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武川村(町)の古代 

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武川村(町)の古代 

《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

真衣郷。
 律令制下の当村域は巨麻郡に属し,「和名抄」に見える真衣野郷の地に比定される。大宝令によって郡郷制が敷かれると,釜無川右岸流域,甘利沢左岸流域一帯に50戸を1郷とする真衣郷が置かれたと考えられる。郷名の真衣は牧を意味し、この地域が7世紀以前,すでに牧地であったことを物語っている。

当時,甲斐は郡31郷であったが(和名抄),牧地の名をもって,ただちに郷名としたところは当郷以外になく、78世紀にかけて甲斐国においての代表的な牧馬地域であったと考えられる。

このような産馬の実績が89世紀にかけての「三代格」や10世紀初頭の「延喜式」左馬寮式甲斐御牧の諸規定を生んだと推定される。真衣郷所在の牧馬地が左馬寮により官牧の称を与えられて真衣野御牧となり、八ケ岳山麓を牧地としたと推定される柏前御牧(一説には山梨郡に比定される)と合わせて年々30疋の駒を貢上することが定められた。
当村域に牧原の地名があるところから真衣野御牧の牧地の遺称と推定されている。

《真衣野御牧の貢馬》
真衣野御牧の貢馬は,毎年7,牧監以下が付き添って真衣郷を出発し,25日をかけて近江と山城の境、逢坂関に到着して出迎えを受け,都に入る。真衣野・柏前両御牧の駒は87日に献上され,この日,天皇は武徳殿に出て庭前を牧士が牽く駒のうち、最良の馬を選びとり,次々と親王、公卿に分かち、余りを左馬寮に下げ渡した.これが「駒牽の儀」で、平安初期の主要宮廷年巾行事であったが,律令制度の衰退に伴い寛治元年(l087)頃を最後に廃絶された。なお,「吾妻鏡」建久5(1194)313日の条に「甲斐国武河御牧駒八疋」が鎌倉に参着し,源頼朝がこの駒を京都に送ったことが見えている。「国志」は現在の牧丘町に比定しているが,古代の御牧の駒牽の伝統により,武河牧を真衣野御牧の後身と考えて当村域とする説もある(古代官牧制の研究)


武川町の歴史 中山砦(白州町・武川町)を守った人

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武川町の歴史 中山砦(白州町・武川町)を守った人
 
中山烽火台長 中山主衛頭義基 墓と系譜
 
武川町三吹にあるドライブイン奥にある、案内板と墓所(一部加筆)
 
中山家の祖先中山主衛頭義基は、甲斐国巨摩郡逸見筋現在の大泉村に生まれる。甲斐源氏武田家の家臣として若干十九歳より武士として戦乱の各地を転戦して数々の戦功を立てる。
特に天文十七年(1548)七月わが武田晴信、松本城小笠原長時を信濃の塩尻峠に破りし戦いはその功績抜群なりと上司より特賞を頂く。
されどどこの合戦に於いて足に三ケ所の傷を負い、歩行困難のために中山烽火陣地の台長を命ぜられる。
武田二十四将譜代の板垣駿河守、内藤修理・穴山梅雪・高坂弾正に我が上司武田騎馬隊長馬場美濃守信春(信房・白州町教来石出身)は武田五将軍として、勇将であり知将であった。
 この烽火陣地は大武川、尾白川、釜無川に囲まれた断崖絶壁の要害地として、信虎公(信玄の父)天文九年五月信濃佐久軍を攻略せし年代より、天正九年三月勝頼新府城築城まで、四十年間常に一千有余の精鋭が集結出来る体制を以って、甲斐防衛の秘密陣地であった。
祖先は甲斐防衛に当たりしが、足の傷が悪化したため家臣の戦病者三十二名と共に、永禄元年(今より四百五十年前)この地、武川及び逸見郷に農として隠棲した.士族決別の折、美濃守より祖先に鷹の羽の矢違い(台長つき)、他の三十一名に「鷹の羽の矢揃いを以って家敏にせよ」と仰せられ、累代継承している.
 農となりしも戦傷が良くならず、文に励み村人に書などを教え、余生を送りしが、惜しむらく四十七歳にて永眠する.
 郷上甲斐の為に戦いし祖先並びにその一族の霊安を願い、第十六代祖父三右衛門より伝承、記録として残す。           合掌
 
中山家 第十八代   三壽  
 
昭和四十五年春彼岸
 (昭和三十四年八月の土石流災害により家屋・田畑を流失しこの地を離れる)
 
 平成二十五年 五月 第十九代 寿文 所替(新装) 
 
 
武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984
 
『甲斐国志』の記述
『甲斐国志』古跡部に「中山ノ塁」の記述がある。いわく、「三吹・台ヶ原二村ニ在リ、其ノ裏ハ横手村ナリ、北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯ビタル孤山ノ嶺二四五十歩ノ塁形存セリ、半腹二「陣ヶ平」ト云フ平地、叉水汲場ト云フ処モアリ、麓ヨリ几ソ三十町許リノ阪路ナリ、三吹トハ釜無川・尾白川・大深沢川三水ノ会同スル故二名トス、台ヶ原ハ三吹ヨリ地面高シ、根古屋・古町・古屋敷・花水ナド云ウ地名アリ、又東ニ「甲斐国坂」」ト云フアリテ釜無川ノ灘へ下ル、花水橋・花水坂の隘目ハヽ古ノ公道ナレバ此ニ対セル亭候ナリ、天正壬午(10年)御対陣ノ時(徳川と北条)ハ武川衆コレヲ警固ス、「家忠日記」八月廿九日ノ条ニ、「武川ノ士、花氷坂二戦ヒ、北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」、トアリ云々
と。「中山塁」の塁の字は、制限漢字なので、いまは中山砦と記すことにする。記述の内容のうち、嶺に方四十五歩の塁形がある、と見えるが、事実は25メートル×90メートル、すなわち15歩に50歩の方が正しい。そこは、けわしく傾斜しているために、到底方形の塁砦を構築することはできない。しかし、中腹には平坦な広場があり、ここは陣地を構えたことがあり、それで陣ケ平といった。
水汲み場というのは、要砦直下の谷頭の涓滴のある場所で、勤番士の飲水の汲場である。
 天正壬午8月の北条勢と武川衆の交戦にあたり、武川衆諸士は、この中山砦の要害を遺憾なく利用して、敵勢を悩ましたことであろう。
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武川衆の居住地

武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984

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武川町(当時、村)中山砦発掘調査より 1984
 
この調査報告書の記述内容には筆者の思い込みの個所がある。特に真衣野牧の記述などは正確な資料を持たないもので、一考を要する。
その箇所は ――で記す。
 
『甲斐国志』の記述
『甲斐国志』古跡部に「中山ノ塁」の記述がある。いわく、「三吹・台ヶ原二村ニ在リ、其ノ裏ハ横手村ナリ、北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯ビタル孤山ノ嶺二四五十歩ノ塁形存セリ、半腹二「陣ヶ平」ト云フ平地、叉水汲場ト云フ処モアリ、麓ヨリ几ソ三十町許リノ阪路ナリ、三吹トハ釜無川・尾白川・大深沢川三水ノ会同スル故二名トス、台ヶ原ハ三吹ヨリ地面高シ、根古屋・古町・古屋敷・花水ナド云ウ地名アリ、又東ニ「甲斐国坂」」ト云フアリテ釜無川ノ灘へ下ル、花水橋・花水坂の隘目ハヽ古ノ公道ナレバ此ニ対セル亭候ナリ、天正壬午(10年)御対陣ノ時(徳川と北条)ハ武川衆コレヲ警固ス、「家忠日記」八月廿九日ノ条ニ、「武川ノ士、花氷坂二戦ヒ、北条ノ間者中沢某(韮崎に墓所がある)ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部、首級ヲ得ル」、トアリ云々
 
と。「中山塁」の塁の字は、制限漢字なので、いまは中山砦と記すことにする。記述の内容のうち、嶺に方四十五歩の塁形がある、と見えるが、事実は25メートル×90メートル、すなわち15歩に50歩の方が正しい。そこは、けわしく傾斜しているために、到底方形の塁砦を構築することはできない。
しかし、中腹には平坦な広場があり、ここは陣地を構えたことがあり、それで陣ケ平といった。
水汲み場というのは、要砦直下の谷頭の涓滴のある場所で、勤番士の飲水の汲場である。
 天正壬午8月の北条勢と武川衆の交戦にあたり、武川衆諸士は、この中山砦の要害を遺憾なく利用して、敵勢を悩ましたことであろう。
 
地域の歴史
 
中山砦の周辺には古代、令制の真衣郷が置かれた。そこにはどれ位の集落があったのか。
 第1に考えられるのは真衣野牧の存在である。
 官牧経営の庁舎を中心に、牧吏の一住居集を成したであろう。牧原集落の起源で、現在の集落より西南の高所にあったであろう。
 第2には郷民の精神生活を支える社寺を中心とする集落がある。武田八宮の武田八幡宮武田宮地、諏訪明神の脇に起った宮脇集落、牧場の守護仏(馬頭観音)を祀った堂仏寺の集落など。
 第3に、真衣野牧の所在地には相違ないが、地域全体が牧場ではなく、大段丘で水利に便利な所には、農耕が行われ筈で、青木・武田・白須・山高などには農業集落落が発生した。
 元来、令の郷内、郷戸は50戸で成立する。
 郷戸の家族員数は、平均20入といわれる。集落とはいっても、小は3、・4郷戸、大は7、8郷戸 程度の規模ではなかったかと思われる。
 やがて、平安朝中期ごろから律令政治が弛緩を始め、国領は貴族・大社寺の荘園と化した。真衣郷もやがて真衣荘(荘園)に変質、官牧も私牧化されて、真衣野の駒牽といわれ、朝廷の収要な年中行事となっていた。毎年8月7日の真衣野牧生産の良馬献上儀も、長久3年(1042)までで、以後絶えた。『延喜式』選進の延長5年・927) から115年後であった。
 長久3年より少し前の長元2年(1029)、源頼信が甲斐守となった。頼信は忠常の乱を平定して有名であるが、在任中、逸見郷内に源家の荘園を開拓し、伝領とした。恐らく真衣野牧も源家の私牧化したであろう。
 律令制度の崩壊にもかかわらず、荘園内の集落は戸口を増し、各地也に枝部を発展させた。
 頼信の孫義光は、常陸介となって以来、常陸国に子孫を土着させようとし、長男義業を同国佐竹部に拠らせることに成功した。しかし、三男義清を武川郷に拠らせたことは、結果的には失敗で、大治2年(1127)に清光が没すると、3年後に義清の嫡男清光が濫行の廉で告発され、翌天承元年(11311)甲斐市川に配流された。
父子はやがて頼信遺領の逸見若神子へ移り、父は逸見冠者、子は逸見源太と号した。頼信らの余威はなお存し、義清父子の経営は急速に進捗した。甲斐入国の時は4歳であった消光の嫡庶二子、光長と信義が元服を迎えたころは、武川地方の真衣・武1田両荘も支配下に入っていた。 
清光は、嫡男に逸見諸荘を、二男に武田荘を譲与した。二男は武田荘に館を構え、武田太郎と号した。
 武田太郎信義は武勇絶倫の将器で、衆望を担い甲斐源氏総領となった。治承4年(1180)9月、加賀美・安田・逸見・奈胡・浅利・曽雌らの諸将を率いて平家討誠に起った。
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 信義は、源頼朝に協力して信州・駿河国で平氏の軍を破ったが、赫々たる戦功を妬まれて敬遠され、嫡男一条忠頼は頼朝に謀殺された。
 わずかに信義の末男信光が頼朝の信任を得、武田総領職をつぎ甲斐守護となった。やがて忠頼の冤も晴れ一条家の再興が許された。そこで信光の匹男信長が一条氏をつぎ、その孫時信は甲斐の守護となり、一蓮寺を開基し、また多くの子を武川の真衣荘内に分封した。時信は太郎信方を山高に、次郎貞信を白頂に、六郎貞連を教来石に、八郎貞家を牧原に、十即時光を青木にというように割拠させた。その結果、一条氏の支流山高氏、白須氏、教来石氏、牧原氏、青木氏らが武川筋に興った。また青木氏から折井・柳沢氏らが分れ、後世他所から武川の地に封地を受けて土着した米倉・伊藤などの諸氏も武川衆の一員となった。        
 武川衆は、武川一条氏の支流の立場を守り、宗家武田氏と行動を共にした。南北朝の争乱にも、北朝(武家方)に属した。宗良親王が自須松原において
「かりそめの行きかひじとは聞きしかど、いさや白州のまつ人もなし」と詠じたのも、武川衆白須氏らの協力が得られない悲しみを、和歌に托したものであろう。                ’;
 室町幕府が安定した永享5年(1433)、武川衆諸氏は、さきに禅秀乱に敗死した甲斐守護、武田信満の二男信長に協力して、日一揆の拠点日之城にこもったが、敵の輪宝一揆に誘われて荒川に出撃し、大敗して柳沢・牧原・山寺の諸将を失い、打撃を受けたが、柳沢・山寺両氏は青木家から嗣を迎え再興した。
 武田信玄時賎には、永禄10年、信州下之郷明神において、武川衆のうち柳沢信勝・馬場信盈・宮脇種友・横手満俊・青木信秀・同重満・山寺昌吉ら七士は、寄親の武田六郎次郎(信豊)を通じて連署起請文を信玄に奉った。
 武田勝頼の代、武田家は滅亡の目を迎えた。
 武田氏滅亡の直前、武川衆は勝頼の特命を受けて待機していたが、中途計画が変り、活動の機を失った。織田信長に、勝頼の一族重臣の降る者は木曽義昌・穴山梅雪両人の外、すべて殺したので、武川衆はやむなく山に潜んだ。
 徳川家康は武川衆の幹部米倉忠継・山高信直・柳沢信俊らを召し抱え、遠江に潜居させた。信長が本能寺に滅びると、家康は早速米倉らに帰国して武川衆全員を動員するよう命じた。
 北条氏直も甲斐を窺い、信州から大軍を若神子に進めた。これより先、武川衆山高信直・柳沢信俊らは北条側の信州小沼砦を攻略し、新府城に陣取る家康に謁して勝利を報じた上、中山砦に陣を敷いた。北条氏直は武川衆に使者を送り、服従を勧めたが、信直らは使者を斬り、その首と氏直の書状を家康に献じ、感状を受けた。
 北条方は日野台を越えて花氷坂に兵を進め、中山砦の攻略をはかった。信直・信俊らは三吹台(中山の東、尾白川段丘)に兵を伏せて敵を破り、首と捕虜を家康に献じて賞された。
 
砦の守衛
 
中山の中腹に曹洞宗万休院がある。天然記念物の名木「万休院舞鶴のマツ」で知られる。この寺の開基は、武川衆、馬場民部右衛門尉信成である。馬場氏の所領は白須・台ケ原・教来石の内とあるが、菩提所を中山地内に開いたことで、中山を支配したことが知られる。
 また文化年間に編まれた『甲斐国古城跡志』には、中山砦とする明記はないが、
「巨摩郡白|須村ノ内、城跡壱ヶ所、但、高サ3町半、山ノ上、土手形コレ有り候、場所ノ広サ相知申サズ候、遠見、ノロシ場所ト申伝へ候。右、是ハ誰様ノ御取立共相知レ申サズ候」
とあり、これを中山砦に比定して差支えなかろう。
 
 中山の所属は、武川村と白州町に分属し、北西部の半分は白州町に、南東部の半分は武川村に所属しているから、白須村から報告が出されたのは当然である。現在、山頂の砦の部分の地籍は武川村下三吹に属するが、文化の頃は白須村の権力がより大きかったたらしい。
 中山砦を築造したのは、誰か、恐らくは白須氏か馬場氏か馬場氏であろうが、確実なところ判らない。
この山城は、亭物見すなわち望楼を備えた烽火台で、要害を兼ねた。
砦の東にある日野台も古代、烽火台の置かれた「飛火野」が転説した地名といわれる。七里岩の台上ならば蜂火台として適当であろう。
 天保12年に編まれた『系図略伝・誠忠旧家録義』という本に、「三吹村 中山友右衛門政治、中山勘解由左衛門貞政、中山城ニ住ス、古城跡
今尚存ス」とあるが、その歴史的根拠の見るべきものがない。中山という著名な山が近くにあり、これを苗字とする家数を見るに、白州町83戸、武川村63戸、小淵沢町64戸となっている。云々

馬場美濃守信房 戦陣五つの信条

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馬場美濃守信房 戦陣五つの信条
元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信房五十八歳、不死身の信春にも老が迫っていた。信房は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ
 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
 二つ
 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
 三つ
 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
 四つ
 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
 五つ
 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
 
 信房が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信房が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
 

甲斐を詠んだ歌 在原滋春

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◇昌泰2年(899)2月【『古今和歌集』】
◆在原滋春…甲斐守赴任。
…甲斐の国にあひ知りて侍りける人とぶらはんとてまかりけるを、みちなかにてにはかに病をしていまいまとなりにければ、よみて「京にもてまかりて、母にみせよ」といひて人につけて侍りける歌
……かりそめのゆき甲斐路とぞ思ひこし今はかぎりの門出なりけり
【『大和物語』】

…この在次君、在中将の東に往きたるにあらむ、この子どもも人の国通ひをなむしける。心ある者にて、人の国の哀に心細き所々にては、歌よみて書付けなどしける。(中略)

…かくて、人の国ありきくて、甲斐の国に到りて住みける程に、病して死ぬとて詠みたりける。
《参考》【『古今和歌集』】所収、甲斐に関する歌
…しほの山さしでの磯に住む千鳥君が代をばやちよとぞ鳴く
…頭注…能因が歌枕を引いて、甲斐国に在りとある。今同国甲府から東北三里許、笛吹川に沿って、小邸あるあたりを「さし出」といひ、それより二里許北方にある山を「塩山」といっている。(中略)

…さし出の磯はさし出た磯の義だから、何処でもいはれる語である。

…契沖にいふ、「平家物語に、しほの山打ち越えて能登の国小田中親王の前に陣を取る。
…又能登越中の境なる「志保の山」と見えたるその「志保の山」にて、「さし出の磯」もそのあたりならん。【『古今和歌集評釈』金子本臣著】
…真淵いふ、(略)之乎(しほ)を後に「しほ」と誤り、それよりさし出の磯とは設けてよめるか。云々
…かひうた…【『古今和歌集』】所収
…かひがねをさやにも見しがけゝれなく横ほりふせるさやの中山
…甲斐がねをねこし山こしふく風を人にもがもや言づてやらむ
 

○馬場美濃足跡 「白州台ケ原田中神社馬場八幡社記」

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○馬場美濃足跡 「白州台ケ原 田中神社 馬場八幡社記」

  

美濃守信房ノ鎮守ナリ。采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。円中手裁ノ桜同松今朽。信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某シ来リテ居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬セシトソ申伝候。社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪)

○馬場美濃足跡『巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』

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馬場美濃足跡『巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』
 
再開基 武田信玄之将士馬場美濃守、法号 乾叟自元大居士ニ御座候
……『甲斐 寺記・神社記』
○ 『馬場彦左衛門家記』
馬場美濃守ノ孫同民部ノ男丑之介壬午ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村ニ移居シテ與三兵衛ト更ム。

甲斐を詠んだ 歌人 甲斐少目…凡河内躬恆。甲斐権少目。(おおしこうちのみつね)

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◇寛平6年2月(894)【『古今和歌集目録』】
◆甲斐少目…凡河内躬恆。甲斐権少目。(おおしこうちのみつね)
【『古今和歌集』】
…かひのくににまかりける時道にてよめる
……夜を寒みおくはつ霜をはらひつゝ草の枕にあまたたびねぬ
【『甲斐国志』】
…拾芥歌人三十六人を載す。云、躬恆古伝云、不見甲斐権少目、淡路守、或本云、大井川行幸和歌書に書する所、散位。
【『『甲斐国志』】
…壬生忠岑…古今集序右衛門府生とあり、本州の役に補せられ在国せし由諸書に見える。
【『夫木和歌集』】

…かひの国へくたりまかりけるに

……君かため命けひにそ我はゆく鶴のこほりに千世はうるなり……
【『古今和歌集』】
…甲斐の国にあひ知りて侍ける人とぶらはむとて、まかりける道なかにて、にはかに病ひして、いまいまとなりにければ、よみて京にもてまかりて母に見せよといひてつけ侍りける歌…在原滋春…
……仮初にゆきかひぢとぞ思ひこし今は限りの門出なりけり……

馬場美濃守の後裔 馬場与三兵衛

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馬場美濃守の後裔 馬場与三兵衛

 朝気村(現甲府市朝気)

『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム。其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ。
 元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ。善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 

 自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談 
 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。
 「馬場ほの」氏の夫、祖三郎氏は養子で、白須から甲府市に移り開狭楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる。同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取った。(現診療所)この屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎・ほの両氏が他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に写された。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。
 筆註…
 この開狭楼の土地は現在の白州町診療所のある一帯で国道を挟んで存在する。土地の持ち主は分散している。又少し離れた場所に若宮八幡神社の神主石田備前の屋敷地がある。国道が通る前は現在の白須上公民館の付近も石田備前の屋敷地であった。当時の石田備前の勢力は大きく、白州一帯や小淵沢の神社の神官であった。自元寺や若宮八幡と深い関係にあった人々に江戸幕閣にも名を連ねる白須甲斐守がいる。若宮神社改築の際には多額の寄付をされている。白須家は古く平安時代から白須を中心に栄えた。現在の白須・殿町などは白須家との関係が深く、一部白須地域にある馬場美濃守の屋敷や土地とされているものは間違いで、殆ど白須家のものであり、馬場家の屋敷は白須には無く、武田の重臣だった美濃守は武田館(現、武田神社)の前にあった。白須氏は現在その殆どが富士吉田地方に移住されている。

 
甲府市泉町 開狭楼主人 馬場胆三郎氏
 「甲府のふるごと」より
甲州の誇りとする、奇骨の名書伯、三枝雲岱翁の第三女を母とせる馬場氏は北巨摩熱見村の百家細田家に生れた人、斉嘉氏の三男で明治六年一月十八日生れ、三十八年六月馬場山三郎氏(娘、ほの)の養子となり、大正三年七月家督を相続したもので、先代より料理業を継承して開狭楼と称し、旧来の内外の装備を一新その規模は県内屈指の大料理店として押しも押されもせぬ第一流であることは周知である。大正六年株式合祀甲府料理業組合の設立されるや推されて取締役となり、大正十年組合の改組成りて、組合長に抜擢されて組合強化の為に大にその力を発揮し、地域の有力なる人材として業界に重きを為したことも人の知る所である。望仙閣等と並び甲府市の三大料理店でもあった。
近年開狭楼の本館に続いて横町の繁華街に沿って洋館の大ホールを作り、王突の設備も備え、洋食に於いては正に県下第一とされている事も亦一般の知る所であって、観光都市としての甲府市の発展の上からも、開狭楼こそ正に大料理店である。云々。
 
『馬場祖三郎家由緒書』
開基馬場美濃守源公
法号 乾叟自元居士
 公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書       
信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅(三郎義光)后胤馬場美濃守源公諱信房
始称敬禮師(けいれいし)民部少輔諱政光
 
天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。
役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。
従者斎遺骨少帰州臺原(台ケ原)墓石朱地
或云、武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞
自元之神儀弊壊新之贈寺且欲迎其壊於家而仰鎭護也。     
  柳營幕下小臣
 居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長
 旧名義教 拜自 
 
***筆註***
これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。
 
又自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる。(棟札)
 
◎ 『自元寺由緒書』末尾
 
 享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余自元寺住職恵光代。
 
   馬場美濃守信房    号 乾叟自元居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信忠  号 信翁乾忠居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信義
『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
 
 自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
 首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 法名乾叟自元居士 墓所白須有也
 享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候 此方ヨリ返事礼状 仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代
 
 一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死
 一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候
 一、馬場民部少輔信義初号 勘五郎 此代家康ヘ御奉公相勤候
  自元寺 馬場美濃守の位牌
   正面  
開基馬場美濃守源公法号乾叟自元居士
   右
柳営幕下小臣武州豊島郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長
旧名義教拜白左公七世外孫出家得法同牛込
竜山松源禅寺向陽院惟庸字古同敬書
   裏面  
信州槙嶋城主甲国武田舊臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房
始稱敬禮師民部少輔諱正光天正三年乙亥五月廿一日六十三歳
或作四役于参州於長篠西北之間滝川橋場自殺従者齏遺骨少帰
州臺原墓石采地 或云武河之白須村於自元寺以佛古又祭法号
如前面矣聞自元寺之神儀弊壊新之贈寺旦欲迎其壊於家而仰鎮護也
自元寺馬場三代
一、信房法名自元乾叟自元居士
  天正三年乙亥年五月二十一日
於三州長篠討死生年六十三歳   
  家臣原四郎承遺言
 遺物遺骨等来於白須村自元寺法事相勤御墓名塔立来
一、馬場二代民部少輔信忠
 法名信翁乾忠居士 信房嫡子
 信忠或ハ信春と云
 天正拾年三月信州深志之城討死 
 自元寺過去牒ニ記墓所有之
一、馬場三代民部少輔信義
是ハ信忠の嫡子此の人始めて家康公に仕へ法名等相見不申 
右之通相違無御座候以上
   慶応四年戊辰七月 巨摩郡片颪清泰寺末
 筆註   
 三代馬場民部信義は『寛政重修諸家譜』によれば馬場美濃守の子供で長男が二代信忠で次男が信義(民部勘五郎)で「東照宮(家康)に召されて御麾下に列し、甲斐国白淵(洲)、教来石、台原等のうちにをいて旧地を賜い、天正十七年采地を加へられ、御勘気をかうぶる」とある。
 又『寛政重修諸家譜』の馬場信久の項に、「信保(武田信虎に仕へ、甲斐国武川谷大賀原(台ケ原)根古屋(中山高台)の城に住す」
-長男馬場美濃守信房-次男善五兵衛信頼、(兄信房の家嫡となる)-その子供が信久-その子供が信成で根小家に住み、武川の諸氏と共に徳川家康に仕え本領の地を給う(右衛門尉・民部)とあり、信義と信久は同一人物の可能性も有る。「根小屋」の地は現在も白州台ケ原の尾白川の対岸高台にあり、縄文・中性の遺跡も発屈されている。馬場一族として後世包含されているが、馬場美濃守と馬場信保の家系の繋がりは不詳。

馬場氏の居跡 白州町白須 白須家の間違い

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  馬場美濃守 『村乃あゆみ』
   名所旧跡の項  馬場氏の居跡
 
 白須西方の広野に馬場美濃守信房(◎白須家)の宅跡がある。郷社若宮八幡神社の南方で東西凡そ二丁余南北二丁。今は全部田畑となっているが四周に掘り跡があり、猶邸内に一條の濠を通した跡がある。邸園の跡とおぼしき辺に梨の老木があってその地名を「梨の木」と呼んで居る。古色蒼然たる石祠の屋根石が「梨の木」の有ったと云う藪陰に在る。その南方に一條の低地が在る、そこより高橋の清水と称する冷水が湧き出し自然の谷をなしている。その谷の南方一帯の地を大庭と云う。馬場の跡らしくも思える。その南殿町部落より竹宇に通じる右直に沿いたる地に門が有ったと見え、今に礎石が存して有る。
 この居跡の北方丘陵の上に姫塚と称する塚がある。里人は信房の墓と称すれども疑わしい。盖しその縁辺の人の墳墓ならん。この丘陵の地は自元寺の故地なると称し現に同寺の所有である。
 「姫塚」は若宮八幡神社の左方に現在もあり、遺骨については織田信長の娘との説もあり、姫塚は現在の前沢(かっては門前と呼ばれた)の北原の地に墳墓があり、ここを「姫塚」と呼び墳墓を整備したがその後この場所には作物が育たなかったと云う話もある。また北原の墳墓からは装飾品が出てきたが今は一部を残して不詳との事である。又若宮八幡神社の周辺は現在の国道が通る事となり、その時には多くの五輪の塔が地下に埋められたとも伝わるが、一部は好事家の手にあったが後禍を恐れて戻したとも伝わる。

馬場美濃守信房は「甲斐国志」により信春と誤認

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馬場美濃守信房は「甲斐国志」により信春と誤認
『甲斐国志』による 馬場美濃守信春(信房)
 
信州下郷起請文永禄十年(1567)名押アリ。

野州小野寺修験江田松本坊蔵系作信武箕輪軍記同之宣従焉信玄全集、三国志、軍艦大全傳解等皆爲信房或改名カ未詳、異本徳川記作信政、其餘作氏勝者多シ、烈祖成績云今従播州斑鳩寺過去帳為氏勝、按スルニ播州ハ遠境ナリ。有所縁人偶修追福ニヤ寺僧ノ所其豈足徴乎最難信也。北越軍談ニ云、信房後ニ改信里未知所證疑フアラハ空言ナリ。

 軍艦云、天文十五年(1546)武川衆教来石民部を擢て五十騎の士(さむらい)大将とし馬場氏と改め民部少輔と称す。(三代記云、馬場伊豆守虎貞ト云者直諫爲信虎所戮嗣、晴信立令教来石民部影政爲紹馬場氏之祀云云。

 虎貞の事未知明據故不采教来石ハ武河筋ノ村名ナリ。彼地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人稱之カ爲氏族者本州ニ所見ナシ。

  
 永禄二年(1559)

加騎馬七拾合爲百貳十騎。此内ニ小幡彌三右衛門(小幡山城庶男)・金丸彌三左衛門・早川彌左衛門・平林藤右衛門・鳴巻伊勢守・鵄大貳(本ト根来法師長篠ニテ飯崎勘兵衛ト名乗リ討死スト云、其弟ハ二位)皆饒勇ノ裨将ナリ。

 
永禄八年(1565)
授美濃守。武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令三外人避其稱最モ規模トスル所ナリ。
明年十月信州真島城城代トナル。信玄ヨリ七歳上ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ。
道鬼日意カ兵法ヲ傳得タリ。
場数二十一度ノ証文、其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝコト九度ニ及ベリ。
戦世四十餘年ヲ歴テ身ニ一創瘢ヲ被ル無シ。知勇常ニ諸将ニ冠タリト云。 
旗ハ白地ニ黒ノ山路、黒キ神幣ノ指物ハ日意ヨリ所二乞受一ナリ。
天正三年(1575)五月廿一日長篠役軍巳ニ散シテ勝頼ノ馬印遙ニ靡(ナビ)走ルヲ目送シテ立還リ、傍二小岡ニテ坐シ大ニ喚テ云、馬場美濃守ナリ今将就死ト終ニ刀柄ヲ握ラス。安然トシテ首級ヲ授ク。
(諸記ニ深澤谷ニテ塙九郎左衛門内河合三十郎討之参河國墳墓記ニ馬場美濃守信政ノ墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ元禄中毀テ爲畠馬場ハ須澤ト云所ニテ討死、信長ノ幕下岡三郎左衛門獲首賜二感状一三河国政績集ニ須澤作出澤) 

法名乾叟自元居士 武河筋白須村自元寺ノ牌子ナリ。

 
馬場民部少輔
 美濃守男ナリ。大宮神馬五匹(同心ト共ニ)トアリ、天正壬午ノ時民部信州深志城ヲ衛ル。(三国志ニ作信春一書ニ氏員又信頼ハ信房ノ甥ナリ。戦死ノ後家督セリト皆無明記
  ・編年集成天正七年(1579)九月沼津ノ條ニ馬場民部昌行と云者アリ。
天正壬午十年(1582)七月記ニ法条氏直信州ニ入ル、馬場右馬助房勝(美濃氏勝ノ二子)其外国人ヲ郷導トシ碓氷峠ヲ越ユト云々。
 ・女婿ハ軍艦ニ信州丸子(大全作三右衛門)傳解ニ初鹿傳右衛門(岩淵夜話ニ所記初鹿ノ傳アリ可参照
 ・鳥居彦右衛門(関原記・大全所記ナリ。家系ニハ形原ノ家廣女ハ鳥居ノ妻ナリ。即チ左京亮忠政、土佐守成次ノ 母ト云)按スルニ馬場氏本州ニ舊ク之アリ。
  ・一蓮寺過去帳ニ長禄四年 寛正元年(1460)十二月廿七日臨阿(馬場参州)
 ・文明ノ頃(1469~1487)(年月日無記)来阿馬場中書。浄阿馬場民部。金阿馬場小太郎。
  ・下ノ郷信州起請文六河衆ノ列ニ馬場小太郎信盈花押アリ。(是ハ永禄中ナリ)後年マテ彼筋ニ土着セル馬場氏ノ事 ハ士庶部ニ詳ニス。教来石・白須・臺ガ原、三吹・逸見ノ小淵澤等傳領セリ。民部信春ト云者ヲ擢出シ、命二軍将一ノミ元来ノ馬場氏ト見エタリ。

 ・木曾千次郎義就ノ家老ニ馬場半左衛門昌次ト云者アリ。後に幕府ニ仕ヘ尾州義宣卿ニ附属セラル。彼先祖ハ木曾義 仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村稱讃岐守家村ノ第三男ヲ云常陸介家景始メ以馬場爲氏數世ニシテ半左衛門ニ至ルと云。本州ノ馬場氏モ盖シ是ト同祖ナリシニヤ。其系中絶シテ詳ニ知レズ。三代記ニ所謂三位源頼政ノ後トス ル者ハ本州ニ所關詳ナラザレハ適従セン事難シ馬場ト云地名ハ州中ニモ所在多シト云。

柳沢美濃守吉保 出世と母(「武川村誌」一部加筆)

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柳沢美濃守吉保(「武川村誌」一部加筆)
 
出生
柳沢家は、信俊以来、徳川家の信任を受け、信俊の次男安忠が父信俊に劣らない才能をもって徳川綱吉に重用され、家運の端緒を開いた。しかし当時の俸禄は、采地一六〇石、廩米三七〇俵で、決して高禄ではない。
安忠の家督をついだ吉保は、安忠の側室佐瀬氏の所生である。万治元年(一六五八)十二月十八日に生まれた。
安忠の正室は青木信生の息女で、安忠とはいとこの間柄であった。しかし、夫人青木氏は男児が恵まれなかった。
たまたま安忠の采地、上総国市袋村の浪土佐瀬氏の娘津那子が、領主柳沢氏の屋敷に行儀見習いのため奉公にあがったが、津那子は才色兼備、且つ温順であったので夫人青木氏に愛され、侍女として仕えるようになった。
実子に男のない安忠は、やむなく津那子を側室とし、その腹に吉保を儲けたものと思われるが、また夫人青木氏の立場を考えると、憚りもあり、旗本柳沢家を継ぐに足る壮健な男児を得た上は、津那子を側室として置くべきではないと考えたのであろう。津那子の産後の肥立ちが回復したと見た安忠は、これにいとまをとらせ、佐瀬家に帰らせたのである。
このようなわけで、吉保は生まれるとすぐに安忠室青木氏の嫡子として育てられて成人し、嫡母の没する延宝五年(時に吉保二十歳)まで、実母の存在を知らされなかったのである。
佐瀬家へ帰った津那子は、間もなく再婚して一子隼人を生んだが、夫に死別して大沼氏に嫁し、大蔵・玄章の二子を生んだ。これらの三人、いずれも吉保の異父弟である。隼人・大蔵は柳沢姓を許されて一族に列し、享保四年の御家中御役人付によれば、「御城代、高一千石、柳沢隼人」とある。玄章は臨済宗妙心寺派の僧で虎峰(琥芳)と号し、吉保開基の武蔵国入間郡三富山多福寺の二世となった。宏量の吉保は異父弟を愛してそれぞれ所を得させ、柳沢藩の強力な藩屏としたのである。
吉保の生母津那子は、青木氏の没後、二〇年ぶりに吉保と母、子の名のりをしたのであるが、当時まだ大沼家の人であった。それから三年後、津那子は夫の大沼氏と死別したので、吉保は父安忠と相談して生母を柳沢家に迎えとることにしたのであった。時に天和元年(一六八一)である。こうして吉保は、時に八十一歳ながら壮健で、露休と号していた父安忠、母佐瀬津那子(法名了本院)とに対し、存分に孝養を尽し、孝悌の道を全うした。

武田家臣団 図表 芝辻俊六氏作成

三崎牧 図


白洲次郎氏の先祖は山梨県北杜市白州町白須の出身

巨麻郡&甲斐の黒駒

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 巨麻郡&甲斐の黒駒
参考資料『白州町誌』一部加筆
 
大化前代の東国は、大和朝廷に対する馬の供給地であり、貢馬が盛んに行われた。甲斐が貢上した馬は、その代表的名馬として「甲斐の黒駒」の名をもって、中央でも語られていたのである。甲斐の黒駒の名声は後世へも伝えられていく。平安時代末期にできた『扶桑略記』にもこんな話が載せられている。
推古天皇六年四月、聖徳太子は良馬を求めて全国に買上を命じた。貢上された数百匹のうちから、甲斐国が献じた「一烏(黒)駒四脚白」(四本の足だけが白く、体全体が黒い馬)を選び、舎人の調使麿に飼育させた。九月になり、太子がこの「甲斐鳥駒」に試乗すると、たちまちに雲の中にとび去った。三日後、帰って来た皇太子は、まず富士山頂に至り、その後信濃をまわってきたと語ったという。
 
これは他愛のない伝説にすぎないが、六七二年の壬申の乱の原に、大海人皇子側として参加し活躍した「甲斐の勇者」は騎馬兵であり、『日本書紀』)、また天平三年(七三一)十二月には、甲斐守田辺史広足が体黒く、たてがみと尾が白い神馬を献じている。など、古くから馬の産地であったことを思わせる事実も残されている。
このように、甲斐国では大化前代から馬の生産、飼育が行われ、その代名詞として甲斐の黒駒の名が広く通用していたことは間違いないところであるが、その具体的な生産地である牧がどこにあったかわかっていない。古く黒駒牧があったとして、今の御坂町黒駒付近に比定する説があり、黒駒牧そのものの存在も疑わしい現在、この説に従うのは躊躇せざるを得ない。
これに対し、白州町付近が「甲斐の黒駒」の生産地であったという話が伝えられている。
慶応四年(一八六八)のある神社の社記に見ると、
 
釜無川の水源に神馬の精があるによりて此水を飲んで畜育にあたる駒は必す霊ありと云、又この山より流れいずる水流の及ぶ限りを一郡とす、成人の説によると、平原多くして馬を畜に便利な地なれば他郡よりも多く牧を置かれしと見えて今もそこここに牧の名残れり、されば、駒を産するの地なる故に駒ケ嶽と称し、此山の縁由をもって巨摩郡と名づけしと云えり
 
とあり、釜無川の発する駒ケ岳山麓が良馬の産地だったという。
 
荻生徂徠の『峡中紀行』には、駒ケ岳について
聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」が生まれ育ったのが駒ケ岳山麓であったという伝説を記している。
この話は、江戸時代には定着していたようで、他の史書にも
「聖徳太子、金蹄駒を召され、此絶頂に降り玉ふ」
(『裏見寒話』)
 「往昔名馬出しと云傅」
(『甲斐名勝志』)
 「厩戸王ノ肩駒此山こ産育セルコトヲ預説f一伝タリ」
(『甲斐国志』) 
「古時厩戸王の駒此山中より出しと云傅ふ」
(『甲斐叢記』)
と、ニュアンスの違いはあるものの、皆共通として登場する。
 
しかし、馬が空を飛んだという荒唐無稽な聖徳太子の伝説と結びついたこの話が事実であるわけではない。多分、聖徳太子の伝説の成立後、駒ヶ岳の名称とその山麓に後述するように真衣野牧が置かれた事実を背景として、結合成立したものと思われる。
現在のところ、当地方の馬の飼育が大化前代まで遡る事実は確認し得ないが、御牧としての真衣野牧が成立する以前から馬の生産が行われていた可能性がないわけではなく、今後の考古学の発掘調査等によって新たな事実が発見されれば、この伝説も違った意味で脚光を浴びることになろう。

白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)

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白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)
・馬場美濃守の事績については甲斐国志に
天文十五年武河衆教来石民部ヲ擢デ五十騎ノ士隊将トシ馬場ニ改メ民部少輔卜称ス、
・永禄二年騎馬七十ヲ加へ合テ百二十騎卜為ス、
・同八年美濃守ヲ授ク、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ外人其ノ称ヲ避ケシム、最モ規模トスル所ナリ。
・明年十月信州牧ノ島城代トナル、信玄ヨリ七歳前ノ人ニシテ信虎ノ代ヨリ功名アリ、道鬼(山本勘助)日意(小幡)ガ兵法ヲ伝へ得タリ、
・場数二十一度ノ証文ニ其方一身ノ走り回り諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝ事九度ニ及ブ、
・戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創ヲ被ルコト無シ、
・智勇常ニ諸将ニ冠タリト云フ、
・旗ハ白地ニ黒ノ山道、
・黒キ神幣ノ差物ハ日意より迄受ケシ所ナリ、
・天正三年五月廿一日長篠ノ役軍己ニ散ジテ勝頼ノ馬印シ遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還り小岡ニ傍フテ座シ大ニ喚デ云フ、
馬場美濃守ナリ、今将ニ死ニ就カントスト、終ニ刀柄ヲ握ラズ安然トシテ首級ヲ授ケリ、法名ハ「乾叟自元居士」とある。
【註】
 智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
〔教来石景政、初陣〕
 享禄四年(1531)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
 それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
 大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。
その勇に誇り悪行がつのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
 天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景政も武川衆の一隊長(?)としてその幕下に加わった。
 天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。
 
馬場美濃 〔馬場民部景政〕〔馬場民部少輔〕を名乗る
 天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
 天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、
〔馬場民部少輔〕
十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、さらに十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
 天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶臼山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
〔馬場美濃守信春〕
 この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴牧伊勢守、平林藤右衛門、鵄(とび)大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。
 翌永禄三年十月、信春は牧島城の城代となる。
 永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てると確信する」と進言した。馬場信春は「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべく味方の犠牲を少くするために慎重な作戦をたてるべきである」と慎重論を提言した。そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。
そこで本隊は八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じます」と進言した。いわゆる〝きつつき戦法″である。信玄はこれを採用した。妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
 馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。しかし甲軍の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全域を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦となった。妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。
 卯の刻(午前六時) から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信春であったと「甲越川中島戦史」などで伝えている。このとき信春は四十七歳であった。
 その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、追撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃などの奮戦によってこれを破る。
信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏其の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めにさいし、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかけては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いのたねになる。構わぬ焼やしてしまえ」と曲輪内に大挙して踏み込み、片っ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
 田中城は馬場信春の縄張りによったものである。信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房に縄張り致さすべしといったという(武田三代軍記)。馬場美濃守は築城の名手でもあった。
 元亀三年(1572)十月、馬場、山県隊の甲軍徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが寵る二俣城(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。馬場信春は、尋常な手段では城は落とせない、城で使っている天竜川の取り入れ口を破壊し城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣城は忽にして混乱が起きた。それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、城将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
 この時、浜松城にいた徳川家康は二俣城を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。武田勝頼、馬場信春、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚ぐるの手初めなれは信玄の大事是にすぐべからず」と(武田三代軍記)三方ケ原において徳川軍と戦う。家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきつた。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(武田三代軍記)
 
馬場美濃守信房 戦陣五つの信条
元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信房五十八歳、不死身の信春にも老が迫っていた。信房は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ
 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
 二つ
 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
 三つ
 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
 四つ
 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
 五つ
 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
 
 信房が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信房が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
 
 天正二年一月、勝頼岩村城付城一入城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を武田三代記は「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申せ申さん、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚鱗に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、少しも猶豫ふ気色なく真一文字に突懸れば信長取る物も取会敢ず捨鞭を打って引返さる」と記している。
 天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもって固める長篠城を包囲して攻めたが容易に城内に侵入することができなかった。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。
 武田勢は長篠城を挟み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバックに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、これに向えば不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再検を図るよう」と進言した。このとき跡部勝資は「一戦も交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに若(し)かず」とし、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意したので老臣たちは軍議の席を蹴って「御旗・楯無鎧、ご照覧あれ」と退去した。
これらの重臣は、信春の陣地大通寺山に集まり「この合戦が武田家への最後になるだろう」と討死の覚悟で別れの水盃をした。
 五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
 五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。
馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく間に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。
馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度が、願わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必勝ち弓矢の面目既に立ったず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
 真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。
馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待請け、勝頼の御無事を見届け、長篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよと、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死(武田三代軍記)。
 長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。
 
 
由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書
☆ 馬場美濃守信房
 
馬場美濃守信房ハ教来石民部少輔景政と号す。然ニ一族馬場伊豆守虎貞、武田家の長臣なるが信虎公大悪無道の人なる故に虎貞を誅せられる。これに依って馬場の家断絶に及びけるを、其後信玄の代に至り此事を歎き、一家なれハ教来石民部少輔を以て伊豆守が名跡を続しめ、美濃守になされ、信の字を賜って信房と改め武田菱の紋を賜りける。子息をハ民部少輔と云て嫡子なり。然に勝頼の代に至り、長坂・跡部等の侫人奸曲の語を而其巳誠と思はれけれハ、信房是を怒り、今度三州長篠の合戦の時(天正三年なり)生年六拾弐才にて討死せらる。長篠の橋場より只一騎取て返し深澤谷の小高き処に駆上り、馬場美濃守行年六拾弐歳首取て武門の眉目にせよ、と呼ハれハ敵兵四五騎駆寄って四方より鑓を付る。信房太刀に手をも掛す二王(仁王)立に成って討れしハ前代未聞の最期なり。
 首ハ塙九郎左衛門直政が郎党河合三十郎討取たり。惜哉信房ハ信虎より勝頼ニ至って三代に仕へ、武田家の重臣にて享禄四年十八歳にて初陣に立しより十度の高名を顕すと雖とも一生疵を蒙らず、此の合戦勝頼大に敗北し武田家伝の指物諏訪法性の兜孜金等を捨て逃けられける。此の時町人の落書に
信玄の跡をやふやふ四郎殿敵の勝より名をハ流しの
 
下部町常葉馬場家家系由来書  馬場美濃守信房
 
其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)
信房
伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ屡直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守信房ト稱ス。(中略)  
 
下部町馬場家関係記述 抜粋
『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六
○ 常葉院の牌子に昌厳院笑岩道快居士 天正拾午年六月廿一日
(一ノ瀬妙圓寺ニ丹後守忠次、法名日瀬トアリ。北川ノ妙立寺ニ丹後守ノ女法名ハ妙来ト云アリ。其状ニ記セ)
○ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月七日
○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月一日
○ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日
○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日
○ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日
此二牌子ハ当村東前院ニアリ。五郎左衛門ノ位牌ハ早川法明院ニモアリ 
○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日
○ 同彦之丞 恕山道思禅定門 右ニ載スル所原記ノ支干錯乱シシヲハ今繕写スト雖モ亦其実ヲ得タリト云フベカラズ
○ 里人別ニ馬場弥五郎、弥次郎ナド云人ヲモ云伝ヘタリ
○ 本村諏訪明神ノ社記ニ元禄九丙子年
(馬場八郎左衛門忠次、渡辺十郎右衛門正次)
神殿再興云々是モ元禄ノ字ノ誤リアルヘシ又丹後守源信ト記セリ皆ナ後世ノ為飾信用シ難シ
○ 按ニ軍艦ニ穴山衆 馬場八左衛門見エタリ云々
【註】加賀美遠光-秋山光朝-常葉光季……常葉次郎(馬場美濃守信房か?)
 
 馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)
 
馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)
『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、
馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム、其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ
元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云 
 
自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
 
自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云
享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而
天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取リテ武門ノ眉目ニセヨト呼ハリケレバ敵兵聞テ四五騎四方ヨリ鑓ヲ付信房太刀ニ手ヲ掛ケズ仁王立ニ成テ討セシハ前代未聞ノ最期也  
首ハ河合三十郎ト云者討取ル 兼テ遺言ヲ承リシ家臣原四郎遺物遺骨を持来於甲州自元寺法事等相勤 
法名乾叟自元居士 墓所白須有也
享保十二年丙牛年江戸大塚住旗本大番馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二ノ冬御位牌修補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候、此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余 自元寺住職恵光代
一、馬場美濃守信房 号 
   乾叟自元居士、馬場民部少輔信忠 又云フ初ニ信春於信州深志城討死
一、号 信翁乾忠 此ノ二代御位牌立成過去帳記載有之候

むかしの山梨の力士

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戸で語られた甲斐の民話 

13、角力上覧(甲斐の力士)  半日閑話(大田覃)
  寛政六年甲寅四月九日 
 
  雷電 谷風  
  甲ケ嶽 甲斐嶽 八ツ峰 駒ヶ嶽

江戸で語られた甲斐の民話 15、馬場美濃守の末裔 馬場三郎兵衛   閑憲瑣談(佐々木高貞)

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江戸で語られた甲斐の民話 15、馬場美濃守の末裔 馬場三郎兵衛   閑憲瑣談(佐々木高貞)

(前略)

實は本国は三州、生国は甲斐にて、即ち物奉行馬場美濃守が妾腹の末子、幼名三郎次と申す者にて候、領主(信玄)逝去の後、世継ぎ(勝頼)は強勇の無道人、其上、大炒、長閑の両奸人、国の政道を乱し、諸氏一統疎み果候始末は、甲陽軍艦に書記(かきしるし)したる十双倍に御座候。されば(長篠)の合戦の節も、先主以来の侍大将ども、彼是の諫言を一向用られず、美濃守を始めとして覚えの者ども大勢討死。夫より段々備えも違ひ、終には世継も滅亡致され、其頃私は十歳未満の幼少故に、兄にかゝり罷在候へども、甲州の住居も難叶、信州に母方の由緒有レ之故、玉本翫助が末子、八幡上総が甥等申合、三人ともに、信州に引込、往々は中国へ罷出、似合敷奉公をも仕らんと、年月を送り候所へに不慮難波鎌倉鉾楯にて、難波籠城是天の与えと手筋を以て間も無く城中へ召出され、千邑繁成が組与力となり、云々
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