真田弾正忠幸隆
真田丸 図版がみつかりました 奈良本達也氏監修の本
ある時樹の下で大切の犬が死んだ。そしてその後樹の表面に現れた
北杜市小淵沢の先人
韮崎市穴山の先人
真田信尹の足跡 須玉町大蔵
山梨県 真田家史蹟 甲府市 真田の屋敷
武田勝頼 韮崎新府城図
北杜市 高根町出身の作家 窪田精さんのこと
信玄公旗掛松碑(長坂町日野春駅)清水倫茂
韮崎市 新府城の埋蔵金
真田昌幸の事 東照宮御實紀卷四
真田昌幸の事
天正十年(1582)武田滅亡(参考資料 『東照宮(家康)実記』)
天正十年(1582)武田滅亡(参考資料 『東照宮(家康)実記』)
武田勝頼・織田信長・徳川家康
信長は十四日波合にて勝父子の首を實撿せらる。
信長は武田の舊臣ども上下の分かちなく。一々探し出して誅せらる。
さて信長國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは家康しろしめす所なるがゆへに、其道すがらの大石を退け、大木を切り払い、道橋をおさめられ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへ川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛ありしとぞ。
(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)
日をへて富士安部川をわたり田中の城に泊られ、また大井川天龍川を越て松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごとくその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。
家康も引つゞき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河內の交野枚方邊まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て、追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世は早これまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため參候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを、君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。御道の案內に參りし竹丸を近くめし。
我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬を並べて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。家康年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ、田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案內に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。
真田源太左衛門尉信綱略歴 真田昌幸の鎧
北杜市の真田氏史蹟 須玉町大蔵小林寺 真田隠岐守信昌
遺された祠の中には 意味不明の物が祀られている事がある
真田隠岐守の知行地 山梨県 慶長・寛永時代
北杜市の歴史 真田隠岐守知行地一覧
慶長古石高帳 | 寛永元年 | 現市町村名 | |
長坂上条村 巨摩郡 | 343,78 | 343,78 | 北杜市長坂町 |
大井ケ森村 巨摩郡 | 33,18 | 北杜市長坂町 | |
村山北割村 巨摩郡 | 558,37 | 558,37 | 北杜市高根町 |
小 倉 村 巨摩郡 | 639,67 | 639,67 | 北杜市須玉町 |
中 丸 村 巨摩郡 | 69,29 | 69,29 | 北杜市長坂町 |
大 蔵 村 巨摩郡 | 575,88 | 575,88 | 北杜市須玉町 |
松 向 村 巨摩郡 | 92,69 | 92,69 | 北杜市長坂町 |
黒 沢 村 巨摩郡 | 610,27 | 610,27 | 北杜市高根町 |
下条東割村 巨摩郡 | 41,00 | 41,00 | 韮崎市 |
上条中割村 巨摩都 | 12,55 | 12,55 | 韮崎市 |
藤 田 村 巨摩郡 | 48,00 | 48,00 | 南アルプス市若草 |
11か村 302,468 | 10か村 299,187 |
真田氏
真田丸 大坂夏の陣図屏風
真田信尹の墓『山梨県史跡名勝記念物調査報告書』
- 名称 真田隠岐守信尹の墓
- 所在地 北巨摩郡日野春村長坂上条(現長坂町) 龍岸寺境内
- 地目 共葬墓地
- 地籍 村有地
- 所有者 龍岸寺
- 現状
- 為 真田無齊居士造立之(長さ三尺六寸 幅六寸)五月四日寛永七年(1630)
- 為月浦宗香大姉造立之七月五日承応二年(1653)
- 為樹山林白大居士正月五日
- 寂照院殿明岸了大居士延宝八年(1680)五月四日卒
- 高 三百四十三石七斗八升 長坂上条村
- 高 三十三石一斗八升 大井ヶ森村
- 高 五百五拾八斗三升七合 村山北割村
- 高 六百三拾九石六斗七升 小倉村
- 高 六十九石六斗七升 中丸村
- 高 五百七拾五石八斗八升 大蔵村
- 高 九拾弐石六斗九升 松向村
- 高 六百拾石弐斗九升 黒沢村
- 高 四拾一石
- 高 拾二石五斗七升
- 高 四拾八石
- 高 四拾八石
- 高 拾八石
- 微證物件
- 麻上下 一着
- 馬の笞(むち) 一本
- 馬杓 一個
- 陣笠 一個
- 弄泉奇鑑 十三冊
****参考資料『須玉町史』****
慶長古石高帳 | 寛永元年 | 現市町村名 | |
長坂上条村 巨摩郡 | 343,78 | 343,78 | 北杜市長坂町 |
大井ケ森村 巨摩郡 | 33,18 | 北杜市長坂町 | |
村山北割村 巨摩郡 | 558,37 | 558,37 | 北杜市高根町 |
小 倉 村 巨摩郡 | 639,67 | 639,67 | 北杜市須玉町 |
中 丸 村 巨摩郡 | 69,29 | 69,29 | 北杜市長坂町 |
大 蔵 村 巨摩郡 | 575,88 | 575,88 | 北杜市須玉町 |
松 向 村 巨摩郡 | 92,69 |