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駒ケ嶽神社他 旧無格社 山田氏記載 (白州町誌)

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一部加筆
猶、由緒については歴史的に見て、史実を遠くかけ離れている。この山田家は甲斐駒開山小尾家と深い係わりを持つ。

駒ケ嶽神社 旧無格社(神社庁に登録がない)
銀座地 本社 横手字駒ケ嶽四三四九番地の二
     前宮 横手字宮沢三八〇四番地の二
 祭 神 大己貴命(おおむなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこのみこと)
社 地 頂上本社境内地  100坪
    駒ケ嶽山頂      80坪
    摩利支天山頂     20坪
    前宮境内地    1800坪
    前宮駐車場     200坪
祭 日      四月二十日 
由 緒
神の代に建御名方命この地に至りし時、雄大にして崇高な山の姿にうたれ、「この山はいと高く清々しき地なり、かれここにあが御親の神を然るべし」
と云うに始まる。
雄略天皇の御代二年六月に、改めて賀州字迦〔✕賀州は中国の地名、○出雲郡宇賀郷〕(出雲大社)より遷祀したと伝えられている。
 祭神は国家鎮護、五穀守護の神大己貴命(オオナムチノミコト)にして、造化の神天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高皇産霊神(タカミムスビ)、神皇産霊神(カムミムスビノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、素盞鳴命(スサノウノミコト)、保食之神(ウケモチノカミ)等の諸神を合祀している。
 古代は巨麻嶽神社にして、また医薬の神、牧場の神としても信仰され、駒形明神、巨麻之神社とも称され、また駒形神社、駒形権現とも云われていた。文政六年(1823)神祇管領卜部朝臣長卿より賜わりし額字に巨摩嶽神社とあり、慶応二年(1866)神祇伯白川資訓王より賜わりし額字に駒嶽神社とあり、現在に至っている。
 駒ケ嶽は甲信に誇る高山であり、懸崖数千丈の絶壁にして、上古より神仙の集まる霊山として知られていた。
白鳳二年(662)役の行者小角が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢とも伝えられている。
 往古新羅三郎義光はこの神に祈願して子を授かり、その子孫が武運に勝れ繁栄するよう、山頂の巨石に延久主義光端光の五字がかすかに残っていたと社伝に伝えられている、延久(106974)は年号、主は祈願主、義光は新羅三郎義光と思われる、以来武田家代々の信仰が篤かったといわれている。
 この山脈に附属する里郷を六川筋と云い、六川のうち釜無川、濁川(現神宮川)、尾白川、大武川の四川が駒ケ嶽に源を発し、その下流一帯には牧場があり馬の産地であった。当山の源流には神馬の精が宿っているといわれ、この水により育った馬の中から多くの名馬がうまれたと云われる。厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の御愛馬はこの渓流によった神馬と云われ、郡名も本山により巨摩郡と称すと云う。
また広大な山中には珠玉、薬草を座し沢山の人がその恩恵に浴している。当神社は医薬の神、牧場の神として信仰されているため、牧場からの貢馬は神前にて安全を祈願し、山中から採取された薬草と共に朝廷に献上され、大同年間(806810)畏くも天皇の病を癒し奉ったと伝えられている。現在も病の平癒願って神社に訪れる人々が多い。
 大同類聚方に、
「其衣野郷の神祇より薬種を献上す、古へより牧場の事あり珠玉を産す、現今も山嶺より雑種云々」
とあり当神社の事が記載されている。(記載なし)
【注記】大同類聚方
(だいどうるいじゅほう)は、大同3年(808年)53日に成立した日本最古の医学書。                                     
 
文化十三年(1816)六月、信濃国の延命行者(小尾権三郎、死後弘幡大人(うし)と称せられる)は入山禁止の駒ケ獄に榔に許されて入山し、幾多の苦難を克服し峻岨なこの山に始めて登山の途を開かれた。他に駒ケ嶽開山として尊敬せられ神徳顕著により崇敬者の登山する者が多い。
・以米駒ケ嶽教(神仏習合)として発展し広く県の内外に多くの講社が結成され、宗教活動が盛んに行なわれるようになり、神社の発展にも大きく貢献している。また境内及び御嶽には神々の石碑が奉納され、文政六年(1823)駒ケ嶽山に元三大帥を勧請のみぎり東叡山(天台宗)の宮様より慈恵大師尊影を御下賜になり、同年、神祇管領卜部朝臣良長卿(正、「神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣良連」)より巨摩嶽神社の軸物を賜わっている。また神祇管領家(正、神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)より駒ケ嶽神社の額字を賜り、刻して前宮の鳥居に掲げている。
天保年間(183043)に至り凶年が続き「近年寒暑不時五穀不登(みのらず)百姓凍餓老餓稺顛(ちてん)連加之丙申の秋谷邨区民沸起蔓延近郷云々」とあり、ために時の代官が暴徒鎮圧を当神社に祈願している。
【注記】上記は天保騒動の事
 安政年間(185560)度々大風雨があり、社殿が破糾し再興に努めた。また祭典を春一回に改め明治初年より四月二十日と定め神楽を奉奏している。
 安政六年(1860)京都聖護院宮(天台宗)伝燈位権大僧都(でんとうい、ごんのしょうそうづ)を下向せしめ駒ケ嶽神社に天下泰平にして皇位が長く続くよう祈祷している。
 
奉修護摩供之事
    右意趣者
  今上皇帝宝祚延長
  征夷将軍御武長久
  御当城中御武長久 
  風雨須時五穀豊饒
  郷内安全意願満足
 安政六年今月今日 敬自
   伝燈位権大僧都  護摩主
 
 慶応二年(1866)には神祇伯白川資訓王より駒嶽神社の軸物が贈られた。明治初年に至り、政府は神道による祭政一致の立場から国家神道を発足されるため「神仏判然令」により神仏の分離を図った。
明治六年(1873)に神道皇祖駒ケ嶽教会が設立され、
明治十六年(1883)には内務省より正式許可され、
 明治十六年(1941)、駒ケ嶽教会が内務省より皇祖駒ケ嶽教会として正式に認可されるに当り、白川資訓卿より有栖川熾仁親王殿下に願い上げ、和歌一葉が当神社に奉納され、白川資訓卿からも添書並に和歌が奉納されている。
明治二十一年(1888)四月には、前沢の旧街道に、信州各講社の寄附金により大鳥居が建立され、信州方面からの夏山登山の入口とした。
明治二十三年(1890)神楽殿を新築し祭典も四月二十日に改め現在に至っている。
 明治三十一年(1898)に神道本局直轄(三等)皇祖駒ケ嶽教会となり、その後神道大教駒ケ嶽大教会となった。
明治四十一年(1908)各地の信徒代表者により、山頂に雄大な本社の建築が計画されたが関係官庁の認可を得られず、
大正三年(1924)に至り止むを得ず計画を大幅に縮小して現在の本社が新築され、本社鳥居は石材の都合上八合目に建設された。その後前官の社殿の新築が計画され、全国信徒の尊い浄財により大正末期より昭和初期の永い歳月により漸く完成した。
昭和十五年(1940)、各地に伝染病が発生し、このために祭典を八月二十九日、三十日に執行し、神楽を奉奏してこれが平癒を祈願した。
 戦後混乱期を迎え信仰心の薄らぐなか、
昭和二十七年(1952)には「宗教法人駒ケ嶽神社」として再出発する如になった。
昭和三十年(1955)に至り初めて神社に電燈を引く事ができ、世情の安定するに従い信仰心も旧に戻りはじめた。以来信徒各位の協力により、
昭和四十八年(1973)には前宮の社殿の屋根が銅板に、
昭和五十八年(1983)には社務所が新築され現在に至っている。
 
社殿建造物
本社 本殿、鳥居
前宮 本殿、拝殿、渡殿、神過般、神楽殿、祈祷殿、社務所、鳥居、
避雷針塔、狛犬
宝物
 ○青銅像 大己貴命像、大黒天像、刀利天像、摩利支天像、馬頭観世音像、
富士浅間大神像、宇気母智神像、牛頭天王像
 ○石 像 大己貴命像、威力不動明王像、摩利支天像
 ○木 像 恵比寿像、大黒像、摩利支天像
 ○巨摩嶽神社額字(神祇管餅卜部朝臣良長筆)
 ○駒ケ嶽神社額字(神祇伯正三位白川資訓筆)
 ○慈恵大師尊影(東叡山の宮様より御下賜)
 ○護摩供の書(聖護院宮様伝燈位権大僧都を下向せしめ下附)
 ○御 歌 有栖川宮蛾仁親王染筆、八宮良純親王染筆、白川資訓筆
○絵 画 妙見大神像、天之御中主命像、毘沙門天像、乗馬神像(英一蝶筆)、武者絵(鳥居清長筆)、官女の図(大西椿年〔チンネン〕筆)
筒粥の神事 一月十四日
 簡粥の神事は挙行年月不評なるも、延享四年(1747)の「横手村夫銭入用
帳」に、そのころ既に行なわれている事が記載されている。
 一月十四日夜半より翌十先日の日の出にかけて行なわれる筒占いの神事にして、その年の天候の平穏と農作物の豊饒を祈願して、その豊凶を予知するため蘆の筒を使用して行なわれる。
  1.  祭りの前儀
 十四日の午後祭員数名にて、その年の恵方に水を求めて山深き谷 川の水を汲み、五穀(米、麦、きび、大豆、栗)や使用する鍋等の用具を洗い清める。筒は新しい蘆二十数本用意し、九本、十本、十三本の三連とする。
 夜半十二時水行等で身を清めた祭員を先頭に社殿にて米祭式が行なわれる。祝詞奏上の後直ちに祈祷殿に移り、神前のカマドに五穀を入れた鍋をかけ点火して卜筒を入れる。太鼓の音の先導による心経奉唱が始まり寒夜を徹して行が続けられる。十五朝日の出(六時半ごろ)とともに終了する。卜粥の入った鍋は拜殿に戻される。衆人注目のうちに筒が順次二つに割られ、中に入った粥の の多少によって天候、豊凶が決められ「豊凶表」に記入する。
  1. 直会(なほらい)
 徹夜の神事が終ると、参会者に五穀の粥が配られ直会が始まる。この粥を戴くと一年中お腹の病気をしないといわれている。
開山式  七月一日 夏山開きの祭典
閉山式  十月一日 夏山じまいの祭典
大 祓  十二月二十五日
 師走祓、年越祓とも云い式典の後人形を配り、これに汚れをうつして身を清める。人形は古いお札、お守とともに、一間四方に張りめぐらした注連縄の中で教文を唱えながら燃やし一年の汚れを払う。
無形文化財
昭和五十五年・甲斐駒ケ嶽神社代太神楽が白州町の無形文化財に指定された、当社の神楽は古く徳川時代より奉奏されていたが、主として信者の奉納神楽であった。和のはめ前官の社殿が新築されたのを機に、地元の青年が諏訪神楽の流れをくむ大和神楽を伝授し現在に伝えている。別に甲斐駒ケ嶽神社代太神楽保存会を設立しその発展と育成に努力している。
当社の分社
祭神の分霊、分掌は古くから行なわれているが、昔時駒形明神とも称した時代、遠州厩崎の駒形明神、長坂上条の駒明神等は共に当社よりの分社にして、
 他にも各地に駒形明神が祀られている。
 江戸時代末期に至り、駒ケ嶽教は広く県内外に布教れ、各地に駒ケ嶽講中が成立されるに従い、駒ケ嶽大権現、駒ケ嶽社なる祠・碑が長野県平野村、甲府市山宮、韮崎市穴山町、穂坂町、甲西町、春日居町等をはじめ各地に現存している。<この項、山田瑞穂>

駒ヶ岳開山?? 行基(668~749)日本の名僧100人

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駒ケ岳神社の由緒に
白鳳二年(662)役の行者小角が当山にて仙術を修め、富士山とともに当山の開闢とも伝えられている。とあるが、行基にはそうした事績は見られない。
こうした神社仏閣の由緒には史実に基づかないものが多い。
新羅三郎との結びつけも何ら史料を持たない説。



行基(668749)日本の名僧100
別冊歴読本 事典シリーズ 日本仏教総覧 鶴岡雅代氏著 一部加筆
 
 天智七年(668)~天平勝宝元年(749)。奈良時代の法相宗の僧。行基が
生きた時代は、飢饉や疫病が頻発し、大牢府では藤原広嗣の乱が勃発するといった不安な情勢にあり、そのため平城京・恭仁京・紫香楽京と遷都が繰り返された。こうした状況の中、大仏造営が発願され、行基はその造営にあたって勧進役に起用され、畿内各地で勧進を行うとともに、地溝開発・布施屋設置などの社会事業に尽力した。
 河内国大鳥郡(この地は後に和泉国に属した)に生まれ、父は高志才智、母は蜂田古爾此売(こにひめ)。高志氏は官済系渡来人の書(文)氏の分派である。天武十一年(682)十五歳の時に飛鳥寺の道昭を師として出家したとされ、瑜伽論・唯識論などを中心とする法相(ほっそう)の教義を学んだ。
 行基が出家したとき、道昭は五十四歳で、飛鳥寺の禅院で弟子を養成するとともに、造船・架橋等の社会事業にも努めていた。のち、行基が民間伝道と社会事業に尽力し、仏教者としては新しいタイプの活動を展開したのは、この師の影響を受けてのことであるとされる。
大宝元年(701)文武天皇の命により、刑部(おさかべ)親王や藤原不比等らによって制定された大宝律令は、翌二年(702)から施行され、天皇と貴族が民衆を支配するという社会体制が確立した。そのため民衆は課税の抑圧と貧窮に苦しみ、その苦しみからの解放を宗教的救済に求めていた。
 慶雲元年(704)生家を寺に改め(家原寺)、民間伝道に努めていた行基は、律令制による労役の負担や水苔に伴う農業生産の低下に苦しむ民衆に対して、道橋の修造や濯漑のための地溝開発を行った。
『行基年譜』には、天平十三年(741)までに山城、摂津、河内、和泉などで行った架橋、直通、池、溝、樋、船息(やど)、堀、布施屋などの農業・交通施設の位置と規模が記されている。布施屋は詞・庸の運搬や都での労役に従事した役民などを宿泊させ、食事を提供した施設で、その設置は、平城遷都の後の和銅五年(712)頃であるとされる。和銅元年(708)より始まった平城京の造営は、同三年に遷都した後も続けられ、運脚夫や役民の負担は一層苛酷になり、餓死するものがでるほどであったという。行基は山城、摂津、河内、和泉などの平城京に入る交通の要地に、九ケ所の布施屋を設けた(設置にあたっては、その地の豪族の協力を得ていたであろうとされる)。
 このような活動に対して人々は、行基菩薩と称賛したという。しかし、養老元年(717)政府は行基や弟子の活動を僧尼令違反として禁圧した。その際発布された詔には、行基を「小僧」とけなし、その行動は「詐りて聖道と称し百姓を妖惑」するものであると記している。同四年には課役を免れるため官許を得ないで僧尼となる者を取り締まるため、公験(出家者に国家が与える証明書)制度の再編成を行い、同六年太政官の上寿文には、僧尼の悪行について記し、禁圧の旨を強調している。以降、行基及びその弟子の活動は禁じられていたが、同七年(723)の三世一身法や天平十五年(743)の墾田永年私財法発布の過程で、律令制が修正され、この間の天平三年の詔では、行基の随従者のうち六十一歳以上の優姿塞(うばそく)と五十五歳以上の優姿夷(うばい)の出家入道が許された。
 行基は弾圧を受けてからのちも伝道活動を止めず、晩年に至るまで順次畿内を巡って道場を建立した。その数は四十九院にも及ぶといわれ、年別でいえば弾圧が緩和された天平三年の入道場が最も多 い。また、狭山池や鹿陽池などの修造においては、ともに狭山池院、昆陽施院が設けられた。
 このような伝道と結びついた社会事業の活動は、隋の三階教(末法思想を基 盤とする仏教の一宗派)の影響によるものといわれる。
 天平十五年(743)に東大寺大仏造営の詔が発せられ、行基は勧進役に起用
された。この詔の要旨は、造営の資財を民間知識の寄進に期待するものであり、民衆を大仏造営に結びつけようとしたものであった。
 行基がこの役に起用されたのは、それまで四十余年の間、地溝開発などの社会事業に努め、各地に知識という信奉者の集団を結んでは道場を建立してきた民衆を組織する力に政府が期待したからである。行基は弟子等を率いて衆庶を勧誘し、大仏造営という国家的大事業に参与し、その責務を果たしたのである。同十七年(745)に大僧正に任ぜられたが、同二十一年(749)大仏の完成前に菅原寺で入寂した。
 行基は地溝開発、布施屋設置などの社会事業に尽力し、晩年は大仏造営の勧進に従事したが、そうした活動を通じて、政府の禁圧にも屈せず積極的に民間伝道を続けたのであり、そこに行基の実践を中心とした仏教思想が認められるのである。 (鶴岡雅代)

駒ヶ岳開山時の村事情 五人組仕置帳 他県からの受け入れ

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抜粋
 五人組は、古代の五保の制にならって制度化した近世庶民の隣保組織で、はじめはキリシタン・浪人取締に活用されたが、のちには法令の遵守・貢租の完納・治安維持などのための、連帯責任による相互監察と相互扶助的機能を重視するようになった。


五人組帳は、五人組御仕置帳という。五人組の遵守すべき法令を前書に列挙し、村役人およびすべての五人組員が連署連判して、法令に違犯したい旨誓約した請書をつげた帳簿である。




   新地の寺社建立の儀、堅く停止たるべく候。惣べて月次の念仏・題目の石塔・供養塚・庚申塚・石地蔵の類、田畑山林又は道路の端、新規に一切立てまじく候。仏事・神事・祭礼等は軽くこれを執り行い、新規に祭礼を取り立つべからざる事
 寺杜の儀、住持・社人替り侯はば、注進すべき事
 神仏開帳致し候はば注進すべし。当村の神仏、他国へ当分相移り、開帳仕り候儀これ有らば、前方注進すべし。
又は他所より神輿を送り来り候様なる儀これ有らば、請け取るべからず。村の中に少しの間も指し置き申すまじき事
    当村にこれ有り候、出家・社人・山伏・行人・道心者又は非人等、其のほか穢多のたぐい、常々吟味致し候て、うろんなる者住居仕らせまじく侯。
名主・組頭へ相達し、他村より来り候者ニ仮の宿も仕らせざる様に、右の者共へ申し付くべき事
   当村の者の内、或は立ち退き、或は逐電し、或は身上潰し候て住居成り難きものこれ有らば注進すべし。
又は他より子細これ有り、立ち退き来り候もの、親類たりというとも当村に一切差し置くまじく候事
  他所の者当村に有り附き、住宅仕り度しと願い候者は、其の者の出所、家職の様子聞き届け、出所の村方名主へこれを届け、慥かなる請け人手形、これを取り、宗門の旨相改め、詮義を遂げ候て差し置くべし。店借り、地かり等の者置き候儀も右同前と相心得べき事




 他所へ参りて二夜泊り、罷り出で候程の儀は、名主に断り罷り出ずべし。若し他国へ出で候か、又は用事候て相越し候はば、其の子細を名主・長百姓・五人組へ書付を以て相断るべし。公事訴訟に公儀へ出候共、其の趣を名主・長百姓・五人組へ相届くべき事









 行方知れざる者に一夜の宿も貸すべからず。旅人其のほか何者によらず、堂・宮・山林・道路に死人これ有らば、其の者の持ち来たり候雑物等相改め、名主・組頭立ち会い、様子を委細書付けにて注進すべし。堂・宮・山林に隠れ忍び、胡乱なる者有らば詮義せしめ、品々により搦め捕り、これを訴うべし。其のほか手負又は不審たる者、他所より来たり候はば出所を尋ね、付け届け致し、注進の上差図を請け候て彼の者を出だすべき事


 御林御立山の竹木は勿論、枝、柴、下草等迄、公用のほか伐り採るまじく候。たとい下草銭出だし候て刈り取る所たりとも、苗木刈り取り候様なる儀致すべからず。御林のす()き候所へは苗木植え立て候様に仕るべく候。百姓の持林並びに屋敷の四壁のきわも、目立ち候木を伐り遣わし候わば、先ず書付を差し出しこれを伐るべし。堤にこれ有り候草・葭等、刈り取るまじき事


附たり、新規に堤に植えものいたすべからず。堤の際切り欠き、植えもの仕るまじく侯事


    入会の野山、面々の持山にても、草木の根掘り取るまじく、鶴嘴を入れ候儀、停止たるべし。田畑へ山崩れの砂入る事(以下散逸する)



   往来の輩、若し相煩い候はば、早速医者に見せ、随分養生致し能よくいたわり、食い物など念を入れあたえ、看病仕り置き、これを注進すべし。行歩叶わず、先へ参り候儀成り難く候わば、其の者の在所を承わり届け、迎えを呼び手形を取り相渡し遣わし申すべく候。


若し病死致し候はば、其の者の道具等を改め、名主・長百姓立会い、封印を致し置き、指図を受くべき事。





駒ヶ岳開山者権三郎 横手村へ入った年に村では大変な事が・・

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駒ヶ岳開山者権三郎が横手へ入った年に村では・・・・・
横手村訴訟と裁決状 文化11年(1814
 横手村・白須村・台ケ原村三ケ村入会境界をめぐって、横手村より白須・台ケ原二村を相手どって起した訴訟文と勘定奉行の裁許状である。文化十一年四月十三日に白須・台ケ原二村の者達が横手村分の草間林に入込んで、入会地を掠めたとして草を刈り、木を伐り倒した。横手村では現場の差押えとして白須村甚弥外五人を捕え、証拠として木鎌などを押収したところ、翌日に両村の者達数百人が押しかけて、ときの声をあげてあたりかまわず立木を伐り倒し、かつ出逢ったものに 打殺すなどと罵り、小村のため対応もできずに代官所へ訴えた。この騒動に対する裁許状は、横手村は鎌を取りあげたことに対してお叱り、白須・台ケ原両村のものは現場に参加しなかった者も制止すべきであったとして対象者とし、名主は十貫文・長百姓は五貫文、惣百姓は村高に応じて罰金を課せられた。



横手と白須・台ケ原村入会出入一件


『白州町誌』一部加筆


 


 文化十一酉(甲戌 1814)四月〔十年 癸酉〕


横手村ヨリ白須・台ケ原両村ヲ相手取出入一件諸事写覚


  大坊新田 道村源五右衛門


乍恐以書付奉願上候


巨摩郡横手村


訴訟人 名主 (横手)彦左衛門 


    町百姓  庄蔵 彦右衛門 彦兵衛 


    百姓代  孫四郎 要蔵 


    小前総代 仁左衛門


不法狼籍御吟味願


 巨摩郡白須村


 相手 名主   仁弥


     同   弥五左衛門


     同


長百姓  惣助


     同   紋右衛門


     同   杢兵衛


     同   三郎左衛門


百姓代  作右衛門


     同   勘兵衛


小前惣代 八左衛門


同郡台ケ原村


    名主   八右衛門


    長百姓  幸右衛門


     同   宇右衛門


 同   孫右衛門


     同   傳右衛門


    百姓代  文七


    小前惣代 文蔵


 右訴訟人彦左衛門外七人一同奉申上候、相手白須・台ケ原両村之者共、当四月十三日、当村分内字宮沢外荒地、草間林小物成林所々江数拾人入込、諸木伐苅荒候間、打驚駐付差押候得共、理不尽之挨拶故無據、白須村甚弥同人下男壱人・久兵衛・浪次郎・勘五郎・佐五右衛門差押、為証據右六人之持居候、木鎌等留置、即刻右場所方其段御訴申上候處、翌十四日ニ至リ而数百人押来リ、鯨波之聾ヲ上ケ、畑荒地雑木草間林居林社木、当村地内大坊新田ニ而所持仕候小物成場之無差別至乱入、大小合テ木数弐万本余伐荒、乱国同様之乱法ニ而、出逢候者打殺シ可申与罵リ、私共村方之儀者、秋ニ高三百九拾石余、人々ニ而相手両村者凡千八百石余、銘々棒・手木・竹鎚等持打散シ打倒シ、老衰罷有数足遅キ者ハ及打擲ニ、人々恐怖仕、住家江迯籠門戸ヲ閉、或ハ家財諸道具等を取片付、老幼・女共者近隣村々所縁之方江迯(ニゲ)去リ、迚茂(トテモ)難及自力ニ難ケ敷奉存候間、早速徒党乱法之御礼明被成下置度偏ニ奉願上候、尤当村西之方駒ヶ岳与申者、甲・信両国之境江引続山澤有之、出入及数度、既ニ正徳二辰年(1712)松平甲斐守様(柳沢吉保)御領分之節、当村与台ケ原村一致ニ而、白須村江掛候山論之節、尾白川を限リ、白須・横手両村為境之事御裁許有之、裏書絵図持傳、宝暦六子年(1756)横手・台ケ原・白須三ケ村方黒沢・山高・柳沢・三吹・若神子五ケ村江掛り及出入候砌茂別紙魚絵図ニ願シ候、桑之


木沢ヨリ奥ハ、元来台ケ原・当村・白須三ケ村之持山ニ有之候得共、相手五ケ村之内柳沢・三吹二ケ村ハ無年貢ニ而入会来リ候間、柳沢ヨリ米壱石五斗・三吹ヨリ同五斗宛年々差出シ、訴訟方三ケ村江割敢為入会候様御裁許御申渡、猶同十二午年(1762)、牧野大隅守様御勘定御奉行御勤役中、長坂上条・同下条・渋澤・日野四ケ村方富村江掛り、村上方不残入会釆候段難渋申掛ケ及出入候刻も、桑之木澤ヨリ奥山江斗可為入会之昔御裁許被仰付、然上ハ、桑ノ木澤ヨリ東北瀧道山都而当村持株・薪材木等引取場ニ而、惣名横手内山与唱、其内字シリタリ澤有馬背蛇澤入江見通シ、内ハ東西弐拾四町・南北三拾壱町与村明細帳ニも顕然認メ上候、村内山外分持場共分明ニ候、然ルを内山を下り畑地居住之地迠(マデ)迫被伐荒、近来未聞之乱法ニ付、近隣村々江相響徒党騒乱ニ紛無之、殊ニ小前之者共小村を見掠メ、且村役人共不背愚昧ヨリ右鉢之儀出来候儀与、挙而可奉越訴由相聞エ候ニ付、厳敷相制止置候。尤宮村之儀ハ、山附薄地寒暖不定之地ニ付、出生之草木ヲ以御年貢上納、老幼扶助之致シ手当ニ年来大切ニ立置候を、右様剛強及不法ニ、御威光ヲ茂不奉恐御国政を相乱悪事被致候而ハ、小村之私共御年貢上納ハ勿論、住居難相成歎ケ敷奉存候間、格別之以御憐懸ヲ、徒党狼籍御取鎮メ、右頭取之者沾逸々御吟味被成下置候ハゝ一村相助、大坊新田迠(マデ)無難ニ相続仕廣太之御慈悲与難有仕合奉存候、


以上


   文化十酉年(1813)四月


                        横手村


                                      名主  彦左衛門(以下略)


甲府御役所





江戸幕府 五人組御仕置帳(享保10年)

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江戸幕府 五人組御仕置帳(享保10年)
『武川村誌』掲載
解説
五人組は、古代の五保の制にならって制度化した近世庶民の隣保組織で、はじめはキリシタン・浪人取締に活用されたが、のちには法令の遵守・貢租の完納・治安維持などのための、連帯責任による相互監察と相互扶助的機能を重視するようになった。
五人組帳は、五人組御仕置帳という。五人組の遵守すべき法令を前書に列挙し、村役人およびすべての五人組員が連署連判して、法令に違犯したい旨誓約した請書をつげた帳簿である。
 条々
 前まえ公儀より度たび出だされ候御法度の趣き、いよいよ以て堅く相守り、御制法の儀に相そむかざる様に、村中小百姓下じも迄申し付くべき事
   五人組の儀、町場は家並、在郷はもより次第に五軒ずつ組合い、子供並びに下人・たな貸し・借地の者に至るまで、悪事仕らざる様に組中油断なく愈議せしむべし。若しいたずらものこれ有り、名主の申し付けをも用いず候はば、これを訴うべき事
   隔年、宗門改帳三月までのうちに差し出すべく候、若し御法度の宗門の者これ有らば、早速申し出すべく候、切支丹宗門の儀、御高札の旨相守り、宗門帳の通り人別入念に相改むべく、宗門帳済み候てのち召し抱え候下人の寺請状、別紙取り置くべき事
   五人組宗門帳に押し候ほかに印刻致し置くまじく候。若し子細候て印判替え候はば、名主・長百姓は役所迄相断るべし。其のほかの百姓は名主・長百姓へ断るべし。名を改め候はば早々五人組へ断り致し、宗門帳へも改め候名を記すべき事
 切支丹ころび候もの井びに類族これ有らば別帳にこれを記すべし。
切支丹奉行所へ差出し置き候ことに候の間、たとえ他村より縁組等にて当村へ右の族来り候はば、早速注進すべき事
   田畑并びに山林等、永代売買御停止に候、若し質物に書き入れ候はば、拾ケ年を限り質物手形に名主・長百姓に加判仕らすべく候、田畑質に入れ金銀借り置き、田畑をば金主に作らせ候て、御年貢地主より出し候儀仕るべからず候。惣て証文あやしき文言これ有らば、出入に成り候時、訴訟取り上げず、且つ又証人並びに名主の印形、取り置き申すべき事附り、名主・組頭へ加判願い候はば、其の様子を承り届け、早速に加判致し遣わすべきに候事衣類・道具又は門橋等のはづし金物類、出所知れざる売買物、いつさい買取るまじく候、右品々質にも取らず又は預け置くべからず、出所知れ候物にても、請け人これ無く候わば質にも取るまじく候事
  惣て家業を第一に相勤むべし、百姓に似合わざる遊芸を好み、或いは悪心をもって公事たくみ致し、非公事をすすめ、偽りを以て害をなすもの、又は不孝の輩にあらば隠し置かず申し出づべし。何事によらず神水を呑み、誓詞を書き申し合わせ、一味同心いたし、徒党がましき儀、仕るべからざる事
 盗賊・悪党人これ有らば、訴人仕るべし、褒美を取らすべし。其の上あだをたさざる様に申し付くべき事
 百姓衣類の儀、結構成るものを着るべからず。-名主は妻子共に絹紬・木綿・これを着るべし。平百姓は木綿のほかはこれを着るべからず。
綸子・紗・綾・縮緬のるゐ襟・帯等にも致すまじく候。然れども平百姓にても身躰(身代・暮らし向き)よろしきものは、手代方までことわりを立て、差図を請け、絹紬を着るべき事
附たり、男女ともに乗物に乗るべからず。惣て屋作等目立ち候普請著がまじき儀、仕るまじき事
    婿取り・嫌取りに祝儀、奮がましき儀これ無き様、分隈より軽く仕るべし。人大勢集り大酒呑むべからず、ところにより改屋の祝義、新宅のひろめ(披露)、初産の祝義などとて不相応の祝仕り脈義は停止たるべし。分眼に応じ、内所(内締)にて軽く祝い仕るべく候。祝言水祝(新婿批例の正月の神訪の帰りに、若者たちが新郎に水をかける風習)停止の事
附たり、葬礼の野酒、一切停止の事
 捨て子仕るべからず。若し他所の者捨て置き候はば村中にて養育致し、早速注進すべき事
 生類憐みの儀を心掛け、不実無き様に仕るべく候、不仁の義、一切仕るべからざる事
 猟師のほか鳥獣一切取るべからず。猟師たりというとも鶴・白鳥を取るの儀、御停止に候、若し村中にて鶴・白鳥を売買致し候ものあらばこれを訴うべき事
 牛馬を捨つるの儀、致すべからず候。よその捨牛馬並びに放れ牛馬、当村へ来り候はば、見出し次第名主・組頭へ各の村々立合い、詮義致し、持主知れ候はば其の村の名主並びに牛馬の主より手形を取り相返し、其の上早速注進すべき事
   馬の筋をのべ候儀、倒停止に候、午馬売買仕り候はば出所を聞き届け、請け人を取り、五人組へ相断り売買仕るべく候。出所慥かならざる牛馬は、買い取るべからざる事
   新地の寺社建立の儀、堅く停止たるべく候。惣べて月次の念仏・題目の石塔・供養塚・庚申塚・石地蔵の類、田畑山林又は道路の端、新規に一切立てまじく候。仏事・神事・祭礼等は軽くこれを執り行い、新規に祭礼を取り立つべからざる事
 寺杜の儀、住持・社人替り侯はば、注進すべき事
 神仏開帳致し候はば注進すべし。当村の神仏、他国へ当分相移り、開帳仕り候儀これ有らば、前方注進すべし。
又は他所より神輿を送り来り候様なる儀これ有らば、請け取るべからず。村の中に少しの間も指し置き申すまじき事
    当村にこれ有り候、出家・社人・山伏・行人・道心者又は非人等、其のほか穢多のたぐい、常々吟味致し候て、うろんなる者住居仕らせまじく侯。
名主・組頭へ相達し、他村より来り候者ニ仮の宿も仕らせざる様に、右の者共へ申し付くべき事
   当村の者の内、或は立ち退き、或は逐電し、或は身上潰し候て住居成り難きものこれ有らば注進すべし。
又は他より子細これ有り、立ち退き来り候もの、親類たりというとも当村に一切差し置くまじく候事
  他所の者当村に有り附き、住宅仕り度しと願い候者は、其の者の出所、家職の様子聞き届け、出所の村方名主へこれを届け、慥かなる請け人手形、これを取り、宗門の旨相改め、詮義を遂げ候て差し置くべし。店借り、地かり等の者置き候儀も右同前と相心得べき事
 百姓、田畑、孫子に分け取らせ候とも、一人前の高、五石より内に分くべからず。小高の百姓は孫子分け取らせまじく候。若し子細これ有り、わけ候程の義これ有らば、差図を得べし。惣べて新規に百姓有り附き候儀これ有らば注進すべく候。
跡式の義は存生の内に親類並びに名主、組頭を立ち合わせ書き付け置き、後日に出入りこれ無き様に心掛くべき事
   当村の内にて能・あやつり(操芝居の意)・角力、又は狂言其のほか見せ物の類、芝居仕らせまじく候。私領にても分け郷或は村隣りにて、当村の境目とまぎらわしき地にて致し候はば、芝居始まらざる以前に早速注進すべき事
 惣べて遊女・野郎(男娼)の類、一切当村に置くべからず。一夜の宿をも致すまじき事
 行方知れざる者に一夜の宿も貸すべからず。旅人其のほか何者によらず、堂・宮・山林・道路に死人これ有らば、其の者の持ち来たり候雑物等相改め、名主・組頭立ち会い、様子を委細書付けにて注進すべし。堂・宮・山林に隠れ忍び、胡乱なる者有らば詮義せしめ、品々により搦め捕り、これを訴うべし。其のほか手負又は不審たる者、他所より来たり候はば出所を尋ね、付け届け致し、注進の上差図を請け候て彼の者を出だすべき事
   往来の輩、若し相煩い候はば、早速医者に見せ、随分養生致し能よくいたわり、食い物など念を入れあたえ、看病仕り置き、これを注進すべし。行歩叶わず、先へ参り候儀成り難く候わば、其の者の在所を承わり届け、迎えを呼び手形を取り相渡し遣わし申すべく候。
若し病死致し候はば、其の者の道具等を改め、名主・長百姓立会い、封印を致し置き、指図を受くべき事。
    殺害人或は自害侯もの、或は倒れものこれ有らば番人を付け置き、早速これを訴うべし。
火事・盗賊・喧嘩・手負いの者、惣べて不慮成る儀しゆつたい候はば、右同前に油断なく鑓・長刀等持ち出し、荷担喧しむるものこれ有らば、其の咎本人より重かるべき事
    御伝馬宿へ定助・大助郷より人馬寄せ侯はば、問屋・年寄、又は名主吟味致し、猥りに人馬触れ仕るまじく候。
其の宿の馬をかこい置き、面々勝手の荷物を附け候よう成る儀、一切仕るべからざる事
 御朱印は勿論、駄賃、伝馬人足の儀、常々吟味致し、滞おり無き様に仕るべき事
附たり、助郷へ人馬協れ来り候はば、刻限違えずこれを出だすべし。若し人馬割り心得難き事の候とも、先ず滞おり無く出だし、後日申し遣わすべき事
   御用の人馬の義、本海道にてこれ無く候。往来の老駄賃人馬の義は、昼夜を限らず滞り無くこれを出だすべき事
    御朱印、又は御証文もこれ無く、人馬出だし候様と申し、或は駄賃を出ださず通り候ものこれ有らば、其の品より押え置き、名主・組頭立ち会い、愈儀の上、怪しき躰にて候はば注進すべき事
    村中申し合わせ、番屋を作り番人を附け置き、火の用心随分念を入れ申し附くべし。若し出火これ有らば、声を立て村中立ち会い、精出すべし。勿論御年貢入れ置き候蔵は大切に囲い申すべき事
附たり、風烈の時分は昼夜に限らず、切々相廻り用心仕るべく候。近在に出火候はば、早々にかけつけ、これを防ぎ申すべき事
  堤・川除、切れざる様に常表申し合わせ、洪水の時は村中の者出会い、随分囲うべきの道、橋等の損じ候て往還の障に成り候か、田畑損毛に成るべき所は、惣べて小破の時早速に修覆し、自普請成り難き所は御入用にと申し付くべく候。触これなく候とも、普請場の道・橋は、常々油断なく作り申すべき事
    洪水の時、堤・川除囲い候節、又は盗人・狼籍者並びに火事これ有り、声を立て候節、村中の者の内、拾五以上六拾以下の男は残らず出ずべし。若し場所へ出会わざる者あらば、名主・長百姓詮義を遂くべき事
 鉄炮の儀、運上出だし候猟師、又は猪・鹿防ぎのため願侯て鉄炮渡し置き候のほか、村中にて隠し置くべからず。尤も御定めの月のほか、鉄炮打つべからず。証文の通り獲りにこれ無きよう心得べき事
 御林御立山の竹木は勿論、枝、柴、下草等迄、公用のほか伐り採るまじく候。たとい下草銭出だし候て刈り取る所たりとも、苗木刈り取り候様なる儀致すべからず。御林のす()き候所へは苗木植え立て候様に仕るべく候。百姓の持林並びに屋敷の四壁のきわも、目立ち候木を伐り遣わし候わば、先ず書付を差し出しこれを伐るべし。堤にこれ有り候草・葭等、刈り取るまじき事
附たり、新規に堤に植えものいたすべからず。堤の際切り欠き、植えもの仕るまじく侯事
    入会の野山、面々の持山にても、草木の根掘り取るまじく、鶴嘴を入れ候儀、停止たるべし。田畑へ山崩れの砂入る事(以下散逸する)
附たり、山本にて焼畑いたし来たり候所は格別、野火附け候義は停止の事
     諸作第一によき種をえらみ候て蒔き、耕作に念を入るべし。荒作の様にいたし候者あらば急度詮義せしむべし。
独身にて煩い候ものこれ有らば、名主・長百姓立ち会い村中にて助け合い、田畑荒らさざる様に仕るべき事
附たり、地所に不相応の田畑、諸作他にてかわり作劣り、耕作不精成る者これ有らば吟味仕るべく候。左様の者は小検見の節も引け方申し付けざる事
 常々耕作並びに商売等も致さず、家職の稼ぎこれなき者これ有らば、吟味を遂げ其の趣きを訴うべきの事
 博突、惣べて賭けの諸勝負、或は百姓講と名付け、商いに事寄せ、博突に似たる義、何にても仕るべからず。若し違これ有るか、又は右の宿等を致す者有らば、早速これを訴うべき事
 百姓に不似合の風俗を致し、長脇差を帯し、喧曄口論を好み、大酒を呑み、酔狂致し、行跡悪しき者これ有らば、訴うべき事
 他所へ参りて二夜泊り、罷り出で候程の儀は、名主に断り罷り出ずべし。若し他国へ出で候か、又は用事候て相越し候はば、其の子細を名主・長百姓・五人組へ書付を以て相断るべし。公事訴訟に公儀へ出候共、其の趣を名主・長百姓・五人組へ相届くべき事
附たり、百姓の願い立ては名主・長百姓、奥判致すべき事
  御年貢皆済これ無き以前に穀物他所へ出だすべからず。金納のため米売り候わば、先に米納の員数を積り、納米は極上米を抜置き、次の余り米を売り申すべき事
附たり、御用の置米、裏用の事に候共、名主壱人にて封印を切り、取り出し申すまじく候、相役名主、長百姓一両人にても立ち会い申すべき事、
    御城米並びに荏・大豆とも名主・長百姓の内も立ち会い、青米・死米・砕米・籾糠等これ無き様に随分吟味致し、升目切れざる様に俵持えの儀、前々の通り寄せ入れ、
     二重に締め、小口縄にてかがり、縄にて相結い立て、名主・長百姓・米主、且つ又手代、判の中札入れ申すべく候。外札は木にても竹にても国・郡・村、米の名ばかりこれを記すべく候。尤も船廻りに仕り候節は一貫目等念を入れ、船頭・上乗手形申し付け、相廻すべき事
    御城米積出し候節、名主・長百姓立ち会い俵拵え相改め、船積み致すべし。船中に於いて米さくり取り申さざる様に上乗り・船頭共へ堅く申し付くべく侯。船掛り場所にて油断致すべからず。且つ又御米を船頭に相渡し、納め名主陸を参り候様成る事、堅く仕るべからず候。
御蔵に於いて悪米・なげ米等にまぎらわし候様成る事仕るまじく候。右上わ乗りの儀、村にて吟味を遂げ、健かなる者これを遣わすべし。御蔵前の入用並びに船中雑用等、多く入らざる様に申し付け、委細帖面に記させ、入用これを渡すべき事
 御城米納めに罷り越し候者共逗留の内、悪所惣べて遊山がましき(所欠ヵ)一切罷り越すべからざる事
附たり、納めに罷り出で候節、手代等へ土間物(土産物の誤か)又は手入がましき事、堅く仕るべからざる事
 御年貢金銀、名主方へこれを取り集め、拙帳に納め候度序金銀納(人字脱カ)めの名書き付け、印判これを致さすべし。名主方へ金銀請取手彩通帳に致しこれを渡し、加え帳押し切り致し遣わし置き、後日に出入これ無き様仕るべき事
 御年貢皆済の納払い勘定致し、名主方へ御手代の判彩帳取り置くべき事
 御年貢米納めの節、名主方より米主方へ銘々手形これを遣わし、庭帳入念に書き付け、判彩致すべし。不念にて印形これ無く、後日訴え出で候共、取り上げまじき事
    惣べて公儀より下され候人足扶持・賃銭等、当座に銘々割り渡し、帳面に請取り候の趣き書き付けさせ、印彩取り置くべし。惣べて頃合いの差引勘定致すべからざる事
     毎年御年貢免状出で候はば村中の者に披見仕らせ、名主・長百姓方より村中大小の百姓、出作の者にも残らず相触れ、寄り合い候て免割り致し、小物成・浮役・臨時物・米・銀、壱人ずつ委細を書き付け、小百姓へも疑わしく致さざる様に其の訳を申し聞かせ、右免状写し候て惣百姓立会い、拝見仕り侯旨を書付け、銘々印形取り置くべく、郷蔵の戸へも免状写張り置かせ、御年貢割合仕り候節、村中夫銭小入用と御年貢入れ交ぜ、一同に仕るべく候。差別を立て割り合うべく、算違いこれ無き様に随分念を入れ、御年貢の儀申し渡し、目録の通り相納め候節、常々村中申し合わすべき事
 免状拝見の一札、村中の通し印形、翌年正月十日迄に指し出すべき事
 公用の儀又は村中申合わせの儀に付き、名主方へ百姓の寄合、村入懸りの食物・酒・肴等、一切組み申すまじき事
 堤・川除・堰場并びに道の御普請、用水掘抜き致し候節、人足等の村入用(以下欠く)
 名主・長百姓を始め、惣べて前々申付の通り手代井びに妻子・召使等に至る迄、金銀米銭・衣類・諸道具・酒肴、其の他軽物成りとも、音信、礼物、一切仕るまじく候。
右の者ども若し質物・借物、或は押売、押買、何事に依らず無沙汰の義致し候はば、隠す無く有りの躰にて其の趣き申し出ずべし。隠し置き、後日に相聞こえ候わば、名主・長百姓の越度たるべき事
    白分の家来並びに手代の召使当村へ参り、口上にて申す儀は申すに及ばず、自分井びに手代の印判もこれ無き書付持参にて何事を申付げ候とも一切承引すべからず。早速注進すべき事
 以下略

甲斐駒ヶ岳開山史料 横手 当山派修験宗格院 本良院

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甲斐駒ヶ岳開山史料 横手 当山派修験宗格院 本良院
 
巨摩郡横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
 最近、南アルプスエコパーク登録以降、甲斐駒ヶ岳開山200年を謳った新聞記事や北杜市内では講演会や記念誌や関連書や企画が多くなってきた。
 しかしそうした記事の中心は開山者権三郎とそれを支えた某家、神社の略歴が中心であり、権三郎の出生地の茅野市上古田村の遺跡も見直されている。
 資料展もあったが、権三郎の活躍と某家の遺物が中心で、当時の宗教界や地域の守りごとなどが等閑にされている感がある。北杜市内には多くの駒ヶ岳信仰の遺跡や石造物も多く残されている。(調査中)
 また、長野県の有名な小説家新田次郎氏の「甲斐駒ヶ岳開山」や考古学者藤森栄一氏の「甲斐駒ヶ岳開山甲斐駒ヶ岳の二人」は内容が大分違う。藤森氏の方がはるかに真実に近いと思われる。
 しかし横手駒ケ岳神社(『白州町誌』)の由緒書は他の社寺に見られるように創作が多く挿入している。
 江戸時代は特に農村の生業である場の山は地域の村々は厳しい掟や境など約束事があり、権三郎が入山したとされる文化年間には、近隣の白須村や台ケ原村・大坊新田村との訴訟ごともあり(白州町誌)、他国の人が簡単に山に入り、道を開くことなど難事であり、さまざまな他村との交渉や確認が求められ、役所の届け出や許可が必要であり、横手一村でしかも個人で他国人を住まわせ駒ケ岳を開山することなどは有り得ない社会情勢であった。
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕
 
 巨摩郡(現白州町)横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
 一、御祈願道場    但シ弐間半ニ弐間
   本尊       不動明王
   祭礼日十一月廿八日、護摩修行天下泰平国家安全今上
   皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩 但シ護摩堂三間四方 石鳥居 高一丈
   祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地 
長十四間 横六間 此坪八十四坪
祭り十月廿四日
一、山ノ神社地    
長拾四間 横六間 此坪七十四坪
祭礼 十月十七日
一、神明宮社地    
   但長拾四間 横六間 此坪七十坪
祭り日 三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間 横四間 二十八坪
   祭り日九月九日
一、風神社地 長七間 横五間 此坪 三十五坪
   祭 七月十日
一、水神社地 小社
   祭礼 七月二十五日
一、上今井山神 小社
  右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候 十一月二度目の亥の日
一、湯大権現     小社
  同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院 宅 但八間半 五間
二 土 蔵 弐間半  三間

右駒嶽之儀者高山に御座候得ハ峰三ケ処ニ而御本地観世音菩薩也、中之岳ニハ大権現、奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候 
 以上

尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
 慶応四辰年八月 日
          巨摩郡横手村 駒獄別当
          別納 本良院 ㊞
   寺社御役所

駒ヶ岳(甲斐)開山 新田次郎氏著『からかご大名』「駒ヶ岳開山」

甲斐駒ヶ岳開山 当時の修験 台ケ原知見寺 その勢力は

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台ヶ原修験 智拳寺奉書上明細帳
〔一部加筆〕
  慶応四年七月 日
巨摩郡台ケ原宿
 当山派修験一示
   袈裟頭 触頭 智拳寺
御除地
一、居屋鋪 千寿院領 四拾八坪余
  右境内家ハ南向ニシテ口七間半奥行四間也
  内隠宅壱ケ所間口四間奥行弐間半也
弘法大師御作ニ而
一、本 尊  不動明王
  石堂茅葺ニシテ九尺奥行弐間半也
  西方畳敷端本尊前往古より百寿香卜相称候花木壱本あり
一、役之行者  理源大師 木像ニ而御座候
一、弘法大師     一鉢御座候
一、東照宮大権現    御官勧請罷有候
 右本尊祭礼之儀老三月七日天上泰平五穀成就 
今上皇帝御宝詐延長御附属之面々武運長盛之御祈祷として
  大般若経転読勤行仕申候
一、当時特高弐石六斗五升四合 千寿院智拳寺持
  外二小物成山 壱ケ所
御除地
一、田六畝廿七歩   同寺領
 右寛文十二壬子七月朔日国中御検地御改之節も御除地ニ而所持罷在候処貞享
五戊辰年六月十四日尚亦国中御検地前寺社除地之分御改之節如何之事哉御高
入ニ相成候 当地所十七八ケ年以前極貧ニ売渡置申候 尤御水帳ニ如比認入有之申候
兼帯所
一、愛宕大権現 社地四百坪余
 右石河也堂壱ケ所弐間半四面也
 右ハ往古才拙寺支配兼帯罷有慎ニ相違無御座候
祭日之儀ハ毎年七月廿四日 
於神前ニ柴燈護摩修行仕天下泰平国家安全今上皇帝御宝詐悠久之御祈祷仕候仕来ニ御座候 右本地ハ勝軍地蔵尊武川筋弐拾弐番二而十三年目ニ開帳御座候仕来候
寄附地
一、米山金毘羅大権現 社地百坪
 右ハ当村百姓平石衛門九死一生之処 立願成就依之右百坪之処江天明三卯年(1783)三月廿八日勧請仕拙寺支配兼帯罷在候 同人才寄附証文所持仕居申候右社中続
山林持当村長百姓八之丞見分之処是迄之通百坪ニ相違無之ニ付前々仕来之通
支配可致旨ニ而慶応三卯年(1867)三月九日改添書証文同人才請取永年支配
兼帯仕儀相違無御座候
祭日之儀ハ三月八日八月十日両日法用相勤申候
当寺什物
一、大般若経   六百巻
一、十六善神   掛物壱幅
一、土作家画   三幅対
  右ハ福尾茂右衛門直筆ニ御座候
一、八之宮様   御直筆
一、当村役人井惣村中連印書付 壱通 但シ諸祈願頼之一札也
一、当山派修験宗之触頭役御印章 数適所持仕居候袈裟頭被仰付候御消息之写左之通其方儀是迄数代触頭職ニ被処依勤功 今般当山一派之袈裟頭ニ転職被仰付候条自今弥励当山之修学修験道之事自先規如有来諸事不可有混乱之旨可令触知者法頭御門主御気色之処依執達如件
  安政四年巳(1857)十一月十五日
北村伊賀守保邦 ㊞
山田式部刺為舜 ㊞
大渓宮内卿豪円 ㊞
巨摩郡台ケ原宿 智拳寺 祐源
山寺号御消息左之通
  勝軍山智拳寺
 右三宝院菅官被仰出之処仇執達如件
 元文二年(1737)七月九日
          密厳院 奉
           浜深 書判
  巨摩郡台ケ原宿 志音院 祐規
前書之通謹而可存其旨者也
 
           北村 伊賀守  ㊞
           甲 村 参 河 ㊞
           小 野 右 京 ㊞
出世官昇進御消息写左之通
     巨摩郡台ケ原宿 智拳寺 祐源
 補任 応令出世昇進事
  右奉当山法頭御門主御気色件人宜叙法印着摩紫金令称大先達依御消息行之者
  安政二年(1855)八月二日
                     奉
             僧正法印演隆 書判
             宮内卿法印家門 ㊞
             式部刑法印為舜 ㊞
             伊賀守源保邦  ㊞
 
 右者代々官位之軽重御消息数通并前書奉中上候通卿相違無御座候且亦拙寺儀者当山派修験宗之触頭役袈裟頭迄
被仰付置候ニ付一宗ニ抱り候儀ニ而御尋向或者被仰渡候御儀御座候節者不寄何事ニ御書付之儀是迄村瀬ヲ以被仰付候御儀ニ御座候間何卒自今以後是迄之通御聞済御慈斗被成下置度奉殿上候尤別段御用向ハ飛脚ヲ以被仰付候御儀ニ御座候右者今般王政御一新ニ付由緒兼帯所可書出旨被仰出候ニ付相改候処柳相違無御座候依之乍恐奉書上
候以上
 智拳寺触下之分
     巨摩郡 片嵐村   清寿院   (白州町)
     同郡  下笹尾村  成就院   (小淵沢町)
         同村    常学院   (小淵沢町)
     同郡  大八田村  西方院   (高根町)
     同村    成泉院   (高根町)
同郡  長坂村   清教院   (長坂町)
     同郡  谷戸村   城元院   (大泉町)
同郡  五丁田村  貴宝院   (高根町)
同郡  同村    常蔵院 無住(高根町)
     同郡  箕輪村   天王院   (高根町)
同村    横森院 無住(高根町)
     同郡  津金村   吉祥院   (須玉町)
同郡  小尾村   大昌院   (須玉町)
         同村    昌宝院   (須玉町)
同郡  比志村   善明院   (須玉町)
同郡  同村    永寿院   (須玉町)
同郡  江草村   不動院   (須玉町)
         同村    一行院   (須玉町)
         同村    宝性院   (須玉町)
同郡  上手村   専昌院   (明野町)
同郡  小笠原村  宝泉院   (明野町)
同郡  上手村   正学院 無住(明野町)
同郡  穴山村   金剛院   (韮崎市)
同郡  駒井村   行宝院   (韮崎市)
同郡  鳥原村   天竜院   (白州町)
同郡  白須村   自学院   (白州町)
同郡  柳沢村   大学院   (武川町)
同郡  黒沢村   教慶院   (武川町)
同郡  新奥村   智宝院   (武川町)
同郡  青木村   福正院   (韮崎市)
     同郡  浅尾新田  薬生寺   (明野町)
〆三拾壱ケ院
右者往古人より拙寺支配下ニ相違無御座候間此段奉申上置候
   同寺末寺之分
     甲府横沢町     福正院
     巨摩郡甘利村    持宝院
     同郡 白井沢村   清宝院
     同郡 五丁田村   貴宝院
        同村     常蔵院
     同郡 大八田村   西方院
        同村     成泉院
     同郡 江草村    一行院
     同郡 同村     法性院
     同郡 白須村    自学院
     同郡 箕輪村    天王院
     同郡 津金村    吉祥院
     同郡 谷戸村    域元院
〆拾三ケ院
 右者往古拙寺末寺ニ相違無御座候間此段奉申上置候
 
 慶応四年七月
    三宝院宮御末寺
    巨摩郡台ケ原宿
    当山派修験一宗
    袈裟頭 触頭 知見寺 ㊞
 寺社御役所

茅ケ岳開山と伝説 〇金ケ嶽の薪左衛門

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山梨県伝説講座 〇金ケ嶽の薪左衛門
『裏見寒話』「追加」(野田成方編)より、一部加筆
 
逸見筋金ケ嶽の深山に新左衛門と云異人あり。何時の頃よりか此山中に住み、山嶽を回り、全休鬼形に化して風雨雷鳴を起す。農家渠か怒りを恐れて此名を付しと云。一読に、一年信州諏訪の温泉に、甲斐より來りて入浴するものあり。余の入浴の人と睦まじく語る一人有、其姓名を問へば金ヶ嶽の新左衛門と答ふ。山犬の類にして人に交る事なし。客戯れにも鬼蓄に名を名乗る事なかれ。また答へて云。我敷百年金ヶ嶽の嶺に住む。
天然と飛行自在にして、風雨・雷電を起し、平日天狗と交りて魔術に通徹する故に、怒ろ時は鬼形に変して、見る人死に至らしめ、和する時は人躰に化して交り結ぶ。所謂、荏草の孫右衛門の如きは、術未だ至らずして自然の
蟻化をなす能はず。猛獣・蛇蝎(さそり)をはじめ我は恐るゝ者なしと。其詞未だ終らざるに、忽撚として焔の丸飛來りて浴室の軒に止る。新左衛門笑うていふ、是白猿といふもの也。良もすれば我共魔威を争ふ。白猿は猿五百年を経て獅々となり、千年を経て自猿と成る。叉、天狗と等しく猛悪無双にして、我慢心に誇らんとて如斯の怪異をなす。併恐るゝに足らずと。笑ふこと常人に異ならすと。

開山&伝説 怪談○荏草(江草・えぐさ)孫右衛門

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怪談○荏草(江草・えぐさ)孫右衛門
『裏見寒話』「追加」(野田成方編)より、一部加筆
甲斐の北逸見筋荏草(江草)村(現在の北杜市須玉町)の山中に異人あり。延宝(167380)の頃迄は村人、山に入れば何処ともなく來りて、樵夫(きこり)に交り斧を持て助力をなす。名は孫右衛門と云よし。折々人に語ていふ、
「我は上州(群馬県)の産、壮年にして父母を失ひ、それより大酒・放蕩、親族の諌めを用ひす。竟に見放され、生国を去て當國に來る。
その時は武田信玄の世盛りと覚えたり。我、元來剛力.勇猛、深山に入りて猟をなし、鹿・猿・狐・兎の類を食とし、村へ出ぎる事数ケ年、自然と山谷を棲家として光陰を送る。
三十年以前までは府下へも出で遊びしが、近來は人の交りうるさく、常に甲(甲斐)豆(伊豆)遠(遠江)山を回りて楽しみとすと云。樵夫らが飯を与えれば歓びて食す。其後は折々人に見ゆる迄にて、人家に近よる事なし。
然るに、正徳(171115)の頃、荏草の村人山に入りて草を刈るに、異形の者巖上に立つを見る。髪は眞白にして、その髭胸に届き、眼光燗々たり。これを見る人、魂を失ひ已に迯(にげ)んとするに、忽ち狂風が起り、黒雲山頭に満ち、雷鳴草を貫く。是孫右衛門の熟睡の場を知らずして、草を刈て驚かせし故なりと。今に時としては姿を顯す、村人恐れて孫右衡門天狗といふ。

•富士山信仰 長谷川角行

甲斐駒ヶ岳開山関連記事 唄う坂(白州町横手尾白川南)不法道作り訴訟

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『白州町誌』
 
 解 説
 横手村の人達が「唄ふ坂」に勝手に新道を拓いたことに対して、白須村・台ケ原村から代官所に訴え、両村に現場検証をするよう任命されることを願い出た史料である。この訴訟は文化十年、甲斐駒ヶ岳の開山は文化十三年である。当時村々の山の管理は厳しく、勝手に山を切り開いて登る事は出来なかった。また他国からの出入りは、通行手形や様々な手続きと了解事項が求められる時代であった。権三郎も大武川集落から山口番所を通過、上教来石・下教来石・鳥原・白須と通過してこの「唄う坂」を越えて横手に入る。当時名主は横手彦左衛門、長百姓に孫四郎の名が見える。この孫四郎の家系の人々が甲斐駒開山から以後の事に深くかかわっている。
 甲斐駒ヶ岳の開山は小尾権三郎より他家によって為され維持されたことが覗われ、多くの部分で創作が覗われる。
 
 乍恐書付を以奉願上候
 
  1. 私共一同奉中上候趣より時十三日夜四ツ時頃より横手村之者共、本村与申中處江通用道出合より唄ふ坂与申場所、私共通行之山道出合沾夜中新道作り候處、私共村方披人市左衛門と申者柳沢村より右場所通り懸り見届ケ候ニ付、名主許江告来り候間今朝村役人両三人見届ケ参り見届ケ候
    所新道作り候儀相違無御座候、依之早速御訴江奉申上候、尤右躰之利不尽取働仕候者共ニ御座候、勿論先達而才横手村江論所之番役被仰付候を申立ニ仕、番小屋所々二掛ケ置候而、其上論所場所江縄間竿等持参ニ而分間躰威儀等仕候義も私共村方小前百姓入会場江杯刈取ニ罷越見届ケ候儀も有之候左候得より横手村之者共一存之儀ニ而何ケ様之儀仕候哉も難斗奉存候間何卒私共両村より折々見届ヶ仕度奉存候間、願之通論所之場所見届ケ等被仰付被下置侯ハゝ両村一同難有仕合ニ奉存候、以上
                       白須村
  文化十酉(1813)六月十四日
    白須村  名主 長百姓 連盟
    台ケ原村 名主 長百姓 連盟
   野田松三郎様
      御役所

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甲斐駒ヶ岳開山 山岳信仰・修験の発生 甲斐駒ヶ岳

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山岳信仰の発生 甲斐駒ヶ岳
 
甲斐駒ヶ岳(嶽)『白州町誌』第四節 山岳信仰 山寺仁太郎氏著
 
甲斐駒ケ嶽の山岳信仰を考察するにあたり、再び深田久弥「日本百名山」を引く。彼は、日本アルプスのうち、もっとも綺麗な頂上を持つ山として黒雲母花崗岩でおおわれた駒ケ嶽山頂を次のように描写した。
「頂上に花崗岩の玉垣をめぐらした祠のほかに、幾つも石碑の立っているのをみても、古くから信仰のあつかった山であることが察せられる。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で、昔は白衣の信者が登山道に続いていたのだという。その表参道ともいうべきコースは、甲州側の台ケ原あるいは柳沢から登るもので両登山口にはそれぞれ駒ケ嶽神社がある。この二つの道は、山へ取りかかって間もなく一致するが、それから上、頂上までの道の途中に鳥居や仏像や石碑が点綴されている。」 
 
と記して、現在の駒ケ嶽山頂の信仰的景観を叙述している。
 
 この山頂、登山道の景観は、概ね明治以降現代に到る百年間の山岳信仰の片鱗を伝えているもので、富士山、木曽御嶽、木曽駒ケ嶽に近似するもので、やゝ希薄の形態では、鳳凰山や、金峰山などにも見られるものである。それ以前は如何なるものであったか。
 
 韮崎市藤井町坂井遺跡は、縄文中後期を主とする著名な遺跡であるが、その住居址に彷垂状の石が立ったまま出土した例がある。この遺跡から展望できる鳳凰山の地蔵仏岩を意識して、その尖塔に模した信仰的遣物であるといわれたことがあった。昭和五十五年、北巨摩郡大泉村谷戸で発掘された金生遺跡は縄文後晩期の一大祭祀遺構とされるものであるが、その石組の中に棒状の立石が幾つかあった。この立石は恐らく、周辺の高山、八ヶ岳、金峰山、鳳風山、特に、真近に屹立する駒ケ嶽の山容に対する信仰的な関連が十分にうかがわれるものであると言われる。これらの遺構は、考古学的な年代からすると、二、〇〇〇年~四、〇〇〇年以前のものと思われ、その頃から山岳に対する強烈な自然信仰が存在したことが想像されるのである。
 恐らく、縄文時代の当時において、あるいは、当時であったからこそ、真西の方角に当って、厳然として聳える駒ケ嶽は、極めて深遠な精神的、信仰的な影響を、先史時代の人間に与えていたのであろう。特に、人間の生老病死の問題、山中原野における狩猟・採集の労苦、粗放原初的な農業の苦心、自然災害や疫病への恐怖、近隣社会との闘争などへの深刻な対処の長い、長い年代の中で、頼るべきものは、雲間に聳立して不動、優美なる大自然の姿であった。極めて徐々とした動きであったが、その信仰的態度は、少しつつ宗教的な心理を深めて行ったことであろう。
修験道の起原
甲斐駒ヶ岳(嶽)『白州町誌』第四節 山岳信仰 山寺仁太郎氏著
 
 山岳信仰の具体的な姿は、修験道であって、それが今日まで根源的には同じ意識の下に、今日まで続いていると考えられている。その修験道は従来、欽明天皇の十三年(五五二)の仏教公伝以後において、自然信仰の基盤の上に渡来してきた道教や仏教が習合して次第に成立したものと考えられていた。
 しかし、最近は、修験道の中心思想が、既に弥生時代を通り越して縄文時代の山岳狩猟社会に発生しているという説が有力である。上述した坂井、金生などの遺跡からうかがえる先史時代の信仰に根源があるというのである。
 縄文時代の人々は山岳原野の狩猟を主業としたと考えられているが、この時代の人々は二つの住居を持っていたと考えられる。一つは、平地・海岸・湖岸に、一つは山間に住んで夏の問は山中に入って狩をしていた。山間に住んで狩猟採集に従事した生活環境の中に修験道の起源を見出す事はむしろ自然な考え方と言えるであろう。修験道における断食、水断ち、穀断ちなど山伏のタブーとするところは、多く狩猟民のものであり、服装、持物も甚だ狩人的である。
 縄文時代の終りから弥生時代に入って、平地・海岸・湖岸に住む人々が、稲作文化に入るや、山はもう一つの意味、すなわち水の分配を司るもの、農業を支配する神の陵家という考え方が加わって来た。柳田民俗学における山の神の思想、すなわち冬は山に住み、春から夏にかけては田に下って田の神となるという考え方はこの辺に起源があると考えられている。これが、氏神の祖型であって、そのため、山麓民が、山頂に本官(山宮)を設け、山麓に里官(前官)を設け、春秋二回に祭事を行なう傾向になった。
 駒ケ嶽の山頂の本宮に大己貴命を祭ったとするのは、この神が越中の立山の大汝(おおなんじ)峰の例に見られるようにそもそもは狩猟神であり、それが、大物主或いは大国主命と同一視されることにより農耕神、穀神の性格を加えたことと無関係ではないと考える。
 修験道の始祖とされるのは白鳳時代に活動したという役ノ小角である。役の小角なる人物の実体が何者であるかは、今問うところではないが、彼は密教の秘伝である孔雀王呪法を修して、七~八世紀のころ、大和の吉城山に籠って天災、怪異、祈雨、出産、病悩、疱瘡等に対して験力を現わした呪術師であった。その験力は異常に強大であった話は、色々の形で伝えられ、全国名山の多くは、彼の力によって、開発されたとする。従って当時の山岳信仰者にとっては、一つの理想像として考えられていた。それと共に、彼の代行をするような人物及びその行動が設定され、各山に役ノ小角的な仙翁、異人の物語が発生するにいたった。近い例をとるならば、韮崎市旭町の苗敷山の社記に登場する六度仙人の如きは、鳳凰山の神在丘に止住して、神通力を発揮したことになっており、同じく、茅ケ岳とその近傍金ケ岳には、江草孫右衛門、金ケ岳新左衛門、さらには孫左衛門という三種の名前を持つ怪人が登場してしきりと怪異をなすのである。
 駒ケ嶽神社の社伝によれば、甲斐駒ケ嶽も役ノ小角が仙術を修した山であったといわれ、その事に関連してか、山中に異人の棲む伝承が今に伝わっているのである。
宝永三年(一七〇六)甲州を探訪した荻生徂徠はその「峡中紀行」に次の如く記している。
「駒嶽亦来りて、橋前に逼る。之を望めば、山の不毛なるもの三成り。焦石畳起する者に似たり。巌の稜角歴々として数ふべし。形勢獰然たり。此より前の芙蓉峯の芙蓉相迎へし者に似ず。相伝ふ豊聡王(聖徳太子)の畜う所の驪駒は、是の渓に飲んで生ずと。山上祠宇有る莫し。山操木客(山中の怪人)に往々にして逢ふ。故を以て土人敢て登らず。昔一人有り。おろかにして勇なる者、三回の糧をもたらして絶頂を踏む。一老翁を見るに相責めて曰く『此の上は仙福の地、君が渉る所にあらず』と。其の髪をつかみて、巌下に放てば、則ち恍然己に己が家屋の山後に在り」(河村義昌訳)。
 徂徠は里人の談の中にこの伝説を聞いて、興味をもってこの文を綴ったものであろう。
 約百年後文化十一年(一八一四)編纂された「甲斐国志」は、駒ケ嶽の山容をさらに具体的に記して、「峡中紀行」のこの部分を引用している。
駒ケ嶽は文化年間のこの時代において、なお人間の攣登することの出来ない高山秘境であって、山中には仙翁の如き異形の住む処と認識されていたのである。幕末嘉永年間(一八四八~五三)になった大森快庵の「甲斐叢記」も亦、明らかに「甲斐国志」に拠って、駒ケ嶽を誌し、徂徠の伝えた老翁の仙術を特筆しているのは、少なくとも明治以前におけるこの山への認識の度合が奈辺にあったかを、うかがい知ることが出来るのである。
 上述の如く、駒ケ嶽を一つの信仰の対象としての考え方は縄文時代まで遡ることができ、数千年間にわたって神聖なる山、祖霊の坐す山、近ずき難き神秘な山という見方が連綿として続いて今日に至ったということが言えよう。こうした山岳への信仰形態は日本全国に略々通有するものであって、駒ケ嶽の場合は、比較的純粋に経過して来たと言えるのではなかろうか。
横手駒ケ嶽神社
甲斐駒ヶ岳(嶽)『白州町誌』第四節 山岳信仰 山寺仁太郎氏著
 
 駒ケ嶽頂上に、大己貴命(おおなむちのみこと)及び少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀り、横手の東麓登山口にその前官を創建したのは、社伝によれは、雄略天皇の二年六月のことで、出雲国字迦山より遷祀したとされている。もとより信ずるに足りない悠遠の昔のことであるが、昭和五十九年、前官の社地の北面の一隅、祈祷殿改修の場所より、縄文式の大型の土器が出土した。この社地に縄文時代より人間が住み、且つこの地が、駒ケ嶽遥拝所であったとする推察も成り立つのである。
 住民或いは、駒ケ嶽信仰をする他郷の人々が、主神を大己貴命(大国主命)と認識することは、一般的でなく、「甲斐国志」の言うように山頂には駒形権現、馬頭観世音、或いは摩利支天が祀られているのだという認識の方が強かった。神仏混淆した修験道の色彩が濃厚であった証左であろう。単に「駒ケ嶽さん」と愛称して山岳そのものを尊崇する気分があった。従って、駒ケ嶽神社の性格は、明治以前、神仏分離が行なわれるまでは、極めて修験道的な祭祀の場であったと考えるのが自然であろう。
竹宇駒ヶ岳神社
 駒ケ嶽神社の前官は、もう一つ尾白川の渓谷に沿った千ケ尻にもある。不思議なことに、この前官に関する社記の類が見当らず、「甲斐国志」もこれに触れていない。昭和三十七年刊行の「峡北神社誌」なども書き落している。このことは同所に設けられた神道御嶽教、駒ケ嶽大教会所などが、便宜的に近い過去において山神を勤請「前宮」であったことを想像させるのである。
駒ケ嶽開山 小尾権三郎
甲斐駒ヶ岳(嶽)『白州町誌』第四節 山岳信仰 山寺仁太郎氏著
 
 長野県諏訪郡上古田村に生れた小尾権三郎によって、この山が開山されたのは、文化十三年(一八一六)六月十五日(旧暦)のこととされる。小尾権三郎は幼時より、特異な信仰的才能を持つ人物で、十八歳の時自ら弘幡行者と名乗って、甲斐駒ケ嶽開山の大願を立てた。横手村山田孫四郎宅に逗留して、この山の峻嶮にいどみ、数十回の難行苦行の末に、漸く山頂に到達し得たのであった。
 徳川時代の中期ころから、幕末にかけて、全国の山岳の開山がしきりに行なわれ、この時代の一つの流行となった。例えば、享保六年(一七二一)七月の有快による信州有明山の開山や、文政十一年(一八二八)の播隆による槍ヶ岳の開山などは、その顕著な例である。弘幡行者小尾権三郎の甲斐駒ケ嶽の開山も、その一連の流れと見ることが出来る。
 彼は開山後、京に上って、神道神祇管長白河殿より駒ケ嶽開聞延命行者五行菩薩という尊号を賜わったが、開山より僅かに三年後の文政二年(一八一九)正月十五日に二十五歳の若さで遷化する。彼の霊は、駒ケ嶽六合目の不動ケ岩に祭られ、今、大開山威力大聖不動明王として尊崇されている。弘幡行者の開山により、駒ケ嶽信仰は一層修験道的な色彩を濃くし、全国に及ぶ駒ケ嶺信仰登山者の競って登頂参拝するところとなった。その登拝路は、横手前官を基点とする黒戸登山道と、千ケ尻前官を基点とする尾白川登山道の二つが一般的で、他に、千ケ尻前官から直接黒戸尾根にとりついて、笹ノ平で横手口と合流するものもあった。
 尾白川登山路は、源流にかかる千丈ノ瀧下流において、左方の急坂を直登して、五合目屏風岩に到り、黒戸登山道と合流するが、これらの登山道は、屏風岩の峻嶮を経て、七合目の七丈小屋に達し、八合目の鳥居場において、朝日を拝して、やがて山頂の本宮に到達するように開かれている。信仰登山が衰退して、一般登山者が盛んにこの山に登山するようなっても、一般的登山道はこの何れかの道を利用する。従って、現在その登山道の両側には曽ての信仰登山の痕跡を随所に見ることができるのである。稀には白衣の行者の行の実際を見ることもできるのである。屏風岩の下には、かつて、二軒の山小屋があった。荒鷲(アラワシ)と自称した中山国重の経営する屏風小屋は先年廃絶したが、五合目小屋は今も現存し、昭和五十九年、小屋番の古屋義成が、日本山岳会有志の応援を得て、創業百年を祝った。古屋義成によれば、この小屋は、明治十七年(一八八四)修験者、植松嘉衛によって行者の祈両所として開かれたものという。何れにしても、これらの白州町からの登山道はその峻嶮の度において、全国有数のものであって、それだけに開山当時の弘幡行者の苦辛が十分に想像され、男性的魅力に富む豪快な近代的登山の醍醐味を味わうことが出来るのである。
 ここに、明治十二年(一八七九)菅原村井上良恭という人の出版になる「甲斐駒ヶ嶽略図」と題する木版図がある。峻嶮雄大な駒ケ嶽の山容を一面に刻して、山中の地名、祭神などが詳細に誌してある。それによると、駒ヶ岳山頂-大己貴命鎮座、摩利支天蜂-手力男命鎮座、黒戸山-猿田彦命鎮座とあり尾白川渓谷の不動ノ瀧附近には大勢利瀧の名がある(この両瀧が、同一のものか別個のものか不詳)。千ケ尻前宮のあるところには、遥拝所と書いた鳥居があって、「前宮」の名前は誌してない。横手の前宮は全く記載していない。
 思うにこの図面は、駒ヶ岳の案内書の如く見えるが、神仏分離後の明治十年代の駒ケ嶽観を現わしていると考えられる。駒ケ嶽の、横手と竹字(千ケ尻)の両前宮が両立し、互いに表登山口を主張するようになるのは、このころからであって、菅原村居住の井上良恭は、菅原口(竹宇、千ケ尻)こそ表参道であり、表登山口であることを主張したかったのではないかと推察できるのである。もっとも肝要と思われる横手前宮を無視し、竹字前官を遥拝所と誌したことは、一面、修験道的信仰登山から、近代的登山への脱皮を示しているとも考えられるのである。
 参考までにもう一つ図面を紹介する。「甲斐駒ケ嶽登山明細案内図」と称する昭和二年(一九二七) の印刷物。発行者は菅原村井上正雄である。井上良恭の子孫ではないかと想像されるが、明らかに明治十二年の木版図の改訂版であることが判かる。この図面では、横手と竹宇の両前官が大きく描がかれている。登山道は、前者に比して遥かに具体的実用的に描かれているが、鎮座する神々の間に多くの変更があるのは注目されてよい。山頂には大己貴大神と共に駒室大神が祭られている。摩利支天峰には摩利支天、西峰には天照大神と馬頭観音、烏帽子岳には薬師大神と大頭羅白神という神名が見える。黒戸山には刀利天と大日大神が祀られている。
 明治十二年と昭和二年とは年を隔てること四十八年。この約五十年間に、案内図を作製しょうとした二人の井上氏の間には、駒ケ嶽の山神について、その表現にかなりの相違があるのである。
現在の信仰
 明治初年の神仏分離によって、駒ケ嶽神社は神道の神社として、一応修験道的信仰とは分離された。弘幡行者によって開山された駒ケ嶽の修験道的信仰は、その後、明治十六年十二月に主務者の許可を経て、皇祖駒ケ嶽教会となり、多くの駒ケ嶽講の主流となって現在に至っている。
 出羽三山、越中の山、相模大山など古くから修験道が発達した山では、先達の集団が中心となって宿坊を経営したり、参拝者の案内先達をつとめた。その伝統は講として今日色濃く残っている。一方木曽御岳のように、各地に散在する信者は、御岳教などをつくって、その中の先達が講を組織し、登拝する形をとった。概して言えば、甲斐駒ケ嶽の場合は後者の例であって、それだけに御岳講の影響が強いと考えられる。
 
 甲斐駒ケ嶽に対する山岳信仰を縄文時代まで遡って考えると実に数千年の長い間、われわれの祖先はこの山を尊崇し続けたことになる。その間幾多の具体的信仰形態は変化し、時に山に対する信仰の深浅の繰り返しもあった。現今の山岳信仰は率直に言って、往時に比して甚だ薄弱なものと言えよう。しかし、相も変らず、人々は駒ケ嶽に大きな神性を感じ、愛着を持っている。人類の大自然に対する宿命的な心理であるかも知れない。その意味でこの山に対する信仰はさらに深く詳しく研究されねばならないと信ずる。<山寺仁太郎氏著>

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甲斐駒を開山したと伝えられる権三郎が横手に来たとき地域の状況は切迫していた。駒ケ岳は横手の人だけで管理していたのではない事が理解できる文書である。

横手と白須・台ケ原村入会出入一件
『白州町誌』一部加筆
 
 文化十一酉(甲戌 1814)四月〔十年 癸酉〕
横手村ヨリ白須・台ケ原両村ヲ相手取出入一件諸事写覚
  大坊新田 道村源五右衛門
乍恐以書付奉願上候
巨摩郡横手村
訴訟人 名主 (横手)彦左衛門 
    町百姓  庄蔵 彦右衛門 彦兵衛 
    百姓代  孫四郎 要蔵 
    小前総代 仁左衛門
不法狼籍御吟味願
 巨摩郡白須村
 相手 名主   仁弥
     同   弥五左衛門
     同
長百姓  惣助
     同   紋右衛門
     同   杢兵衛
     同   三郎左衛門
百姓代  作右衛門
     同   勘兵衛
小前惣代 八左衛門
同郡台ケ原村
    名主   八右衛門
    長百姓  幸右衛門
     同   宇右衛門
 同   孫右衛門
     同   傳右衛門
    百姓代  文七
    小前惣代 文蔵
 右訴訟人彦左衛門外七人一同奉申上候、相手白須・台ケ原両村之者共、当四月十三日、当村分内字宮沢外荒地、草間林小物成林所々江数拾人入込、諸木伐苅荒候間、打驚駐付差押候得共、理不尽之挨拶故無據、白須村甚弥同人下男壱人・久兵衛・浪次郎・勘五郎・佐五右衛門差押、為証據右六人之持居候、木鎌等留置、即刻右場所方其段御訴申上候處、翌十四日ニ至リ而数百人押来リ、鯨波之聾ヲ上ケ、畑荒地雑木草間林居林社木、当村地内大坊新田ニ而所持仕候小物成場之無差別至乱入、大小合テ木数弐万本余伐荒、乱国同様之乱法ニ而、出逢候者打殺シ可申与罵リ、私共村方之儀者、秋ニ高三百九拾石余、人々ニ而相手両村者凡千八百石余、銘々棒・手木・竹鎚等持打散シ打倒シ、老衰罷有数足遅キ者ハ及打擲ニ、人々恐怖仕、住家江迯籠門戸ヲ閉、或ハ家財諸道具等を取片付、老幼・女共者近隣村々所縁之方江迯(ニゲ)去リ、迚茂(トテモ)難及自力ニ難ケ敷奉存候間、早速徒党乱法之御礼明被成下置度偏ニ奉願上候、尤当村西之方駒ヶ岳与申者、甲・信両国之境江引続山澤有之、出入及数度、既ニ正徳
二辰年(1712)松平甲斐守様(柳沢吉保)御領分之節、当村与台ケ原村一致ニ而、白須村江掛候山論之節、尾白川を限リ、白須・横手両村為境之事御裁許有之、裏書絵図持傳、宝暦六子年(1756)横手・台ケ原・白須三ケ村方黒沢・山高・柳沢・三吹・若神子五ケ村江掛り及出入候砌茂別紙魚絵図ニ願シ候、桑之
木沢ヨリ奥ハ、元来台ケ原・当村・白須三ケ村之持山ニ有之候得共、相手五ケ村之内柳沢・三吹二ケ村ハ無年貢ニ而入会来リ候間、柳沢ヨリ米壱石五斗・三吹ヨリ同五斗宛年々差出シ、訴訟方三ケ村江割敢為入会候様御裁許御申渡、猶同十二午年(1762)、牧野大隅守様御勘定御奉行御勤役中、長坂上条・同下条・渋澤・日野四ケ村方富村江掛り、村上方不残入会釆候段難渋申掛ケ及出入候刻も、桑之木澤ヨリ奥山江斗可為入会之昔御裁許被仰付、然上ハ、桑ノ木澤ヨリ東北瀧道山都而当村持株・薪材木等引取場ニ而、惣名横手内山与唱、其内字シリタリ澤有馬背蛇澤入江見通シ、内ハ東西弐拾四町・南北三拾壱町与村明細帳ニも顕然認メ上候、村内山外分持場共分明ニ候、然ルを内山を下り畑地居住之地迠(マデ)迫被伐荒、近来未聞之乱法ニ付、近隣村々江相響徒党騒乱ニ紛無之、殊ニ小前之者共小村を見掠メ、且村役人共不背愚昧ヨリ右鉢之儀出来候儀与、挙而可奉越訴由相聞エ候ニ付、厳敷相制止置候。尤宮村之儀ハ、山附薄地寒暖不定之地ニ付、出生之草木ヲ以御年貢上納、老幼扶助之致シ手当ニ年来大切ニ立置候を、右様剛強及不法ニ、御威光ヲ茂不奉恐御国政を相乱悪事被致候而ハ、小村之私共御年貢上納ハ勿論、住居難相成歎ケ敷奉存候間、格別之以御憐懸ヲ、徒党狼籍御取鎮メ、右頭取之者沾逸々御吟味被成下置候ハバ一村相助、大坊新田迠(マデ)無難ニ相続仕廣太之御慈悲与難有仕合奉存候、
以上
   文化十酉年(1813)四月
                        横手村
名主  彦左衛門(以下略)
  長百姓 孫四郎(山田氏?)
甲府御役所
 
右願出入、文化十酉年(1813)四月願書差出、漸々文化十一戌年(1814)十二月廿四日左右御裁許相済候事
  右御裁許写左之通差上申一札之事
 甲州巨摩郡横手村訴上候ハ、去ル酉四月十三日白須村甚弥井同人下男壱人其外都合六人、横手村持之古田荒地草間林起小物成場江入込、理不尽ニ伐荒俣間右六人之もの共差押置、白須村役人方江相届候處、大勢被相越、悪口雑言等申之ニ付、証拠之ため鎌六挺取ゲ、六人之もの共ハ同村役人方江引渡遣候處、翌十四日白須・台ケ原両村之もの共凡六七百人斗、銘々鎌・銘・鋸或ハ斧等を持参り、右場所ニ生立有之松・雑木大小之無差別数万本伐倒、右躰不法被働候而ハ小高之村方住居モ難相成、内山古田縄受之場所マデ入会秣場(マグサバ)ニ可奪取巧与被察不法狼籍之始末厳重御吟味請度ヲ申之上候
一、同国同郡白須・台ケ原両村答上候ハ、駒ヶ岳之儀ハ、横手・白須・台ケ原三ケ村山元、南ハ大武川・北ハ尾白川を限り東之方横手村田畑境追不残入会秣苅敷薪材木等前々方取来り候間、去西四月十三日、白須村名主甚弥弟粂次郎・甚弥下男一松其外都合六人三ケ村入会秣場エ秣苅取として罷越候處、横手村并大坊新田之もの共弐百五拾人余も致待伏セ、右六人之者共木鎌六挺取上候間、何様之訳合ニテ取上候哉之ヲ相尋候得共、利不尽之致挨拶、一躰横手村之者共、入会秣夥敷(オビタダシク)立出、私欲乍致稀秣取トシ而罷越候者共、木鎌取上甚心外ニ付、両村小前之者共三百人斗り、一同、鎌・鈍・手鋸を以、右立出場所立木不残拂候處、両村不法狼籍杯ニ偽之儀申立、大坊新田与致合躰木鎌取上候ハ難得其意、横手村・大坊新田一同不當之始末御吟味請度ヲ申上候
 右出入引合大坊新田一同御吟味之上御伺、左之通被仰渡慎
 
一、訴訟方之儀、南ハ字桑之木澤より北ハ尾白川を限り横手村内山ニテ、字ヲシルタリ澤より蛇澤え見通シ中尾澤を限リ、山裾ノ方ハ同村地内ニ候由ハ申口迄ニテ、既ニ相手方ヨリ通路ノ道筋モ歴然ニ相見エ候上ハ、申立ノ趣難成御信用、相手方之儀も両村入会ト心得立木伐採候場所ハ横手村字宮澤外拾五ケ所古田之縄請并小物成林ニテ、夫々名所モ致符合、正徳二辰年(1712)字尾白川ヨリ濁川マデノ山論裁許は、今般論山ニ抱候儀無之、宝暦六子年(1756)、白須・台ケ原・横手村ヨリ黒澤村外四ケ村エ相掛り候出入も、是又字桑之木澤方大武川越限り候論所ニテ可引當品々無之、同十二午年(1762)、長坂上条村外三ケ村ヨリ横手村山論之ミギリ、白須・台ケ原弐ケ村も引合ニテ御吟味請候由ハ、其節之御裁許請証文ニ両村連印いたし候趣も不相見上ハ申口マデ之儀、其外手扣(ヒカエ)書留或ハ村明細帳等ハ、自己之品々ニテ、他村江対シ候出入之証拠ニハ難御取用、引合大坊新田之儀も、前々論内エ入込伐苅いたし候ハ無相違候共、山手銀横手村江差出候趣村明細帳ニモ載有之由ハ、是以村方勝手ニ認置候品ニ
付難御取用候、依之横手村字栃平其外飛地有之場所、南ハ瀧道澤北ハ栃平宮沢、西ハ大日向山を限り横手村地内、南ハシルタリ澤方北ハ中尾澤を限り同村内山ト心得、笹ノ平・びやくび・古之平・シルタリ澤ヨリ桑之木澤之間エ横手・白須・台ケ原三ケ村入合秣苅取、大坊新田之儀ハ、奥山・前山共ニ入会小物成米ハシテ米弐斗宛年々致上納、是マデ横手村江差出候山手銀ハ以来相止メ、白須・台ケ原両村ノもの共伐拂候木品ハ、横手村エ引取、同村エ取置候木鎌ハ白須村江可相返シテ被仰渡候
一、訴訟方之もの共儀、白須村甚弥外五人、古田荒地其外小物成林江引込理不尽ニ立木伐荒侯迚(トテモ)右之もの共之持居候鎌六挺取上候段一同不埒(フラチ)ニ付急度御叱り被置候段被仰渡候
一、相手方之もの共儀大勢申合、訴訟万古田結論之場所エ心得違ヲ以入込、立木不残伐拂及狼籍ニ候始末、入込候もの共ハ勿論之儀、右場所エ不罷出ものニ候共右次第ニ候ハバ差留も可申處無其儀、村役人共ハ別而之儀、一同不届ニ付、名主ハ過料銭拾貫文・長百姓共同五貫文宛・両村惣百姓共ハ村高ニ應シ過料銭被仰付候段被仰渡候
  但シ過料銭ハ三日之内、當御役所エ可相納被仰渡候
 右被仰渡之趣、一同承知奉畏候、若相背侯ハバ重科可被仰付候、仍而(ヨリテ)
為後詮連判一札差上申處如件
   文化十一成十二月廿四日
                  甲州巨摩郡横手村
                  小前惣代  仁左衛門
                  同     氏右衛門
                  百姓代   孫四郎(山田氏か)
                  同     要蔵
                  長百姓   庄蔵
                  同     彦右衛門
                  同     彦兵衛
                  名主    彦左衛門(横手氏か)
                  同国同郡白須村
                   小前惣代  八左衛門
                   同     長蔵
                   同     庄右衛門
百姓代   作左衛門
                   同     勘兵衛
長百姓   杢兵衛
                   同     三郎左衛門
                   同     紋右衛門
                   同     惣弥
                   同     弥五左衛門
同国同郡台ケ原村
                   小前惣代  権左衛門
                   同     文蔵
                   百姓代   文七
                   長百姓   宇右衛門
                   同     孫右衛門
                   同     幸右衛門
                   同     傳右衛門
                   名主    八右衛門
同国同郡大坊新田
                  百姓代   長蔵
                   長百姓   傳蔵
                   名主    團右衛門
   野田松三郎様
  前文之通曲渕甲斐守殿・岩瀬加賀守殿御裁許之趣無相違、佃而為後証拠写相渡置者也
   文化十一成年十二月
         甲府御役所 (大坊・道村初大所蔵)
 解説
横手村訴訟と裁決状 文化11年(1814
 横手村・白須村・台ケ原村三ケ村入会境界をめぐって、横手村より白須・台ケ原二村を相手どって起した訴訟文と勘定奉行の裁許状である。 
文化十一年四月十三日に白須・台ケ原二村の者達が横手村分の草間林に入込んで、入会地を掠めたとして草を刈り、木を伐り倒した。横手村では現場の差押えとして白須村甚弥外五人を捕え、証拠として木鎌などを押収したところ、翌日に両村の者達数百人が押しかけて、ときの声をあげてあたりかまわず立木を伐り倒し、かつ出逢ったものに打殺すなどと罵り、小村のため対応もできずに代官所へ訴えた。この騒動に対する裁許状は、横手村は鎌を取りあげたことに対してお叱り、白須・台ケ原両村のものは現場に参加しなかった者も制止すべきであったとして対象者とし、名主は十貫文・長百姓は五貫文、惣百姓は村高に応じて罰金を課せられた。
 
 この訴訟には台ケ原村は納得せず翌年も続く。

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甲斐駒ヶ岳開山の真実と誤伝
甲斐駒ヶ岳は小尾権三郎以前に地域の本良院により開山されていた。
横手村 当山派修験宗格院 本良院
明治五年に修験は廃止されるが、慶応四年に寺社御役所に提出された書状をここに提起する。〔一部加筆〕
  巨摩郡(現白州町)横手村 当山派修験宗格院 本良院
由緒明細書上帳
 一、御祈願道場    但シ弐間半ニ弐間
   本尊       不動明王
   祭礼日十一月廿八日、護摩修行天下泰平国家安全今上
   皇帝御宝祚延長之御祈祷相勤罷在候
兼帯所
一、駒ケ嶽観世音菩薩 但シ護摩堂三間四方 石鳥居 高一丈
   祭礼日八月六日柴燈護摩修行
一、愛宕大権現御社地 
長十四間 横六間 此坪八十四坪
祭り十月廿四日
一、山ノ神社地    
長拾四間 横六間 此坪七十四坪
祭礼 十月十七日
一、神明宮社地    
   但長拾四間 横六間 此坪七十坪
祭り日 三月十六日
一、鳳凰大権現社地 長七間 横四間 二十八坪
   祭り日九月九日
一、風神社地 長七間 横五間 此坪 三十五坪
   祭 七月十日
一、水神社地 小社
   祭礼 七月二十五日
一、上今井山神 小社
  右者同村神主拙僧立会祭礼ニ御座候 十一月二度目の亥の日
一、湯大権現     小社
  同じく神主隔年ニ祭礼仕儀処六月十四日
一、妙見大菩薩 小社
一、居屋敷 弐畝拾歩 本良院 但御年貢地
一、院 宅 但八間半 五間
二 土 蔵 弐間半  三間
 
右駒嶽之儀者高山に御座候得バ
峰三ケ処ニテ御本地観世音菩薩也、
中之岳ニハ大権現、
奥之院ニハ日輪魔梨支天(摩利支天)大明王ニ御座候、
古来別当仕居候処猶又天保十亥年(1839)之時分、私実父故実之時候、江戸上野之宮様ヨリ元三大師之御尊像被下置候時節高山之儀ニ御座候得者、時節差図之上登山人先達致候様、被仰付候処相違無御座候 
 以上
尤祭り同村ニ御座候得ハ神主等モ立合申候
右者今般御一新ニ付当院兼帯処其外所持之分可書出旨被仰渡候処相違無御座候依之奉書上候以上
 慶応四辰年八月 日
          巨摩郡横手村 駒獄別当
          別納 本良院 ㊞
   寺社御役所
 

武川衆出陣命令 徳川家康

道祖神 小さな地蔵さん

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