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北杜市武川(むかわ)町の「徳川を支えた武川衆」情報をお届けします


甲斐御牧の全貌 甲斐国志他

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sky.geocities.jp/miharasi2012/kainomimakisimizu.pdf
なお記載方法は一部改行して読み易くした。 甲斐の御牧(勅旨牧)『甲斐国志』「巻之二」 国法部 牧場(一部編集加). 一、日本記ニ、雄略帝十三年甲斐黒駒ノ事見ユ、續日本記ニ、聖武天平三年十二月丙. 子甲斐国献 神馬 黒身ニシテ白ク髪尾(中略)其獲レ馬人進 ...
sky.geocities.jp/sabutyan66/page057.html - キャッシュ
甲斐国志』巻之四十八古蹟部第十一 の見解 倭名抄ニ巨摩郡ノ郷名萬木乃、国用眞木野字トアリ。余戸郷北貳拾餘村皆此郷ニ属ス。 牧【マギ】ノ原村即チ其違名ナリト云。 延喜式及ビ国史諸記ニ所レ載本州ノ御牧三所穂 坂、眞衣野、柏前ナリ。年貢六十匹ノ内 ...
sky.geocities.jp/sabutyan66/page056.html - キャッシュ
平安時代頃(或いはそれ以前より)に甲斐の国巨摩地方に在ったとされる天皇の勅旨牧(御牧)は今はその面影を忍ぶものは歴史 ... 県内の歴史研究も少ない資料から私論や推論に頼って『甲斐国志』の論をさらに発展させ定説化を進めているが、空白の部分が ...

山梨の歴史講座 甲斐(山梨県)の古代御牧(勅旨牧)甲斐御牧参考書 ...
blogs.yahoo.co.jp/hakusyukorekara/2795295.html
山梨の歴史講座 甲斐(山梨県)の古代御牧(勅旨牧) 甲斐の御牧参考書『甲斐国志』「 巻之二」国法部 牧場 甲斐の御牧参考書 『甲斐国志』「巻之二」国法部 牧場 山梨の歴史講座 甲斐(山梨県)の古代御牧(勅旨牧)日本書記 甲斐の御牧...

白須甲斐守内

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若宮八幡宮(神社)縁起と興亡


祭神 仁徳天皇・応神天皇・神功皇后の三柱


若宮白須八幡宮は、伝わるところによりますと、人皇71代後、冷泉天皇の時、甲斐源氏の祖新羅三郎源義光が任により当国に就きし際、祀官石田道麿朝臣も時の祭祀官として従い、この地に参りました。その折三柱の祭神を勧請し近隣を代表する八幡神社として、大いに信仰を深めました。


時は移り、この神社を白須八幡宮と崇め奉り、それより武田家代々や地域の武将たちの崇敬深く栄えました。


伝えに寄れば、馬場・白須両家の祖源三位頼政公の苗裔中宮小左衛門源兼綱が当国に来て白須の地に屋敷を造営しこの神社を崇拝し、その子孫も相尋ねて崇啓し、祭祀官石田民部少輔信頼まで、およそ12代まで氏神として尊みたてまつりました。


また永禄年中(1558~1570)馬場美濃守源信房、神主石田勘蔵某とともに尽力して、字宮原の旧地より、今の社地に移したてまつり、宮殿・瑞垣・神楽殿まですべてを造築し毎年3月25日、御神楽の神事を怠ることなく行い、それからまた天正10年(1582)三月織田信長の当国への乱入の折に、太守武田勝頼朝臣の家臣白須刑部少輔政義をして、御太刀ならびに御真筆の願書を献せしめ、もってその武運長久を祈り社運も高まりましたが、残念ながら武田勝頼公の武運ここに尽きました。武田家の滅亡とともに、しばらくの間この神社の神事もなくなり衰運の一途をたどりました。


その後、慶長8年(16033月1日東照宮神君(徳川家康)より黒印をもって3石3斗6升の寄進たまわり、一時的には栄えました。しかし、寛文の末(1670頃)には神事もほとんど行われずに神社も荒廃していたので、時の神官石田民部小輔源信頼寛が地域の人々の協力により祭祀を再開しました。


しかし貞享の末(1688)ころよりまたしても社運が傾き、住吉八幡宮に由緒ある名家や四方敬神の人々の助力をもって、神事を復興することができましたが、その後世の移り変わり激しく、明治維新の大政の革新が進み神事も衰退していきました。


明治4年(1871)に至り、由緒経歴ある当社は上知のこととなり、明治6年(1873)改めて郷社の列に加えられましたが、明治40年(1907)9月16日、不慮の火災に遭い、宮殿や拝殿・宝物は炎上してしまいすべてを失いました。


しかし地域の人々や当神社を崇敬する多くの方々の再興機運が持ち上がり、明治43年(1910)早々工事に着工し、5月には竣工式を向かえ、神霊を迎え入れることができ、大正3年(1914)神社庁に登録、改築を経て現在に至っています。


恒例の9月23日の祭典には、地域の芸能や子供の相撲大会も開かれ、また田舎廻りの芸能も訪れにぎやかな時代もありました。現在では祭日の前日22日夕方から夜にかけて子供や大人の神輿がでます。当神社の運営は白須上と白須下の氏子を中心にして地域の氏神として大切にお守りしています。


甲州巨摩郡白須村(現在白州町白須上)


 この神社は現在道の駅はくしゅうの北に位置する若宮八幡神社のこと。


 石田備前は神主として白州町内や小渕沢町の神社も数多く所管していた。現在の白須上公会堂周辺の広大な土地を所有していた。神社の東方に石田家の墓所があり、歴代自ら美濃守を名乗っていたことが刻されている。また当時白須家が白州町白須から吉田に移っていたことが理解できる。


 鎮座末社?七拾余社


若官八幡宮井弁天社略記


右御股宇佐八幡官 中御殿若宮八幡宮 左御殿正八幡宮
右両杜勧請鎮座之儀往古ニ御座候得共、武田家御代々様御尊敬不浅、永禄四年(1561)武田晴信公御武運御長久之御祈願被仰付、其節教来石民部少輔源信房公格別成御尊敬ニ付(後馬場美濃守是也) 其御子孫白須形部少輔源政義公是又御尊敬ニ付、字宮原与申所より神主石田管蔵某ニ被仰付、當社地江被為遷朝暮、御武運御長久、御子孫御繁栄、御社参無御怠慢御祈願被為成、御寄附御奉納等度々被成下、殊更白須家以御威光天正十歳(1585・武田滅亡時)乍恐東照宮様(徳川家康)御入 国御座被為遊候節、神主石田管蔵、乍恐(おそれながら)御目見仕関ヶ原大坂両所之御陣中江も御供仕候義、信房公(馬場)政義公(白須)御威光と先祖代次申傳候、且又慶長八年(1603)卯三月朔日御乍恐従御當家様御朱印徳證文被成下置、猶又御四奉行様者被仰付、乍恐御當家様御武運御長久之御祈願奉抽丹心、富神主ニ至候而茂正月六日於松之御間御年礼乍恐御目見仕候茂、偏ニ白須家御威光与難有奉存候、猶又「金ヶ池弁天杜御敬ニ既ニ鶴郡吉町郷江為遷候事茂御座候、信房公御手植之梨子井此手柏に今神木如敬ひ小枝一本折取候ものも無之、枝葉繁茂仕候義も、白須家御武連御長久御祥瑞と奉仰候、神宝御奉納之儀を追々可申上候、以上


甲州巨摩郡白須村 若官八幡官神主 石田備前印居判


 案内者 原弥五左衛門


同国都留郡 吉田村 白須市左衛門


右者若宮八幡井弁天略記被差出侯之虚、甲斐守被遂一覧、則本書を此方江被留置書面之写渡置申候、以上





白須甲斐守内
 九三左衛門孝俊書判(白村下・原忠雄所蔵)
《解説》
若宮八幡官神主石田備前より都留郡吉田村白須市左衛門宛の若宮八幡官井弁天杜略記。
(略記中に)
○武田家代々尊敬浅からざりしこと。
○教来石民部少輔源信房公(後馬場美濃守是也公 子孫の白須刑部少輔源政義公御尊敬 神主石田管蔵に仰付当社地に還させしこと。
○天正十年東照宮様御入国の節神主石田管蔵御目見仕り関ヶ原・大阪両陣へ御供仕りしこと。
○其の他白須家御威光と有難く存じ奉る数々記戴。

文政12年(1829) 若宮八幡再興資料 寄付者名
白須甲斐守・白須助太郎・白須氏家臣 地域の名主 横手彦左衛門(白州町横手)
宮川伝右衛門(大坊) 北原八郎兵衛 伊平次(台ケ原) 河西九郎須(下教来石)
二宮三助(上教来石 山口番所詰) その他 

イメージ 3町横手)宮川伝右衛門(大坊)

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唐土明神 武川村山高

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唐土明神 武川村山高
甲斐国志巻之六十六 一部加筆
 
【現在は幸燈宮(さちひのみや)という。】
  
唐土明神という、黒印神領二石六斗 社地方四十歩。
祉記に云う.大己貴命を祀り、新羅三郎義光を相殿とす。昔時は二祠にて大武川の河側に唐土と云う所に在り、社地方二町余漲水に流失して、今は数株の古樹を余すのみ。元亀元四年(1573)山高氏是れを西宮に移し両祠を移せしが、その黷(トク けがれ)を恐れて、文化二年(1805)併せて村上の旅所へ移し、村内の旧地は水田となし、修復となす。郎官山高氏の氏神なる由其.家系の写しを納む。其の略に云う、承久中(1219~21)石和五郎信光ノ末裔武田太郎源信方甲斐守となして本村に居る、因りて山高氏と称す、文保中(1317)新羅義光を祭る新羅の名を取りて「唐土の祠」と号すと云う。祭礼は九月中の九日前夜初更より燎火(かがりび)を焼き四更に至りて供物を献ず.其の内に鰌(どじょう)汁あり、一社も旧例なり。又村人古より鰻(うなぎ)食はずとなん。
山高氏奉納物左に記す。
正徳二年(1742)九月、山高八左衛門(校者曰く、この八左衛門の名を信賢と云い信礼の父にして、柳沢信尹の実兄なり)奉納自詠自筆。百首、同時奉納の神鏡一面、同正徳三年正月奉納「大国主ノ神像」(狩野洞元の画、願主山高兵助信知は信礼の名なり、)
享保六年(1721)七月柳沢信尹の女(校者曰く、信尹の女山高信蔵の妻り)絵馬二枚、
山高織部信蔵(校者曰く、信蔵始め織部後に八左衛門と云う 信礼の嫡子なり)奉納弓一張。
享保七年(1722)十月十八日、山高八左衛門信礼。奉文に曰く、征夷大将軍吉宗公御鷹狩之為にて供奉する時、弓箭を帯びて武蔵下総の堺隅田川に至り小舟に乗り、菱喰雁を射る為に小舟を止めた、其の時北風が激しく吹いて波が高くなってきた。是は神徳に依るにもの、信礼は命を捨てて将軍を助けた。後殿中に於いて褒美を賜り、是を納める。
享保七年(1722)十月、奉納は南京の瓶子二対、綸子の中旗八本、
享保八年(1723)三月、奉納、内陣の戸張
山高三左衛門信助(校者曰く、信助は信ノブアキ)の誤り、信は信蔵の嫡子なり。奉納錫の瓶子二対。
延享四年(1747)六月、八左衛門信蔵の奉納銅。白銅の燭台二対、

明和二年(1765)六月、三左衛門ノ尉(校者曰く、信なり。奉納麻幕陽一張、旗四旈(リュウ)唐木綿の大旗二旈、

享和二年(1802)六月、辨之丞信友(校者曰く信友は信の三男にして兄信成の養子となり、家を継ぎ義正と改名する。奉納の刀二(大は波平行安、小は長谷部国重の作)
台ケ原村神主兼帯する。
 

◇ 甲斐武田家と馬

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◇ 武田信玄と馬
天文22年 1549 8月23日
 景虎川中島へ出張云々、夜中に甲州方二萬の勢を両山の木陰に密々伏置。偖馬の手綱を切て越後の陣所へ放かければ、馬を慕ふて人出すべし。必ず敵陣より足軽供此馬を目がけて可出也。其時其足軽共討取體にもてなし。侍百騎計のり出し、越後の足軽を追立ば景虎おこの者猛き武士なれば、百騎の甲州勢を遁さじと追いかけて可出、其時足並を拂、敗軍の振にて此谷きわへ引、両山を引廻し後陣をつき、其外の兵共両手より下立て目の下に取廻し、矢先を揃へ筒先を並べて可討取と定めて、兵二萬忍ばせ置き、馬二三匹綱を切て越後の陣へ追放し、足軽五十人程出して彼の馬をこゝかしこに追まはし匐けれども、越後の陣所よりは是を察して一人も出さゞろければ、信玄被レ見謙信は名人にて此謀にのらぬは巧者の弓取り也。云々。『川中島戦記』

 甲州の源府君武田信虎公、秘蔵の(愛馬)鬼鹿毛馬の長八寸八分にして其肝、形例へば昔、頼朝公の生、摺墨にもさのみ劣らぬとて、近国迄申ならはせば、鬼鹿毛とも名付、嫡子所望なれども相違無く進ぜらるべき覚悟にあらず。又無下に否とも仰せられ悪くければ、先始の返事には唯今勝千代に、かの馬は似合はず。来年十四歳にて元服の時武田重代義廣の太刀盾なと共に譲るべきによし也。『甲陽軍艦全集』      

◇ 信玄の相馬法    
 凡大将の馬を撰ぶに心得あるべきにや、甲斐の武田家にて米沢と云しもの、奥州に行きて馬を求むる時、信玄の一首の和歌を書て與ふて曰く、上かんの中かんこそは大将の乗るべき馬と知れやものゝふ信玄五十匹の馬の中に軍に乗られし馬は四足栗毛、中段とて唯二匹あり。甲斐山梨郡とし野とうふ所の百姓、此四足を養ひ置しを、米沢見て又なき馬なりとて、信玄に申して五十貫の地を  與へて此馬を信玄に奉りぬ。云々…『常山紀談』…

◇ 軍馬撰み方の意見
 横田備中守申分。大長成馬悪敷と申者有レ之候、其子細は第一級敵中にも、急成時乗下り自由にならざる故と聞え候。是は名人の何とも理有事を、たれぞ一理有レ之候と申たるを聞伝へて手に合ざる者の口に任せて申たる成べし。敵の中にて馬より下り勝負を仕せて申たる成べし。敵の中にて馬より下り、勝負を仕り、又本の馬に乗働候事、無左右者之儀に御座候。疲たる馬は組討など仕たる時、其儘立留ることも候へども十に九留らすものにて御座候。勝軍の時追討などには中間小者も続くものなれば、乗放したる馬をも引よせて口をとらせて乗には、さのみ大長の馬なりとて乗ぐるしき事有間敷候。勝負いまだしれざる時馬を入れ、下り立て敵相を仕、又馬に乗て働などと云事は不穿鑿の申分成べし、五寸余の大馬に乗たる敵は一寸二寸の小馬に乗てはいかに覚の人成共敵を仕ふせる事成まじく候。馬上の組討と申は先勝の物にて御座候。両方先後なければ両方ともに馬より落る物にて御座候。二寸の馬と三寸の馬と出会たる時、二寸の馬に乗たる方より先を仕れば二寸の方勝に成ものにて御座候。三寸の馬に乗たる方より先を仕れば二寸の方負に成ものにて御座候。我等の所存には軍馬場には大馬にこす事御座あるまじく存候。 『武具要説』

○小幡山城守申分。
横田申所尤に候。常には小長成馬扱能御座候間、人の好も道理にて候得共、常に乗下り仕習ひ候へば、大馬も苦にならざるものにて候間、願くは大馬を好み乗習申度ものにて御座候。…『武具要説』
○原美濃守申分。
右之衆申所尤に候、板垣信形ト村上方と働候時、村上方に名高ク聞候、長谷倉熊之允と申者、鴾毛の二寸にたらぬ乗馬、信形同心の小嶋忠兵衛に駈合せ、忠兵衛を切落し長谷倉さすがの者ゆへ、忠兵衛ずれが首をば取不申、某に乗り掛リ鐙がらみを仕候。私馬は五寸に余りたる馬にて長谷倉が馬を引まくりて腹帯を引切り鞍共にはね落し候を、やがて我等の小者長谷倉が首を取申侯。勝貞は運によると申ながら我等小馬に乗て候はば安々と仕ふせ候事は成間敷候。是も大馬故利を得申候。…『武具要説』
○多田淡路守申分。
右之衆申處至極に候。大馬ノ一曲あるならでは戦場にて用立不申候。曲ト申内に籠曲あるは無用に候。平生乗合能き巧馬は大勢の中にては入に酔ひ馬にせかれて進む気なくして、中々気の毒なる物にて御座候。一気勝てつよき馬ならでは大勢の中へ乗込とても業は無レ之者にて、一手の大将を仕程の者、敵の中へ馬を入るは我働を心に懸、自身勝負を仕らん為計にては無御座候、就中足鰹大将などの馬を入る事は畢敵ノ備を乗破て、我手の者共に能く働さんが為なれば、一寸二寸の小馬にプ大勢中を馳破候事中々成間敷候。…『武具要説』 
○山本勘助、筋切馬についての申分(略)

今川義元の家中に、よねまきと申候伯楽有之、肢ふり悪敷馬の筋を切申候。不吟味なる不吟味なる士衆馬の足ふりを専に好み、馬を求ては前肢後肢の筋を切り、常に責廻ては前後能などと云あるき候。或時義元の出頭人三浦左衛門大夫と申もの、松平清康の内衆、内藤又左衛門と申者と、天龍の渡場にて喧嘩を仕候、内藤は騎馬十騎計、歩行彼是五十計の人数にて御座候。三浦は騎馬五十騎歩行足軽共三百計にて押懸候て、内藤川を越申候。三浦がものども是を見て勝に乗じ、二三十騎ひたひたと川に打入候を見すまし、内藤取て返し鎗を合せて候。例の筋切れたる馬ども、川中およぎ得ず散々に押流され、内藤突勝て騎馬徒立五六十人討取申侯。馬の筋切る馬鹿者言語道断に候。彼筋切たる馬は水をおよぎ得ず。坂を越事ならず。大かた木馬同然なるべし。尤常には坂を乗リ川を渡すにも流れおそき水の浅き川は越ものにて候。坂を早道に乗上り乗下り候事ならず。水早き河と長の及ばぬ川は渡えぬものにて御座候。かようの所より出たる馬は能々吟味有之べき事に御座候。何も尤の由申候。
◇七月八日晴信(信玄)は持分働毛作をふり被成候。又九月末晴信は刈働中、東の城取懸被中候。其時南のかがり口、寄手ノ先手蒐大将に三村十兵衛参候。此手へ向へたる味方の大将は二木市右衛門也。十兵衛に逢ひ申候て重大の主君を敵に仕り弓を引事天命いかで遁るべき、後の世を考へて見よと申、十兵衛申けるは、世になき長時(小笠原)の方人して山籠して何の益かあるとて、晴信に降参して本領安堵せよと申ける。十兵衛をにくまぬものなし。又東の先手には二木善左衛門黒の長四寸計の馬に乗り、其日の大将を仕下知をいたすを、飯富兵部手より申けるは、其馬能馬也。自然賣申間敷かと申ける。善左衛門聞、尤も賣馬成間賣可申ト答ふ。敵より申は敵味方にて商有物ぞ。互に一人つつ出し受取渡をして買候はん間賣申され候へと申候へば、善右衛門申者賣可申候。併金銀迄もなし。下物を取てならは賣候半と申、敵方より申さるものにてはなし。下物には武具か太刀か刀か籠城にて候へは兵粮か、何にても望次第に越可申と呼はる。善左衛門申に其方より申さるものにてはなし。下物とかけるは何にても越中へくに付善右衛門望申侯。武田晴信の首と瀬間三村入道めの首此二つ下物に取て此馬賣ぞと呼はる。敵夫は悪口なりと云、善右衛門申は少しも悪口にてなし子細をよく聞給へ、其方達も如レ存諏訪峠ノ谷戦に五度長時公勝也。六度目の合戦長時旗本より懸て勝利有所に、瀬間の三村入道めが、後切仕候。よって其軍長時公負に成、此遺恨によって瀬間が首馬の下物に取度、晴信の首さへ取候へば在所へは楽に罷帰り候間、ニつの首下物に取て馬賣候はんと申、敵方のもの腹立矢を射かけ夫より軍はじまり申候云々 …『壽齋記』
…参考…『一話一言』

或る時清水太郎左衛門、甲斐黒と云ふ馬を一匹持ち、一日大豆を一斗喰ふ悪馬なる故乗るものなし。馬屋の内に出すには中間六七人ありて綱を付て引き出す。鞍を置くことならず。太郎左衛門此馬を飛乗り鞭を打て走る時、股にてしむれは立所に血を吐きて死す。』云々
 …参考…

 抑(そもそも)木曾に産馬の聞けしは、往古甲斐源治の一族たる逸見氏の軍馬より其種を取れりと古書に見えたり。 
…『畜産諮詢会記事』
 

川を捨てた勝頗 (「川は見ていた」島田一男氏著より)

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川を捨てた勝頗


 釜無川水源地帯(「川は見ていた」島田一男氏著より)


 釜無川はまぼろしの川。法規上は存在しないといった。現実に、笛吹川への合流点                   に近い中巨摩郡甲西町と西入代郡市川大門町とを結ぶ三郡橋から、最上流の山梨県北巨摩
郡白州町(現北杜市白州町)と長野県諏訪郡富士見町にまたがる国界橋まで、そのあいだの大きな橋のたもとには、一つ残らず″富士川″と書いた標示板が立てられている。しかし、その沿岸の町村の人々は、依然として″釜無川″と呼んでいる。時には、″富士川″では通用しないこともあるほどである。(筆註―昭和46年当時)
 東京では地番整理と同時に、町名の変替が行なわれた。江戸以来四百年間馴れ親しんだ町名が、東上野、西新宿、外神田などと味気ないものとなったが、わずか二年余りで、もうもとの町名では手紙が届かない。郵便配達ばかりか、警官にも、タクシーの運転手にも旧町名では通用しない。
 これに比べて、釜無川が法規上富士川に統合されて三十年以上もたっている。東京の植民地性と、地方市町村の土着性の違いであろう。
 南アルプス赤石山脈の鋸岳は、甲斐駒ガ岳の北西。尾根伝いに行けば四キロ余りである。その北斜面の沢から富士川は出ている。川伝いに水源へ辿り着く道は開発されていない。したがって、道路状況や宿泊施設の点から、まず甲斐駒に登り、鋸岳へ移。これが富士川源流探索の常識になっている。
 鎗岳は標高二六〇〇メートル程度の山である。富士山の三七七六メートルに比べれば一〇〇〇メートル以上も低い。甲斐駒でさえ二九六六メートルであるが、この山は初心者はもちろん、登山の中級者クラスは入山しないように赤信号が出ている。

その名の示すとおり、鋸の歯のような岩稼が重なり、南アルプスでは特異な山だからである。したがって、沢を出た富士川の源流は岩肌の裂け目を縫い、白い渓流となっていっきに甲信国境を北へ走る。やがて、東に雨乞山、西に白岩岳を眺めるころから、流れはややゆるやかとなって、釜無山の断層崖の下へ出る。

 釜無山は長野県の富士見町に入っているが、標高は二一一六メートルで、赤石山脈の北の端になっている。
「日本地名大事典」によると、「釜無川は釜無山に発して北東に向う」と書いてあるが、釜無川の水源が鋸岳である以上、これは間違いということになる。
 釜無山と釜無川であるから、当然釜無川の水源は釜無山と考えるのも無理からぬことであるが、長野・山梨両県の河川課に確かめても、全然関係ありません……と、まったく同じ答であった。                                          
 無関係で同じ″釜無″を名乗るのはおかしいではないか、などと開きなおるのは野暮というものであろう。そもそも富士川は富士山から発していないのであるから……。
 釜無山の東麓、釜無川の西岸に、釜無という小さな部落もある。このあたりまでは、国道二○号線信州往還からどうにか車で入ることができる。が、普通は武智温泉どまり。あとは歩いたほうが無難だし、景色もすばらしい。
 武智温泉は中央本線富士見駅から四キロ。共同浴場一方所のひなびた山間のいで湯であるが、いわゆる富士見高原の南端ともいえるところで、釜無川渓谷を探勝する絶好の足場であろう。清列な釜無川の流れは早い瀬をなして爽やかな音を響かせ、晩春から初秋にかけては、いろいろな野鳥の声を楽しむことができる。
「このふしぎな『おもむき』に、大げさにいうと、かぎりなき『時』のながれを、しみじみと感じて、しばし、夢みるような心もちに、なった。」
 とは、宇野浩二作「富士見高原」にある釜無川渓谷の描写である。
 釜無川は武智温泉からほんの一キロほどで白州台地の北端に達し、長野県側の瀬沢の集落を前にして大きく湾曲し、ここからは甲府の西側にある龍王町まで、ほとんどカーブらしいカーブもせずに、南東へ流れる。と、喚いているが、手の出しようがない。なにしろ、ゴロン、ゴロン、ゴロン、ゴロンと、押し流されてくる大きな石が、まるで雷のような音をたてて、ただ恐ろしゅうて、足がすくんでしもうた。」
 大洪水を幾度か経験したという老人は溜め息まじりにこう語った。

 見渡す限りの泥海。これを甲府盆地にあふれた湖水伝説に結びつけることは牽強付会の独断であろうか。向山土本毘古王や僧行基の富士川切り開きは湖水を美田にするためではなく、沃野を護るための治水.の努力であったと考えるのは、こじつけに過ぎるであろうか。

「郷土誌大系」(清水書院)山梨篇は、つぎのように述べている。

「山梨県に特に洪水が起りやすく、しかもその被害が甚大なのは、次のような原因による。
(イ)まわりが高い急な山地であり、盆地の水系は富士川に集中する。だから大雨のときは短時間で広い地域の雨が甲府盆地に集まる。
(ロ)河川が急で、大雨の時はことに水の勢が強く、大石や砂礫を流し出す。(ハ)多くの川は、河床が平地より高い天井川で、河床が年々高くなり、堤防がその役を果たしにくくなる。
(ニ)地質の関係で、地盤がもろく、山崩れなどが起きやすい。
 甲府測侯所が設けられたのは明治二十七年だというが、同測候所の記録によると、昭和十年までの四十年間に三十三回の暴風雨、集中豪雨があり、その度ごとに釜無川が、笛吹川が、つまり富士川が暴れて被害を出している。大体三年に二回強の割合であるが、どちらかというと、暴風雨のときよりも、風を伴わない豪雨のときに恐るべき大洪水をひき起こしている。
 そして、平均十年に一回の割で最も悲惨な水魔の爪あとが甲府盆地に刻まれることを、測候所の記録は示している。
 
 「山は石垣・川は濠」治水に力をつくした信玄(「川は見ていた」島田一男氏著より)
 

古来、「河を治めるものは天下を治める」といわれている。天下をとる、とらぬは別とし

て、治山治水が民心把握の道へつながっていたことは確かである。
 されば、湖水の水を切り落とした向山土本毘古王物語も、国司としての笛吹川、富士川の治水の功績が伝説化したものと考えられるのであるが、「日本土木史」はこのほかに、景行天皇の四十三年(一一七年)に、甲斐の国に入られた日本武尊が洪水に出会って治水工事を指図され、また淳和天皇の天長二年(入二五年)、甲斐の国に大洪水あり、ほとんど湖水のようになったので、勅使がはるばると甲斐まで出向いて水防の祭りを行なった。と述べている。為政者として当然なすべきことをしたのだ。ともいえるし、為政者として、民衆慰撫のための手段であったとも考えられる。
 行基は決して天下を狙って富士川を開いたのではない。もともとが百済系の帰化人で、中国・朝鮮のすすんだ土木知識を身につけていた行基は、年中諸国を歩き回り、水路をつくり、堤を築き、橋をかけ、道路を開いている。それが、土地の人々にどんなに感謝をされ、同時に布教に役立ったかは、想像にあまるものがあろう。
 事実、山梨県下の古寺院の創建由来を見ると、行基の開創というものが一番多く、弘法大師開基をとなえるものをはるかにしのいでいる。富士川汚水につくした行基への民衆の帰依がいかに深いものであったかを物語っていよう。
 だが、「日本土木史」は、富士川に於ける治水の施工としては、甲斐の国主武田信玄を以て囁矢とし、以後甲斐を領するもの、みな武田氏の遺法によって遭切なる水利の法を講ぜり…と、述べている。言い換えれば、上古以来、いろいろと語り伝えられている治水利水の物語には信憑性がなく、遺跡・記録などの裏付けがあるのは、室町時代―武田信玄以後であるというのである。
 確かに武田信玄は富士川の治水に心を使っている。その第一回は天文十一年(一五四二年)の大洪水のあとで、甲府盆地をめぐる数カ所の堤防、護岸の工事を始めると同時に、水源地帯の森林を保護する山法度なる林制を布告している。
 このときの防水工事は、いわゆる甲州軍学から割り出したもので、決して釜無川の流れにさからわず、要所々々に霞堤というのを設けて水の勢いを弱くし、重点的に水の当り場を定めて、そこには頑丈な護岸工事を行なったのであった。
 その霞堤は四百三十年を経た今日もなお中巨摩郡龍王町の釜無川畔に現存して信玄堤と呼ばれている。天文十一年といえば、信玄が父信虎を追放して自ら甲斐の国守となった翌年で、時に二十二歳である。                                          
 信玄はその後も、二十年間にわたって堤防の増改築を行なったり、釜無川の支流御勅使川の合流点を付け替えたり、常習水難地域の農民を水除け堤の地方へ強制移住させて夫役や年貢を免除するなど、いろいろの手を打っている。


 信玄曰く「富士川は戦略の川」(「川は見ていた」島田一男氏著より)


「農は国のもとなり」で、農政強兵策をとらねばならなかった戦国大名としては当然のことといえば当然のことであるが、果たして信玄は農民を水難から護るため、甲斐の穀倉地帯 を確保するためだけの目的で富士川を、さらに上流の釜無川や笛吹川を眺めていたのであろうか。

ここで、さきに述べた言葉を再び繰り返してみる。山梨県にとって、富士川とはどんな

 川であったか。この質問を、今日の山梨県人を代表する幾人かの人々に向けてみたが、 申し合わせたように、「さァ~」と、首を傾げた。それからしばらく考えてから、いろいろ
な答が開かされた。
 曰く、富士川は今日の果樹王国山梨県の育ての親である……。
 曰く、東の甲州街道、西の富士川は、甲州と他国を結ぶ二大路線であり、甲斐の経済と文化の動脈であった……。
 曰く、過去はともかく、現在の富士川は東海第一の電力資源である……。

曰く、甲州商人の根性を鍛え、いわゆる甲州財閥を築いたのは厳しい富士川の影響力である。          

さて信玄である垂川をどう見ていたであろう。「甲陽軍鑑」は武田流(甲州流)軍学の中心で、戦国時代の軍事・政治の哲学書とさえいわれているが、それに、つぎのようなことが述べられている。

「信玄、手柄は、若き時分より他国の大将をたのみ、馬を出させ、両旗をもって、弓矢を取りること、一度も無し。まきたる城をまきほぐしたること、一度も無し。味方の城をひとつとして、敵に取りしかれたることなし。甲州のうちに、城郭を構えへ、用心することもなく、屋敷構えにて罷り在りたり。」
 要するに信玄は常に独力で他国と連合したことはないし、包囲した敵城の囲みをといたこともないし、味方の城を故に奪われたこともない。甲州には城を構える必要もなく、甲府の本拠地もただの屋敷だった。という意味であるが、これを突っ込んで考えれば、勝ち目の無い戦いは絶対にやらないし、やるときには必ず攻めて出て、甲州では戦わないということになる。

武田信玄とは、徹底した合理主義者であったといえよう。その信玄が、

人は城 人は石垣 人は濠

惰は味方 仇は敵なり

などと、極めて理想的な格言めいた歌をつくっている。もっともこれは信玄の作ではなく中国の古典兵書にある「衆の心は城をなす」という故事成語の焼きなおしだという説もあるが、一応は信玄の作として「甲陽軍艦」やこの歌のとおり、甲斐の国には城をつくらなかったかというと、とんでもない。

「日本城郭全集」によると、山梨県には二百二十五の城跡がある。もっとも、すべてが天守閣が聳え立つ、いわゆるお城の跡ではない。館と呼ばれたもの、さらに蜂火台を持ち、監視硝的な役割を果たした砦というものまで含まれている。
と同時に、これらの二百二十五城が、すべて信玄によって繁れたものでもない。築城年代
も沿革もわからぬ鎌倉時代以前のものや、武田家滅亡後、徳川時代に入ってから築かれたものもある.
この中から、信玄にかかわりのあった思われるものを拾ってみると少なめに数えても百に近い数字を示している。しかもそのほとんどが富士川の上流、釜無川と笛吹川の沿岸に配置されている。
 そこで信玄の富士川に対する考え方であるが、彼は、「富士川を戦略の川」と考えていたと判断してよさそうである。


 甲州の歴史を左右した武田氏(「川は見ていた」島田一男氏著より)


 甲州は山国である。甲斐という文字は、「古事記」・「日本書紀」・「続日本紀」などにも現われているが、別に、村彼・歌斐・加比と書いて″かひ″と読ませているものもある。したがって、甲斐という文字には特別の意味はなく、″山間の国″ ″峡の国″という意味から生まれた地名と見られている。
 ついでではあるが、山梨という地名にもふれておこう。「山国なのにヤマナシ県とはこれいかに」と、落語の頓智問答でよく聞かされるが、この由来にはいろいろあってまだ定説がない。山梨という地名は、奈良時代の記録から現われているが、平安朝中期の大漢和辞典ともいうべき「和名抄」には、「甲斐の国に山梨・入代・都留・巨摩の四郡あり」とあり、山梨が甲府盆地一帯であることを説明している。ところで、
  甲斐がねにさきにけらしな足ひきの山梨岡の山梨の花(夫木集 能因法師)
 この歌でわかるように、むかしは甲斐一帯には山梨が繁り、春になると白い花が一面に咲いたようである。千年前の宮中のできごとを記録した「延喜式」にも、「甲斐の国から青梨五担が貢物された」と書き留められている。これらのことが都人のあいだに語り伝えられ、巨摩や都留は忘れられて、「甲斐は山梨」いわれるようになったとみなす説。
 また、「甲斐国誌」が述べているように、山梨は山無しであるという説。四方を山に囲まれてはいるが、甲府盆地だけは広々として山がない。ここには山が無い、盆地に立って四面を見廻したおおむかしの人々の感動の言葉が山無しであり、山梨に転じたのであるというのである。
 さらに、山梨は〃山ならし″の転誰であるという説もある。甲府盆地は、「神々のカによって開拓され、地ならしがされた」という考え方である。
 とにかく、甲斐の国では奈良朝時代から山梨の郡が中心であった。国府(春日居)、国街(一宮)そして国分寺(一宮)も置かれたし、大化改新後の条里制がひかれると、一条荘はいまの甲府付近に置かれた。
 やがて荘園時代に入る。甲斐の武士団の黎明であるが、それでも荘園は国府を中心に四方に散らばり、甲斐の国政は形式的ながら国府の手に握られていた。                               
 ところが、長元四年(一〇二二年)に源頼信が甲斐守に任ぜられて、甲州と源氏の深いつながりがはじまる。頼信は清和天皇の皇子貞純親王の子経基王の孫である。いうなれば頼信は清和源氏の直流であるが、その子が頼義、孫が義家と義光。わかりやすくいえば八幡太郎義家と新羅三郎義光である。
 この新羅三郎義光も甲斐守に任ぜられた。「甲斐国志」によると、「相伝う、若神子は新羅三郎義光の城蹟なりという」と述べている。若神子は現在の北巨摩郡須玉町の中心集落から釜無川を控えた要害の地へ移ったということになる。
 義光から四代目の源太郎信義は、若神子の城よりひとまわり大きい城を釜無川の西岸武田村に築いて移った。「甲斐国古城跡誌」には、北巨摩郡武田村に武田城の跡がある。石垣の長さは三、四町ほどであろう。この城跡には菱形の芝が生えている、という意味のことを述べている。この場所は現在の韮崎市神山町武田で、土地の人は″桜の御所″とか〃お屋敷”と呼んでいるが、そういうだけで城の跡ははっきりしない。だが、武田家にとっては大変由緒のある土地で、この城へ移ると同時に信義は武田の姓を名乗っている。                          
 だが、武田城は信義一代きりで、その子信光は石和に館を築いて移った。再び笛吹川のほとり、というより甲斐のまん中へ戻ったと見るべきであろう。武田家はここで十五代を過ごし、永正十六年(一五一九年)信虎が古府中城跡躇ガ崎館へ移り、信玄、勝頼と、武田家の最盛期と終末期を迎えることになる。
 最盛期とはもちろん信玄時代であるが、NHKの「甲州風土記」は、
「甲州には信玄伝説というのがある。武田の話となり、信玄の話となると、どうしてこんなに山梨県人は観念的になるのであろう。山梨にはじめて入った人が必ず聞かされる言葉に----人は城、人は石垣、人は濠----の一首がある。信玄は六報・三略・孫子・呉子などの支那学に心酔していたようであるから、こうした信玄の歌といわれるものが生まれてきたことは、うなずかれるが、いきなり「信玄は城をつくらなかった」というふうに展開して物を見てしまっては、郷土史の解明はつかない。」
 と述べ、「甲陽軍鑑」の研究家吉田豊氏は、
「信玄は父信虎を追放してから、西上の途中に死ぬまでの三十二年間、絶へず甲州の外に軍を動かし、甲州国内には一度といえども敵の侵入を許さなかった。これは信玄の積極戦略の反映であると同時に、領民の支持を受けているといふ自信、国の周辺がすべて天然の瞼路でさえぎられ、甲州一国がさながら一大城郭とも云うべき条件によるものであった。」
 と、書いている。
 皮肉な見方をすれば、信玄はひそかに苦笑いをしていたかもしれない。「人は石垣、人は
 濠」といえば、軍団は鼓舞され、士気は高まる。が、信玄自身にとっては、「山は石垣、川は濠」といいたいところだったのである。
 山は、南の富士連峰を始め、北西に延びる日本アルプス、北東に大手を拡げる関東山地、まさに万丈の石垣である。

そして川は、富士川、上流の釜無川、支流の笛吹川、激流岩を噛む大濠である。この山々の尾根と川岸の断崖に城を築き、砦と蜂火台でこれをつなげば、一兵たりとも敵を甲斐の国へ入れることはできない。信玄はそう確信していたにちがいない。


 実は数多くの城を築いている信玄 「川は見ていた」島田一男氏著より


 では、まず釜無川沿いに上流から、信玄ゆかりの主な城をいくつか拾ってみよう。
  • 蔦木城(北巨摩郡白州町武川)(?)

文字通り甲信国境の城である。眼下に釜無川が流れ、対岸に向かって右側は山梨県の小淵沢町であるが、左側は長野県の富士見町である。信玄は武田衆十二騎(?)の一人葛木越前守にこの城を護らせていたというが、いまは雑木林に包まれた丘陵である。

  • 笹尾城(北巨摩郡小淵沢町下笹尾)
 武田家の勇将笹尾石見守の居城といわれる。大門岳口、諏訪国警備に重要な拠点である。
  • 教来石城(北巨摩郡白州町)
 武田二十四将の一人、馬場美濃守の居城。「北巨摩郡誌」 に「西方台地に城址あり。陣場、追手、裏門、御城坂いまなお残れり」とある。
○ 中山城(北巨摩郡武川村三吹)
 三吹の西方、釜無川を見下ろす中山の項上にあり、広さ一五〇平方メートル、甲州の要衝として武川衆が守備していた。
 あまりだて
  • 甘利館(韮崎市旭町上条北割)

現在甘利山大輪寺の境内が旧城跡。東西一五〇メートル、南北約三五〇メートル。

  • 鍋山城(韮崎市神山町鍋山)
 二十四将の一人穴山梅雪の居城とされている。すぐ目の下を釜無川が流れている。
  • 勝山砦(北巨摩郡双葉町宇津谷)
 信玄自ら指揮して築いたと伝えられている。釜無川と塩川の合流点の東側にあった。
  • 金丸城(中巨摩郡八田村徳永)

城跡はいま長盛院の境内。「中巨摩郡誌」によると武田十二人衆の一人金丸筑前守の居城。釜無川が甲府へ最も近づく地点に当たっている。

  • 秋山城(中巨摩郡甲西町秋山)

釜無・笛吹合流点の西側に当たり、二十四将の一人秋山信友の所領。現在は熊野神社の境内。

 つぎに、笛吹川が戦略上どのように重要視されていたか、これも上流から眺めてみよう。
  • 荻原城(東山梨郡三富村下釜口城山)

武田家の臣荻原常陸介が守った城。蜂火台もあり、秩父連山雁坂峠方面に対する最前線の城であった。笛吹川の西側断崖上である。

  • 浄居寺城(東山梨郡牧丘町城古寺)

笛吹川に臨む窪平からわずかに入った要害の地。武田家の将大村但馬守がこの城を護り、武田家滅亡に際しては、勝頼自刃後も徳川勢と戦い続け、玉砕している。

○ 平城(塩山市下萩原)I笛吹川の支流重川の断崖を利用した要害城であるが、現在は空濠の跡がわずかに残るのみ。二十四将の一人三枝守友が入城していたと伝えられる。
○ 栗原館(山梨市栗原) 
 武田の一族栗原左衛門尉信盛が死守して徳川勢と戦ったが、勝頼白刃と知って降服し、家康につかえた。笛吹川の東、甲州街道の要衝であったが、現在は土塁と空濠の一部を残しているのみ。
  • 春日館(東入代郡石和町)

笛吹川に臨む東広岡というところにあると「甲斐国志」は述べている。二十四将の一人高坂弾正があずかっていた。

  • 勝山城(東入代郡中道町上曾根)
 笛吹川の東に饗えていた山城。築城は古く、信玄以前に武田家はこの城に拠ってたびたび敵を防いでいる。また信玄亡きあと、甲斐に侵攻した家康はこの城の重要性を考え、服部半蔵に命じて伊賀組をもって守らせたという。笛吹川の渡し場に近く、天守台の地名が残っている。
  • 一条城(西八代郡三珠町上野)
 信玄の弟一条右衛門大夫の居城。徳川勢とよく戦ったが力及ばず落城した。笛吹川と釜無川の合流点に近く、よくその地形を利用し、北は絶壁である。現在、馬場、門前、物見塚などの地名を残し、本丸跡には牛頭天王の社がある。


実は数多くの城を築いている信玄 「川は見ていた」島田一男氏著より 富士川の本流、釜無・笛吹合流点から下流


  • 下山城(南巨摩郡身延町下山)
 合流点に近い富士川の西岸。「甲斐国古瀬跡誌」 には、下山城は五丁四方ばかり。屋敷跡一カ所。右は穴山梅雪陣屋跡と申候、と記載されている。
  • 帯金城ハ南巨摩郡身延町塩の沢)
 富士川の東岸で、本城坊という山を利用して築城されたという.代々帯金氏が護っており、信玄時代は帯金兵部介が入城していた。
  • 南部城(南巨摩郡南部町南部)
 要害の山城であった。東に富士川、北には支流船山川、南にも支流戸栗川が流れている。初めの築城は後に奥州へ移っていった南部氏であるが、信玄時代は穴山氏が守将となっている。現在、木戸と呼ばれている地点がかつて城門のあったところといわれている.
  • 福士城(南巨摩郡富沢町福士)
 二十四将中の名将原大隅守の居城といわれているが、記録も残らず、城跡もはっきりしない。
 以上の二十城は、「日本城郭全集」 「笛吹川」 「甲州夏草道中記」その他に記載されているものの中から選んだ甲州の代表的古城であるが、信玄はこの五倍以上の城、館、砦を構築している。
 富士川の本支流沿いに並んだ古を数える城塞は、一発の蜂火によって、たちまち全領内に敵の動静を伝えたにちがいない。
 あるひとはいう、城には角櫓というものがあり、出丸というものがある。信玄公にとって富士川沿いの城は、椿や出丸に過ぎなかった。「人は石垣、人は濠」の歌は決して嘘ではないと。 信玄伝説を信じている人々、信玄びいきの人々のイメージを、むきになって打ちこわす必要はない。


  信玄が初陣をかざった瀬沢の地 「川は見ていた」島田一男氏著より


 「天文十一年壬寅二月中旬に、信濃の国の大身衆、小笠原長時、諏訪頼重、村上義清、木曾義康殿、尽く申合せ、甲州武田晴信公、退治いたすべきとの評議の事、甲府へ聞こえ、武田の家老、板垣信形、飲富兵部、甘利備前、諸角豊後、原加賀守、日向大和守、其外皆々家老衆、足軽大将、弓矢功者の武扁者、打寄り談合仕る。」
 「甲陽軍鑑」天文十一年の項の書き出しである。信玄(晴信)はその前年天文十年(一五 四一年)六月十四日に父信虎を甲州から追放して、自ら甲斐の大守となっているから、十一年 二月中旬といえば、信虎追放からわずか入力月後のことである。時に信玄は二十二歳。
 甲州周辺の豪族四氏は、武田家の内部紛争に乗じて、一気に甲州を攻略しょうと協議を続けていた。これが、信玄が甲州の実力者となって最初の合戦となった瀬沢の戦の発端である。
 信玄の前に集まった老臣・重臣たちは、協議の結果、隣国の大々名今川義元に応援を求めること、甲斐国内、つまり本土決戦を行なうことを進言したが、信玄は首を横に振り、忍びの者三十人を敵側に放って情報を集めると同時に流言を流させた。信州諏訪の豪族諏訪頼重たち四人はすっかりこの謀略にひっかかってしまい、甲信国境瀬沢に一万数千の軍
兵を集め、三日間の休養を命じた。
 このことは、即刻忍びの者から信玄へ報らされた。天文十一年三月八日、春の遅い富士見高原には、やっと梅の花が開き始めていたという。                                      
 信玄は直ちに全軍に進発命令を下し、一隊は韮崎方面に、一隊は釜無川を渡って武川方面へと向かわせた。兵力は二隊合わせて八千であった。敵の半数である。
 甲州勢の奇睾攻撃は、翌九日の朝、川霧が晴れるのと同時に敢行された。それから、六時間。兵をまとめては突ッ込み、まとめては突ッ込む。甲州側は九回にわたって突撃を繰り返し、連合軍側の戦死者実に千六百二十一人、負傷数知れず。信玄は大守とし、最初の戦いに大勝利をおさめたが、このため瀬沢付近は一面血の海と化し、その後しばらくの間は血ガ原と呼ばれたという。「信州せさわ(瀬沢)合戦とは是也。信玄公二十二歳の御時なり」と「甲陽軍鑑」は結んでいる。


 甲信ルートの要衝だった小淵沢 「川は見ていた」島田一男氏著より


 その瀬沢の前から国界橋をくぐると、釜無川はいよいよ山梨県の川になり、東側に小淵沢町、西側は白州町となるが、この二つの町民の釜無川を見る目がまったく違っている。
 白州町は釜無川がなければ生きていけない。灌漑用水、飲用水など八○パーセントまで
は釜無川の水に頼っています、と、町役場ではいう。ここの米はうまい。また養蚕は江戸時代からの換金農業である。その稲も桑も釜無川の水が育ててくれる。                            
 と同時に役場では、「釜無川は恐ろしい川です」ともいう。白州とは、白い花崗岩質の
赤石山脈から流れ出た釜無川の支流流川、濁川、田沢川、尾白川の扇状地帯にできた町。
白い洲の町で白州という町名が生まれたのであるが、これらの川はいずれも二〇〇〇メートルから一二〇〇メートルの山岳地帯から直滑降で流れてくる川丈の短い急流であり、一度台風や集中豪雨に見舞われると、たちまち大量の水を母川の釜無川へ吐き出して増水し、しばしば逆流する.
 しかも対岸は入ガ岳の麓から韮崎まで軽々と続いている七里岩の断崖である。釜無川の水はすべて白州町側へ溢れてくる。
「早い話が、生きるも死ぬも釜無川次第ということになります。」
 そういう白州町に比べて対岸の小淵沢町は釜無川に対して極めて冷淡である。七里岩の台地にある関係上水害の心配はない。また、農業用水は全部入ガ岳の水系から取り入れ、飲用水は伏流水をポンプアップしている.
「したがって、わが方の観光施策は八ガ岳一本槍です。このごろは国界橋近くの東電の取り入れのため釜無川は流量もへり、水は濁り、アユもあまりかかりませんからなァ。」
 小淵沢町役場の観光課は釜無川に何の関心も示さないが、それは今日の考えかたであり、少なくとも釜無川をわが城郭の濠と考えていた信玄の判断は違っていた。その証拠は、輩崎から小淵沢へ出で、つぎに甲信国境を越えて釜無川右岸の蔦木へ通じる道は、むかし″中の棒道″と呼ばれ、信濃攻略のために信玄が築いた軍用道路であり、この道のために小淵沢領交通の要衝として、現在とは比べものにならぬにぎわいを見せたのであった。
 もし、釜無川という外濠、七里岩という石垣がなかったとしたら、信玄は別の作戦道路を考え、〃中の棒道″も存在しなかったかもしれないし、小淵沢という町も、入ガ岳山麓の単なる小集落に終っていたかもしれない。
 戦略家信玄は、さらに対岸教来石(白州町)に築城して勇将馬場美濃守を主将として配置している。対信州作戦上、彼が〃中の棒道″をいかに重要視していたかがうかがえよう。教来石は、その上、日本武尊が東征に際して足をとどめたところであり、その北五〇〇メートルの山口には徳川時代番所が置かれている。
 いずれにしてもこのあたり、八ガ岳山塊と赤石山脈に挟まれ、釜無川沿いの狭い平地は甲信二カ国を結ぶ重要な交通路であったわけであるが、むかしの信州往還はいま国道二十号線となり、往来する車は凄まじい数字を示している。
 この釜無川に沿った国道は、教来石から白州町の中白須、武川村の牧原、韮崎市郊外の円井を経て穴山橋で釜無川を渡り七里岩の下へ出る。途中、白須の台ガ原は王朝時代甲斐の黒駒を育てた朝廷直轄の御牧の一つであり、その裏に聳える武川村三吹の中山は武田武川衆が立てこもった山城の跡、さらに円井には釜無川西岸に一千ヘクタールの新田を潅漑した徳島堰の取入口、少し離れて三吹(武川村)万休院の舞鶴松、山高(武川村)の日空の神代桜など、たずねるに足る名所・旧蹟・名物は多いが、国道を突ッ走る車はとまらない。いや、止まれというほうが無理かもしれない。車の大半はトラック。しかも釜無川の砂利を満載している車が目立つ。
 穴山橋を渡り、環状式になった舗装道路を辿り、七里岩の上に登ると穴山(韮崎市)の町である。ここから、武田家滅亡の悲話を残す新府城跡は近い。
 七里岩は、標高五〇〇メートルであるが、西側の釜無川側は文字通り切り立ったような絶壁で、釜無川の水が黒くよどんで気味が悪い。東には釜無川の支流塩川が流れ、これまた川岸は断崖である。北は入ガ岳の山魂、南は釜無・塩川の合流点。まさに天下の要害といえよう。

江戸時代の江の島 寛政8年 1796

馬場美濃守の末裔 馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)

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馬場美濃守の末裔 馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、

馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム。其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ。元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ、善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 

 自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談 

 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。
 馬場ほの氏の夫、祖三郎氏は養子で、白須から甲府市に移り開峡楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取ったこの屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏が他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に写された。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。

 筆註…
この馬場祖三郎氏白州の土地は現在の白州町診療所などのある一帯で国道を挟んで存在していた。現在は土地の持ち主は分散している。又少し離れた場所に若宮八幡神社をはじめ北巨摩一円の神社の神主を務める石田備前の屋敷地もあった。国道が通る前は現在の白須上公民館の付近も石田備前の屋敷地であり、当時の石田備前の勢力は大きく、白州一帯や小淵沢の神社の神官であった。この白須地方は古くは「白須氏」の治める地域で、武田時代にこの地域を一時治めた馬場美濃守信房と縁を通じて以後、白須氏を名乗りながらも馬場氏の後裔として現在はその殆どが富士吉田地方に移住されている。現在白須氏は富士吉田方面に多数見える。

 
開峡楼主人 馬場胆三郎氏(甲府市)
 
甲州の誇りとする、奇骨の名画伯、三枝雲岱翁の第三女をその母とする馬場氏は北巨摩熱見村(現在北杜市高根町)の旧家細田家(現在も遺構の一部があり、自家の神社も現存する)に生れた人、山田斉嘉氏の三男で明治六年一月十八日生れ、三十八年六月に馬場山三郎氏の養子(娘、ほのさんと結婚)となり、大正三年七月家督を相続したもので、先代より料理業を継承して開峡楼と称し、以来内外の装備を一新し県下屈指の大料理店として押しも押されもせぬ第一流であることは人の普く知るところである。大正六年甲府料理業組合の設立さるや推されてこれに取締役となり、大正十五年組合の改組成りて今日の組織となるや組合長に推されて組合強化の為に大にその力を発揮し、協調的の有力なる人材として業界に重きを為したことも人の知るところである、望仙閣や甲府市の三大料理店の名脈を甲府の内外に博したる家、然も各特色あり、開峡楼は揺るぎなき一流である。近年開峡楼の本館に続いて横町の繁華街に沿って洋館の大ホールを作り、王突の設備も之を完うしたる上、洋食に於いては正に県下一の誇りを謳歌されている事も亦一般の知る所であって、観光都市としての甲府市の繁栄上から見るも大甲府市実現に伴う優秀なる存在として開峡楼こそ正に共名の如く大料理店である、而して氏は業界の秀峯として活躍される。
 

源頼信

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源頼信
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。
 
頼信の子頼義もまた父に劣らず、平安時代中期における名将の誉れ高き武将であった。さきの忠常の乱では父を補佐し、その後、天喜五年(一〇五七)には嫡子義家とともに陸奥へ遠征して安倍頼時を伏誅、さらに康平五年(一〇六二)には頼時の子・貞任、宗任兄弟が反乱を起こしたため、鎮圧に向かい、まず貞任を厨川柵で減滅し、ついで宗任を降伏させるなど奥州十二年合戦ともいわれる「前九年の役」で軍功をあげている。そして父と同じく甲斐国守に任ぜられ、こうして父子二代にわたる声望は甲斐国はもとより東国各地の在地小領主層に大きな信頼をかち得るところとなり、東国地方におる源氏の地歩を確立、その威勢はつとに高まった。この頼義の第三子が義光なのである。

甲斐源氏 源義光

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甲斐源氏 源義光
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
義光は、はじめ左兵衛尉に任ぜられ、のちに刑部丞、常陸介、甲斐守を経て刑部少輔.従五位上に至り、大治二年(一二一七)十月二十日、七一歳で没した。一説には同年八三歳の高齢で没したともあり、これで逆算すると寛徳二年(一〇四五)後冷泉天皇践柞の年の出生となるが、このあたりは定かではない。義光の墳墓は近江霞・天台寺門派の総本山、長等山園域寺の北方、新羅善神杜手前に土饅頭式の立派な墓があり、「先甲院殿峻徳尊了大居士」と諡されている。この義光が左兵衛尉のとき「後三年の役」が起こり、兄義家が清原武衡・家衡を相手に苦戦していることを知るや、官奏して東下りを乞うたが許されなかったため、已む無く自ら官を辞して奥州に下り、義家を援けて乱を平定した。この功により刑部丞、やがて甲斐守に任ぜられるのである。
義光の甲斐園司受領については『尊卑分脈』や『武田系図』に、その記述のみられるところではあるが、その年次については、いま一つ確証を欠いている。これについて佐藤八郎氏は『韮崎市史』のなかで『本朝世紀』『為房卿記』などによる考証として、義光の甲斐守在任期間を「嘉保三年(一〇九六)から康和元年(一〇九九)までの一期四年間と論推されている。
義光の甲蓄守在任中の居館跡と伝えられているのは大城、またの名を「若神子城(北巨摩郡須玉町若神子)というが、義光の甲斐守叙任による甲斐国土着についての確たる史料の存在は認められない。ただ『甲斐国志』古跡部には「相伝フ新羅三郎義光ノ城蹟ナリト云フ、村西ノ山上ニ旧塁三所アリ云々」と記されているが、上野晴朗氏はその著『甲斐武田氏』のなかで、このことに触れて「若神子は上代の逸見郷一帯の中心であって、その初期はこの地方の上代の豪族逸見氏の旧領であり、ここを義光が根拠にしていたのではないかと推定される」としている。『国志』並びに『正覚寺伝』によると、同所にある曹洞宗の古刹陽谷山正覚寺は、義光の子義清が父の菩提を弔うために建立した寺と伝えており、同寺には義光の牌子を置いている。

大菩薩峠の伝説
義光の武勇にまつわる伝説は、さきの足柄山吹笙伝授のほかに、奥州への道を急ぐ義光たちが大菩薩山中で濃霧のために道にまよっていたのを白髪の老農夫が峠まで案内役をつとめてくれ、礼をのべようとしたら霧の中に源氏の旗印しである八旗の白旗のひるがえるのを見て、これぞ軍神の加護であると思わず南無八幡大菩薩と唱えた。これにより大菩薩峠と名付けられたという説話(『東山梨郡誌』)があり、さらに『口碑伝説集』には幼少時の義光が父頼義に伴われて新羅明神を参拝した際、神官が立派な御子に成長するよう祈願した折、白綾に花菱文様の織り込んだ打ち敷布を与えられたことからこの花菱紋がのちに武田家の定紋になったという伝説も伝えられている。いずれも源氏礼讃から生まれた説話であろう。

甲斐源氏 源義清

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甲斐源氏 源義清
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。

さて、義清は新羅三郎義光の第三子で、刑部三郎・武田冠老と号した。『吾妻鑑』には安田冠者とも記している。刑部三郎とは刑部丞義光の三男ということであり、『武田系図』などによると、義清は承保二年(一〇七五)四月の生まれとなっている。『小笠原系図』には近江国志賀御所で出生したとある。四九歳で出家し、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没したとある。しかし義清開基の若神予・正覚寺の牌子には法名を「正覚寺殿陽山清公大居士」、久安元年の没としており、その没年に四年のずれがある。長兄は刑部太郎・相模介と号する義業(常陸.佐竹氏祖)であり、弟に刑部四郎・平賀冠者盛義(信濃・平賀氏祖)らがいる。

甲斐源氏武田の発祥地 常陸国那賀郡武田郷

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甲斐源氏武田の発祥地 常陸国那賀郡武田郷
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。
義清がはじめ武田冠者と号したのは、さきの任地が常陸国那賀郡武田郷に拠ったからであるとされ、一子清光とともに常陸国三の宮の神領を犯して濫行したことにより甲斐国へ配流された。ここで武田氏の出自は常陸・武田郷よりの発祥説が生じているのである。ただ常陸国における義清.清光の父子濫行説については、義清の甲斐入部を天永年間とし、また清光の出生を天永元年とした場合、年代的に合わないことにもなるのであるが、いずれにしても、この義清が甲斐源氏のなかで最初に甲斐に土着した人物(磯貝正義氏著『武田信玄』)と目されているのである。義清の甲斐入部は平安時代後期の天永年間(一一一〇~一一一五)ごろと推定されており、はじめ市河荘・青島荘の下司として市川・平塩岡(市川大門町)に居館を定めた。のちに逸見の地へ移り、大八幡・熱那・多麻などの荘園を掌握し甲斐源氏の基盤を築いた。義清がのちに逸見冠者と称したのはこのためであろう。
ところで、この義清が甲斐に入国したのは國司としてではなく、前述のよう常陸國における濫行の罰を蒙って流罪されてきたという説の一つの根拠となっているのは、
「尊脾分脈」に「配流甲斐国市河庄」と記されていることからであるが、
これに対して、「二ノ宮系図」は「甲斐ノ目代青島の下司」として入部したと記されている。
「甲斐国志」も古跡部で「義清流罪説」に疑問を投げかけており「京師ヨリ出デ外土ノ宰トナルヲ左遷、左降トイフ、義清初メ官ヲ授カリ市川ノ郷ニ入部シタルヲ誤リテ、京師ヨリ遷サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ、「二宮系図」ニ、甲斐ノ目代青島ノ下司トアルヲ得タリトス、即チ市川ノ下司カ云々」
と記して流罪説には否定的である。

甲斐源氏 源義清

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甲斐源氏 源義清
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
さて、義清は新羅三郎義光の第三子で、刑部三郎・武田冠老と号した。『吾妻鑑』には安田冠者とも記している。刑部三郎とは刑部丞義光の三男ということであり、『武田系図』などによると、義清は承保二年(一〇七五)四月の生まれとなっている。『小笠原系図』には近江国志賀御所で出生したとある。四九歳で出家し、久安五年(一一四九)七月二十三日、七五歳で没したとある。しかし義清開基の若神予・正覚寺の牌子には法名を「正覚寺殿陽山清公大居士」、久安元年の没としており、その没年に四年のずれがある。長兄は刑部太郎・相模介と号する義業(常陸.佐竹氏祖)であり、弟に刑部四郎・平賀冠者盛義(信濃・平賀氏祖)らがいる。
甲斐源氏武田の発祥地 常陸国那賀郡武田郷
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。
義清がはじめ武田冠者と号したのは、さきの任地が常陸国那賀郡武田郷に拠ったからであるとされ、一子清光とともに常陸国三の宮の神領を犯して濫行したことにより甲斐国へ配流された。ここで武田氏の出自は常陸・武田郷よりの発祥説が生じているのである。ただ常陸国における義清.清光の父子濫行説については、義清の甲斐入部を天永年間とし、また清光の出生を天永元年とした場合、年代的に合わないことにもなるのであるが、いずれにしても、この義清が甲斐源氏のなかで最初に甲斐に土着した人物(磯貝正義氏著『武田信玄』)と目されているのである。義清の甲斐入部は平安時代後期の天永年間(一一一〇~一一一五)ごろと推定されており、はじめ市河荘・青島荘の下司として市川・平塩岡(市川大門町)に居館を定めた。のちに逸見の地へ移り、大八幡・熱那・多麻などの荘園を掌握し甲斐源氏の基盤を築いた。義清がのちに逸見冠者と称したのはこのためであろう。
ところで、この義清が甲斐に入国したのは國司としてではなく、前述のよう常陸國における濫行の罰を蒙って流罪されてきたという説の一つの根拠となっているのは、
「尊脾分脈」に「配流甲斐国市河庄」と記されていることからであるが、
これに対して、「二ノ宮系図」は「甲斐ノ目代青島の下司」として入部したと記されている。
「甲斐国志」も古跡部で「義清流罪説」に疑問を投げかけており「京師ヨリ出デ外土ノ宰トナルヲ左遷、左降トイフ、義清初メ官ヲ授カリ市川ノ郷ニ入部シタルヲ誤リテ、京師ヨリ遷サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ、「二宮系図」ニ、甲斐ノ目代青島ノ下司トアルヲ得タリトス、即チ市川ノ下司カ云々」
と記して流罪説には否定的である。


甲斐源氏 逸見冠者 黒源太清光

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甲斐源氏 逸見冠者黒源太清光
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他
一部加筆。
甲斐入部の義清がはじめに市河の荘平塩の丘に居を構え、甲斐源氏の勢力拡大につとめて実質的に甲斐に根を下ろし、名実とも在地豪族としての姿をはっきりさせた義清こそが、甲斐源氏の実質的始祖であると見るべきであるかもしれない。
やがて義清逸見荘へ進出、勢力拡大していくことになるが、これは父祖の頼信、頼義、義光と受け継がれた遺産ともいうべき八ヶ岳南麓開拓を継承するものであつた。この義清の嫡男が逸見冠者黒源太と号する清光なのである。
清光は天永元年(一一三〇)六月十九日、市川・平塩岡の居館で生まれている。母は上野介源兼宗の女であるという。
清光誕生のころは、父義清が八ケ岳・逸見荘一帯へ勢力伸長を図っていたころであろうと考えられる。清光が号した黒源太とは源氏の嫡家で使われた嫡男の通称であり、逸見冠者と称したのは、のちに渚光が峡北地方逸見荘の経営に当たったからである。
逸見荘は塩川の上流、八ケ岳南山ろくに開けた台地一帯という地形的にも恵まれ、古代からの甲斐三官牧(柏前・真衣野・穂坂の御牧)や小笠原牧に近接している上に、信濃の佐久や諏訪地方へ通ずる交通上の要衝でもあった。清光が逸見荘経営の本拠地居城と定めたのが谷戸城であったとされるが、大八田(長坂町)の『清光寺伝』によれば、義清により逸見荘の荘司として経営を委された清光は、初め祖父以来の居館であった若神子館にほど近い津金海岸寺続きの眺望のよい小丘に「源太城」を構築したが、あまりにも荘園の端に位置するため、八ケ岳を正面として逸見台地を一望にできる谷戸に城を築いたのが谷戸城であるという。
八ヶ岳
城は八ケ岳の南山ろく、西寄りに位置しており、『吾妻鑑』治承四年(一二八○)九月十五日の条にみえる「逸見山」に比定されている。別名を茶臼山、近世では城山とも呼ばれている標高八六二メートルの独立した丘陵である。
俗説によると、清光が谷戸築城当時、八ヶ岳の発砲に権元竹・小岳・関岳・麻姑岳・風の三郎岳・編笠岳・三ツ頭・松ケ岳などと命名、この松ケ岳に雷神又は石長姫命を祀ったという。これは甲斐源氏初期の武将である清光の功績を称賛、憧憬から後世になって語られるようになった逸話であろう。本来は仏教による山岳信仰の影響によるものと考えられており、旧権現岳の檜峰神杜に祀られた八雷神が八峰の由来といわれる。
『甲斐叢記』清光院円光院
江戸時代中期の『甲斐叢記』では、富士山の祭神である木花咲耶姫命を美の象徴とし、醜い石長姫命を八ケ岳にたとえたとされている。のちの戦國時代、武田信玄が甲府は「府中五山」(一般的に甲府五山ともいう)を定めるが、このうち正室三条氏の菩提寺となった甲府市岩窪町の瑞巌山円光禅院は、そのもとは八代郡小石和郷(石和町富士見)の清光院と称し、逸見清光が草創した浄土宗系寺院であったと伝えられている。清光院はのちの室町時代中期、武田刑部大輔信守が修復、外護の手を差し延べて六角山成就院と改め、更に甲府へ移されて円光院となった。

『甲斐叢記』 清光院→円光院

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『甲斐叢記』 清光院円光院
江戸時代中期の『甲斐叢記』では、富士山の祭神である木花咲耶姫命を美の象徴とし、醜い石長姫命を八ケ岳にたとえたとされている。のちの戦國時代、武田信玄が甲府は「府中五山」(一般的に甲府五山ともいう)を定めるが、このうち正室三条氏の菩提寺となった甲府市岩窪町の瑞巌山円光禅院は、そのもとは八代郡小石和郷(石和町富士見)の清光院と称し、逸見清光が草創した浄土宗系寺院であったと伝えられている。清光院はのちの室町時代中期、武田刑部大輔信守が修復、外護の手を差し延べて六角山成就院と改め、更に甲府へ移されて円光院となった。

甲斐源氏と谷戸城

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甲斐源氏と谷戸城
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
谷戸城は古城跡として山頂部の中郭部(一の郭)をはじめ中腹の東西両郭(二、三の郭)、更に土塁などの遺構が存在しており、往時を偲ばせるものがある。
『甲斐国志』古跡の部「谷戸ノ城跡」には、次の記述がある。
「山ノ高サ数十丈、北ハ八ガ岳ノ麓ツヅキ、東ニ泉川流レ、西ニ町屋トテ人戸アリ。南ヲ城ノ腰ト云フ。山足ヲスベテ城下ト唱へ御所村ト呼ベリ。本丸方五、六十歩、ニノ丸・三ノ丸曲折アリ。溝塁粗々存ス。逸見郷ノ中ニ最モ高キ処ニテ数里ヲ下視スベシ。遠ク望メバ茶臼ノ形ニ似タリトテ茶臼山トも名ヅク。スベテ城跡ヲ茶臼山ト呼ブコト諸州トモニ多シ、土中ヨリ兵器・鉄具等ヲ獲ル事アリ(中略)古伝ニ逸見源太清光、此ノ城ニテ建久六年六月ヨリ病ミ、正治元年六月十九日逝ス。乃チ城内ノ鎮守八幡宮へ配祀シ開源明神ト号ス(後略)
この谷戸城は村指定の史跡となっているので、更に詳細に紹介しておくことが必要と思われるので、やや長文になるが、参考となる『日本城郭大系』(新人物往来社刊)より城郭の実測を引用しておきたい。
『日本城郭大系』
山頂にある中郭部は東西三〇メートル、南北四〇メートルほどの三角形に近い形態をもち、周囲に高さ二メートルから○.五メートルの土塁を有している。この土塁の外側には、また土塁があり、東西にふくらんで、それぞれ東西に郭を形成している。東側の郭(二の郭)は東西三〇メートル、南北六〇メートルほどあるが、土塁に沿って帯状の窪地がある。
土塁(b)もこの付近では高くなっている。また、西側の郭(三の郭)は幅一五メートルほどの帯状の平坦地であり、二の郭が一の郭と同じ高さであるのに対し、この三の郭は一段下がっている。土塁の北側には土塁が並行して存在するが、その外側には東西四〇メートル、南北五〇メートルほどの平坦地があり、ここに四の郭を想定できる。さらに土塁の東側一段下がった所に幅五メートルほどの平垣部(腰郭)が土塁との間から延びてきている。この腰郭の東南には、東西二五メートル、南北二五メートルほどの平坦部(五の郭)がある。城山の南斜面には、数段の帯郭があり、なかでも中ほどにある帯郭は東南端から南斜面をめぐって西斜面を取り巻いている。西斜面には幅二~三メートルの帯郭が三段連なり、その下の西南端には一〇メートル四方の平垣部がある。城山の西麓に「町屋」という字名をもつ所があるが、これも郭と考えられる。ここに数戸の人家があるが、西側の西衣川沿いには土塁も残っている。城山の北麓、四の郭の北には一段下がって空堀と土塁がある。東麓には、幅一〇メートル、高さ一メートルほどの北側から続くと思われる帯状の遺構がある。この遺構から内側は窪地となり、窪地を越えると四の郭へ登る道が北へ回りながら上っている。城山の南東端で、五の郭の下に小さな堅堀とも考えられる溝が斜面を下がっている。外郭施設として、町屋の南から北へ上がる堀、城山の西に突き出た尾根を切断する堀なども想定できる。谷戸城のある山頂からの周囲の眺望はパノラマ状に展開されており、東に朝日山砦・源太ケ城、南に深草館・新府域が見え、遠く甲府盆地までも一望にできる。しかも背後には雄大な八ケ岳連峰が東西になだらかな裾野を大きく広げており、天王山、観音平の蜂火台を望むことができる。

甲斐源氏と清光寺

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甲斐源氏と清光寺
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第一節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
清光の菩提寺となっている長坂町大八田にある朝陽山清光寺は、同寺伝によると仁平元年(一一五一)、清光が谷戸城の近くに帰依する僧宗甫阿闇梨を招いて墓言の道場信立寺を建立したのが始まりという。この道場がおよそ三〇〇年後の室町時代中期の文明七年(一四七五)、足利将軍義尚の時代に曹洞宗に改宗され、清光の二字をとって清光寺に改められた。清光は仁安三年(一ニ八八)、五九歳で谷戸城に没し、城の西麓に葬られ、法名を宗甫清光院というが、清光寺の前身である真言道場に建つ牌子には清光院殿玄源太公大居士とある。同所にあった五輪塔が移されて現在の清光寺本堂裏山にある目清光の没年には異説があり、『甲斐国志』や『清光寺系図』では仁安三年となっているが、同じ『甲斐国志』でも仏寺の条、清光寺の項では正治元年(一一九九)、ほかに建久五年(一一九四)、同六年説もある。

甲斐源氏武田信義、逸見光長

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甲斐源氏武田信義、逸見光長
資料『大泉村誌』「第三編大泉村の歴史」第二節甲斐源氏の勃興と谷戸城他一部加筆。
黒源太清光がすばらしい子宝に恵まれ、それぞれの子を逸見荘より国中地方へ進出させ、いずれも要衝を占有させて武力を培かわせたことが、鎌倉時代から室町時代の武田氏、更に室町末期の戦国時代に勇名を轟かせた、信虎、信玄、勝頼の〝武田三代"へと発展していくことにたるのであるが、甲斐國に拓げる武田の始祖となった信義と甲斐源氏本宗ともいうべき逸見茂を継いだ光長は、『尊卑分賑』によると「同日同胞の二児」となっており、しかも、ともに源氏の長男の称号である「太郎」を号しているところから、世にいう、「二人太郎」すなわち光長、信義は双生児であったとの説が生まれたのである。
『尊卑分賑』〈清和源氏義光流、逸見・武田〉の条によると、光長については「上総介、逸見太郎、母」とあるだけで、父母の素性等にはまったく触れておらず、一方信の項は「逸見冠者清光の子也、逸見太郎光長同日同胞二児出生、ヨッテ両人共、太郎ト号ス、逸見太郎光長ハ巳時、信義ハ午刻誕生」と記し、信義の場合についてだけ「母手輿遊女」と明記している。
この両者にかかわる記述から推して二人は同胞ではなく、その生母は別人であったろうと考えられるようになった。特に清光が光長に嫡家たる逸昆氏を継がせ、一方の信義には新領ともいうべき武田荘(韮崎市内)を与えている点を考えれば、明らかに光長は嫡出子としてその処遇を受け、信義の母は清光の側室推論するのも不自然なことではない。手輿は現在の静岡市手越で、往古は東海道の宿駅であった。当時、平氏・源氏が交替で京都内禁裏守護の任(大番制度という。ただし制度化されたのは鎌倉時代)にあったころのことであり、清光が大番出役で京に向かう途中、手輿の宿駅に立ち寄っていたとしても不思議ではない。のちに武威に優れる武田信義が本宗たる逸見光長を凌駕して甲斐源氏の指導権を握る存在となり、鎌倉幕府創設の最大の功労者となったことから、遊女所産という信義の譜に書き直しの作為があったのではなかろうか(広瀬広一氏『武田信玄伝』)と指摘されるようになった。
ところで光長、信義ともに出生年月の記述はなく不明であるが、『吾妻鑑』には「武田信義は後鳥羽天皇の文治二年三月九日、不遇なうちに死去した」と没年について触れており、また信義の菩提寺となっている韮崎市神山町・願成寺の寺記に「太公、文治二丙午年三月九目、武田ノ館ニテ悶々ノウチニ死去、享年五十九、遺骸ヲ寺内ニ収メ願成寺殿峻照國大禅定門トス」とあるところから、逆算すれば大治三年(一一二八)の出生とされ、また八月十五日誕生とする書もある。さきの『尊卑分脈』にある光長の出生が已時とあるのは現在の午前十時ごろの出生ということになる
逸見光長
甲斐源氏の本宗たるべき逸見氏を継いだ光長についての記録はほとんど見られず・わずかに『吾妻鑑』〈治承四年十月十三日の条〉に「(前略)また甲斐國の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く(中略)武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼信・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊沢五郎信光らは、富土の北麓若彦路を越ゆ。ここに加藤太光貞.同藤次景廉は、石橋合戦以後、甲斐国の方に逃げ去る」との記述があり、少なくとも光長は甲斐源氏の一員として源頼朝の源氏再興時に活躍していた痕跡を認めることができるのであるが、これ以後の消息を知るすべはない。
『甲斐国志』にも光長に関する確たる記述はなく、ただ『尊卑分脈』によると、光長の系譜には太郎基義(本名義経改め)、三郎義長(またの号深津四郎)、義俊(皇嘉門院判官代)、五郎保義らの子を記しており、逸見本家は基義より
惟義-義重-惟長-義隆-隆継-隆信へと受け継がれていったことを記している。
さきの『吾妻鑑』の記述に見られるように、甲斐源氏については武田信義、その子次郎忠頼(一条氏)らのあとに逸見光長の名をあげており、すでに甲斐源氏の本宗は逸見氏から武田氏に移っていたように受け止めることができる。光
長についての史料が見出せない以上、甲斐源氏の実権がどんな理由で信義の手に移ったかを知るよしもないところであるが、あるいは両者の武将としての素質の上で信義に一日の長があったからとも考えられる。研究者の間には智謀、統率力などの点で信義がはるかに光長を超え、総領職の座に着いたとの説もあるが、これとても推測の域を出るものではない。

蔚山戦図

関ヶ原の合戦

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