚しほれ戸のからびたるも一ふしあるはそれすてめや。
しばしかたらひて手をわかつとき
鳩ノ巣や帰る目地茂る足の暇 素堂
春もはや山吹しろく苣苦し 々
『蘆分舟』
四季別の冊をわけ、連句・発句を配し、冬の巻末に自己の四季句を披露した撰集。
不角
寛文二年(1662)生、~宝暦三年(1753)歿。年九十二才。
立羽氏。江戸の書肆。十三才で不卜に入門。天和三年(1683)刊の『誹諧題林一句』に入集以後活躍し、元禄三年より
「前句付」の月次興行を開始、
宝永三年(1706)には高点集を刊行して確固たる地位を築き、享保十五年(1730)には法印となる。
空せみは元の裸に戻りけり (『うつ蝉』)
素堂
八月刊、『句兄弟』発句一入集。其角編。
洛陽の花終りける頃
亦これより若葉一見成にけり 素堂
『句兄弟』
沾徳跋。上巻は発句合。中巻は肅山との両吟歌仙。下巻は紀行句と諸家発句を収める。
其角
別掲。
素堂
『名月集』発句一入集。心桂編。
ムすぎぬ心や月の十三夜 素堂 (ム -うま)
『名月集』
巻頭に心桂の二夜の月の序文と浪化の発句を一対の句文のように置き、次に名月・後の月の発句二十三句と心桂の月の三物を配す。云々
素堂
芳里袋』発句一入集。友鴎編。素堂、序を草す。
朝がほ盛久し
朝がほハ去年の垣に盛哉 素堂
素堂……曾良宛書簡(妻の死)
御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀妻ニ離申候而、当月( )ハ忌中ニ而引籠罷候。
一、
桃青大阪ニて死去の事、定而御聞可被成候、御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。
一、
元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。
内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日相したゝめ可申候、其内も人の命ははかりがたく候へ共、云々
一、
例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや
曾良賀丈 素 堂
素堂
妻の死のため芭蕉の葬儀(大阪)へ行けず。
《註》
前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。
これまでの素堂伝記諸本による、素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。
又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於ての創作である。この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未である。
《註》
参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介・『俳諧ノ-ト』星野麦久人氏著・『芭蕉の手紙』村松友次氏著
芭蕉、十月十二日大阪にて歿。
〔芭蕉の死〕
『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)
十月十一日
この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞いて馳せ参じる。夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・
木節・乙州らに句あり。この内丈草句、「うづくまる薬の下の寒さ哉」のみを「丈草出来たり」と賞す。
十月十二日
申の刻(午後四時頃)歿す。
遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。この折の付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。
膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。
十月十三日
朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻が浄衣を縫う。埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。
十月十四日
夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。会葬者三百余人。
十月十六日
伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。
杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。
十月二十五日
この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月日を記す。
素堂
『枯尾花』発句一入集。其角編。「芭蕉翁終焉記」
十月十八日、於義仲寺、追善の誹諧
なきながら笠に隠すや枯尾花 晋子(其角)
温石さめて皆氷る聲 支考 温石=をんじゃく
行灯の外よりしらむ海山に 丈艸
やとはぬ馬士の縁に来て居る 惟然
つみ捨し市の古木の長短 木節
洗ふたやうな夕立の顔 李由
森の名はほのめかしたる月の影 之道
野かげの茶の湯鶉待也 去来
水の霧田中の舟をすべり行 曲翠
旅から旅へ片便宜して 正秀
暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ 臥高
風のくするを惣くがのむ 泥足
こがすなと齋の豆腐を世話をする 乙州
木戸迄人を添るあやつり 芝柏 (以下略)
十月廿三日追善
亦たそやあゝ此道の木葉掻 湖春
一羽さびしき霜の朝鳥 素龍
碇網綰なる月に浪ゆりて 露沾 綰 -わが
野分の音のかはる兀山 萍水 兀山-はげやま
秋中に殘らずつけし蔵の壁 桃隣
青苧の長を引上にけり 岱水 青苧-あをう
内かたは物やはらかな人づかひ 野坡
ほろく雨の末は四五町 孤屋
その形に紙で巻たる百合の花 利牛
竈の火けして庵たて寄 杉風 竈 -くど
雲水の身はいづちを死所 素堂
帆をもつ舟は疊也けり 筆
素堂
深草のおきな、宗祇居士を讃していはずや。
友風月 家 旅泊
芭蕉翁のおもむきに似たり
旅の旅つゐに宗祇の時雨哉 素堂
義仲寺へ送る悼
氷るらん足もぬらさで渡川 法眼 季吟
告て来て死顔ゆかし冬の山 露沾
凩の聲に檜原もむせびけり 素龍
素龍
生年不詳、~正徳六年(1716)歿、年五十四才とも六十一才とも。
通称義左衛門。もと阿波国徳島藩士。元禄五年(1692)に芭蕉と相識り、『奥のほそ道』を清書し跋文を寄せた。本領は歌学で幕府歌学方季吟に接近し、元禄十三年(1700)頃、 柳沢吉保の禄を得て、将軍綱吉の前で『源氏物語』を購読する栄に浴した。吉保の息子吉里にも仕え、柳沢家の和歌指南として謹仕し没した。
岱水
生没年不詳。貞享~宝永頃。貞享四年(1687)の『伊賀餞別』に苔翠の号で入集以来芭蕉庵の側に住居する。著に『木曾の谷』がある。
湖春
慶安元年(1648)生、~元禄十年(1697)歿。年五十才。
季吟の長男。幼時から父の俳席に列して腕を磨き寛文七年(1667)宗匠として独立。『続山井』を編んだ。以後父季吟の実務担当者として活躍し、後京都で活躍。元禄二年(1689)に父とともに幕府に歌方として招かれる。
〔素堂余話〕
素堂像
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甲斐駒ヶ岳開山 長野県資料1『茅野市史』
茅野市 修験道の歴史 権三郎について
茅野市史 第4巻 第3節 修験道(1036ページ)
修験道の普及
修験道とは役小角を祖とした仏教の一派で、日本固有の山岳信仰がもとになって盛んになった。醍醐天皇の時代(平安中期)に真言宗の聖宝が三宝院流を開き、堀川天皇の時代(平安中期)に天台宗の増誉が聖護院流を開いたという。室町時代になると聖護院を本所とする本山派と、醍醐寺を本所とする当山派が対立した。この両派は大峯・金峯山など吉野の高山や熊野三山を霊山として修行していた。
また奥羽の出羽三山にも三山派の本拠があった。発祥についての詳細は不明であるが、崇峻天皇の御子、蜂子皇子もここで修験されたと伝えられ、また羽黒山に陵墓があるということなどから考えると、三宝院流や聖護院流よりさらに年代が古いということも考えられる。修験者は山伏・行者などとも呼ばれ、多くの場合髪は結ばず解き乱し、兜巾を頭上に戴き、篠懸(すずかけ)および結袈裟(ゆいけさ)を着け、笈を負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らして山野を修業して歩いた。山伏とは山野に伏し起きするところからきているというが、古い時代には太刀を腰に仰いていたところからか山武士などと書かれたものもみられる。
修験者は難行苦行して神験を修得し、人々の依頼によって護摩を焚き、呪文を詞し、疾病平癒・災厄除去・悪霊退散、また方位方角をみる、日どりの選択、憑物のはらいから、縁結び、安産祈願に至るまでさまざまな祈祷を行った。
時代が下り、修験道の普及と共に紛らわしい山伏も歩き廻るようになった。 文化4年(1807)の廻状には
「百姓町人等の講を立て、修験の袈裟をかけ、錫杖を振り、唱えごとを申し、家々の門に立ち奉加を乞い、また病人などの祈念を頼まれ、あるいは寄せ集め経を読み、俗にいう山伏体に紛わしき儀致し候由、自然と家業の怠りにもなり、風俗を乱し、第一わがまゝなる致しかた、不らちの至りに候。今後、右体の儀致し慎ものあれば、必ず厳罰申し付けべく候」
とあり、民衆に迷惑がましい行為に及ぶことを取り締ったようである。
さて諏訪における実態については、次の文書によって本山派と当山派の修験者を知ることができる。ただこの文書は年号がないが江戸中期の宝暦ころと推定される。
御郡中山伏 本山方上年行事
盛就支配下
下桑原村 清宝院
同所 清長院
大熊村 三良坊
下菅沢新田 持宝院
御射山神戸村 光明院
机村 正学坊
上蔦木町 金剛院
柏木新田 大円坊
北久保新田 範良坊
中沢村 光学坊
槻木新田 吉祥院
北大塩村 宝泉坊
南大塩村 玄競坊
須栗平新田 栄宝院
神宮寺村 伴競坊
右天台宗聖護院御門跡御支配
当山方触頭 智法院支配下
小和田村 三光院
下桑原村 法正院
古田村 方宝院
木之間村 蓮花院
森新田 大法院
神之原村 宝 山
和泉村 書法院
熊井村 慈法院
右真言宗三宝院御門跡御支配
本山方下年行事
常法庵支配下
内田村 不動坊
右天台宗聖護院御門跡御支配 (『長野県史第九巻』より)。
右のほか、茅野市域の修験のことを記したものは少なく、宗門帳に記されている名前と年齢、子孫に伝わる院号、誓などの補任状の警、村々に伝わる文書などをもとに概略を述べることにする。ただ伝承のみのものや確認できなかったものについてはあげなかったものもある。
本山派
甲州韮崎より寛文年中に福沢村に移り住んだといわれる善明院の名は、寛文十二年(1672)より宗門帳にみることができる。その次男が分かれて、下菅沢新田に住み、玉法院と称したのは元禄十年(1687)ころのことである。善明院は、文政十年代(1827)まで幾代かその票みえ、玉法院も、その後何代かつづき、慶応四年(1816)まで宗門帳に記されている。下筋の小口汐の開発に力を尽くしたと伝えられる小林大膳は、玉法院の五代目だといい、また前にあげた『御郡中山伏』の中に至る持法院も、その一族である。
槻木新田の智鏡院は、寛文王年の宗門帳に、成就院同行、智鏡院、四十五、とあるのを初めとして今日まで修業が続いているという。『御郡中山伏』に見える吉祥院は、智鏡院の後裔であり、また八ヶ岳開山の、海山坊もそうである。
海山坊は安政二年(1855)、八ヶ岳主峰赤岳へ阿弥陀岳を経て登る、通称「赤岳南口」を開山し、各地に赤嶽講をおこしたという。また、智鏡院の後裔には、福正院、泉林坊・金正坊・萬光坊・延明坊・善栄坊などの名が補任状や家系図にみえる。
また京都の聖護院所蔵の天保三年『信濃国本山派修験住心院雫帳』に記載されている茅野市域関係の修験には次のような人たちがみえる。
埴原田村竜宝院・大沢新田延命院・北久保新田元明・上菅沢新田用福院・金沢宿正学院・下菅沢新田伯作・同玉法院・北大塩村宝泉院・笹原新田峰元院・須軍新田永法院・南大塩村光明院・福沢村善明院・槻木新田智教院・山田新田吉祥院・北久保新田国法院
このはか江戸後期から末期にかけての本山派修験については、二久保新田の光学および宝順、茅野村の勧行、須栗平新田の光清院、埴原田村の慶仙などが史料にみえる。
当山派
下古田の宮原に、立科山万法院(慶長3年)・立科山万宝院(文政8年)・大仙院(明治21年)など、あわせて七基の修験の墓がある。大仙院は、元治二年(1865)の下古田村宗門帳に、大仙院事立科山万福寺、と記されている当山派の修験院であった。
延命行者 権三郎
上古田村の延命行者は、寛政八年(1796)、今右衛門(小尾)の次男として生まれ、幼名を権次といい後、権三郎と称した。十五歳で家老千野兵庫に仕え、後、下古田の万福院の弟子となって修験を学んだ。その後苦行の末文化十三年(1816)に甲斐駒ケ岳の「裏山道」を開道した。翌十四年(1817)に智徳院の院号を補任され、翌十五年(文政元年 1818)には、延命行者の尊号を受けたが、翌文政二年(1819)に二五歳で没した。そして、文政十三年(1830)には同志によって駒ヶ岳講が結成され、請負は、甲州・信州・武州・相州などにわたって数千人にも及んだという。村人からは、威力不動明王とあがめられている。
他の修験道 信濃
神之原村の信濃(原田)は、名を弥吉といい、江戸に出て修業を重ね、大
名・旗本などの求めに応じて加持祈祷を行ったという。その後、八ヶ岳の赤
岳開山の志をたて、同郷の源吉と協力しあい、江戸浅草に赤岳講を起こし、
安政七年(1860)、講の人々を率いて来諏し開山したという。
そのほか当山派修験者として、笹原新田の草分け、半四郎の峯元院、植原
田村の永福院などがみられる。
三山派ほか
奥羽の羽黒山を中心とする、出羽三山を根拠地として生まれた三山派の修験者は、村々に三山講・羽黒講・湯殿講などを結成し、その先達となって、さかんに登山し修業した。
穴山新田に明和年間の全性坊、安永年間の大徳院、文化年間の智了院、嘉永年間の智楽房、また、坂室新田に文化年間の清浄院・円定坊・松本坊などの補任状がみえる。今日も村々の辻などに、「三山大権現」と彫られた巨大な碑をみることができるが、三山信仰の盛んであったことを物語っている。
また木曽の御岳信仰もさかんであった。武津村(諏訪市)に十年間滞在したとういう普賢行者(1801没)などにより、各地に御嶽講が結成されて、その中から生まれた先達の修験者により、講の人々は登山修業し、また村近くの山の頂に、神社を分甲して信仰した(西茅野の御岳山など)。
また、赤岳開山として先に述べた海山坊(冨田謙明)や原田信濃らより五〇年も早く、赤岳開山をしたという作明行者(東城)が、槻木新田にいた。作明は、享和年間(1801~03)か文化のはじめころ苦心の末八ヶ岳の赤岳を開山し、国常立命・金山寧日本武尊を祀ったといい、下槻木の赤岳神社里宮に神力不動明王として碑建てられている。このほかに、第二節で触れたが堀新田の大日堂には羽黒山末派徳法院配下の養福院の名が至る。また泉野中道の赤岳神社里宮の境内には「雷開山直明行者」の碑が建てられている。
こうした修験者に対して明治新政府は、帰農・復職を命じ、一時は全く廃れたかに見えたが再び台頭し、今日に続いているものもある。
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甲斐駒ヶ岳の信仰 講碑(白州町) 文久二年(1862)
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