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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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真田弾正忠幸隆


真田丸 図版がみつかりました 奈良本達也氏監修の本

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『図説 戦国おもしろ武将事典』三笠書房
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ある時樹の下で大切の犬が死んだ。そしてその後樹の表面に現れた

北杜市小淵沢の先人 

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前村会議員 助役小林盛三郎氏
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前村会議員 小林善次郎氏
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前村会議員 浅川潔氏
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高福寺住職 南義猛氏
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韮崎市穴山の先人 

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前村長 小泉信太郎氏
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元小笠原小学校(明野)校長 小泉民彌氏
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勲八等 小泉実氏
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 元甘利小学校校長 藤本彦重氏
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元北巨摩郡書記 山寺元義氏
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元村会議員 山田栄太郎氏
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 元村会議員 山田範薫氏
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元小学校校長 山田一志氏
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真田信尹の足跡 須玉町大蔵 

山梨県 真田家史蹟 甲府市 真田の屋敷

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高坂弾正の右斜め下 甘利備前守屋敷と並ぶ。

武田勝頼 韮崎新府城図 


北杜市 高根町出身の作家 窪田精さんのこと

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高根町出身の作家 窪田精さんのこと
『郷土高根』2003 坂本一免氏著 一部加筆
 
 窪田精さんと呼ばれているが、ペンネームです。本名は同じ字で窪田精(くわし)、そしてわが町高根町と云うより北巨摩地区いや山梨県と誇ってもよい大作家で、県立文学館発行の冊子「山梨の文学」の現代作家の頁に林真理子と並んで載っていて、館内には著書が多数収蔵されている。
 大正10年(1921年)415日安都那村に生まれ、今年82才。父義盛母ふさの長男。家は呉服商であったが倒産し農業に転じる。(家屋は現在も東ノ割に残っている)弟2人妹1人の4人兄弟、弟さんの窪田和男氏は東京高根会会長。
 安都尋常高等小学校(現高板東小学校)高等科214才の夏、単身東京へ出て、印刷工場他各種職業に従事しながら英語学校、工科学校等の夜学に通う。
17才のときアメリカへ密航を企てたが残念ながら失敗し逮捕されて日本へ送還された。この頃、プロレタリア文学を友人から教わる。送還後、大衆演劇の世界に入り芸名久保田純を名乗り19才であった。
無産者階級をテーマにした公演を右翼団体から襲撃され治安警察法で検挙投獄される。5年の実刑の内38ヶ月は流刑囚として中部太平洋の激戦の島と云われたトラック島に送られ飛行場作りに酷使された。
戦況悪化し補給路を断たれ、囚人部隊1500人の9割が餓死するなか奇跡的に生き残り終戦。釈放され横須賀に戻る。
戦後、全国的に組合運動が急激に盛り上がり昭和22年(1947年)2月いわゆる21ゼネストが起き、これに全国医療従組協議会青年行動隊長として参加する。そしてこの頃からトラック島での苦難を材料に久保田純の筆名でルポルタージュを書き、この後窪田哲の筆名で「囚人部隊全滅せり」を発表、職業作家の道を歩み始める。井上光晴、五味川純平、小田実らと共に新戦後派などと呼ばれマスコミにも登場する。
ここから始まり戦後50数年に亘り書いた原稿はしめて349編、400字詰原稿用紙で計2万余枚、積みあげると2メートルの高さとなるそうな。超多忙の作家生活が長く続く。この忙しさの中で作家宮本百合子らが創立した新日本文学会に早くから参加し、以後に革新派の作家、文芸評論家が多く参加する日本民主主義文学同盟を創立しその事務局長を経て、議長を16年間つとめた。日本文芸家協会の会員にも推され、また戦後一貫して戦争反対の運動を続け、平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)の代表世話人を14年間も勤め作家活動と組織活動に全勢力を注入する。然もこれだけではない。 
この外にも昭和40年(1965年)米軍爆撃下のべトナムに行きホーチミン大統領と会見したり、革命直後のキューバのカストロ首相に招待されたり、昭和41年(1966年)中国の文化大革命の最中にアジア・アフリカ地域130ヶ所の作家が集って開かれた会議に日本代表として参加。昭和47年(1972年)には日ソ文化交渉日本文学同盟代表者として訪ソもしている。
数多い著書は常に「戦争と人間」の問題をえがき「流人島にて」「鉄格子の彼方へ」「夜明けの時」の長編三部作をはじめ、「トラック島日記」「春島物語」「死者たちの島」「遠いレイテの海」「たたかう北ベトナム」「キューバの旅」「海霧のある原野」等など、其の他にも多数の著作が並ぶ。列挙の作品の中に小林多喜二・宮本百合子賞を二回受けている。
山梨県内の事を描いたものに「石楠花村日記」「霧の南アルプス」「八ヶ岳」「雁ガ腹摺山「富士山頂まで」「白い歩道橋」には清里が出てくる。等の作品がある。
(附記)
平成141026日高根町農村環境改善センターホールにおいて演題「ふるさと高根町と私の文学」の講演会を当会主催で開催。小学校同窓生をはじめ近隣の方、民主文学会、革新懇会員等など町内外から160名を超す多数の来場者があり盛会裡に終了。67年ぶりの帰郷であった。
 

信玄公旗掛松碑(長坂町日野春駅)清水倫茂

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信玄公旗掛松碑(長坂町日野春駅)
『郷土高根』2003 山田博幸氏著 一部加筆
 
平成14710日大きな雨台風が来ているので要注意と云うニュースに参加者は一抹の不安を抱きながらもバスに乗った。大粒の雨が車の窓ガラスにたたきつけるように降っていた。車が日野春駅に着いた時も雨は降り続いていたが皆下車し碑の見学をした。私は下車する勇気がなく車の窓越しに雨に濡れて建っている碑を眺めただけだった。でも心の中で倫茂とか公害訴訟碑の建立等断片的に思い浮かべてはいた。後日碑の見学記を書くようにと言われ改めて見に行った。高さ4mの仙台石に「信玄公旗掛松碑」と刻まれた立派な碑である。
清水倫茂氏が国を相手に22年の歳月と莫大な私財を投じて1本の老松の歴史を後世に伝えようとの思いで建てた碑である。最初松の木のあった所に建立費148円(昭和8年)で建てたが後日中央線複線工事の為現在の所に移された。
駅構内と云う公共の場に個人所有の碑があるので管理のむずかしさがあるようだ。又駅員や客待ちのタクシーの運転手に碑の事を聞いても何も知らないという。何か寂しい気もしたが考えれば明治36年から100年の歴史の流れと共に人々の碑への関心が変わるのも当然かと思いなおしその足で長坂資料館へ向かった。そこで関係の展示品や小学生の作ったパネル「旗かけの松の本」等を拝見し又大雨の中でも碑の見学をした人達のことを思いおこし心暖まる思いがした。
 
明治三拾六年敷設中央線之鉄條樹幹僅間余常吹付煤煙及水蒸気尚同以振動為之使樹齢短縮法之所認也這般碑建樹跡侍後世
 
大正十一年五月三十日
従六位弁護士藤巻嘉一郎撰 古屋邦美香
所有者甲村清水倫茂建之 石工当村古屋政義

韮崎市 新府城の埋蔵金

真田昌幸の事 東照宮御實紀卷四

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真田昌幸の事

東照宮御實紀卷四 天正十七年に始り慶長八年に終る。(抜萃)
 
豊臣関白軍威ますます盛にして。しらぬひや筑紫のはてまでも伐平らげ。島津義久も降參しければ。今は六十餘州のうちに東國の北條ばかりぞ猶從ハず。是により使を立て召けれどもさうなくうけひかず。(是より先に君北條と御和平有し時。甲信兩國は君の御領とせられ。上州をば悉く北條が領とすべしと約せられたり。
然るに上州の沼田は、眞田昌幸が領なればとて北條へ渡さず。よて北條より其旨君にうたへしかば、君眞田に沼田を北條へ渡すべし。其代地はに賜ハるべしと仰下さるゝと雖。昌幸胸中甚奇險にてこれに從はざるのみにあらず。終に當家を去て豐臣家へ歸降せり。さるゆへに眞田が命に應ぜざる罪を討せられんとて、御勢を沼田にむけらるれば、秀吉ひそかに越後の上杉に命じ、眞田をたすけて御勢を拒ましむ。今度北條を關白より召によりて北條使を登せ、眞田が所領を引渡すべしと仰下されんには、氏政父子快く上洛せんと申により、今度は關白よりの命にて眞田も止事を得ず沼田を北條に渡す。然りといへ共其うち奈胡桃の地は眞田代々の葬地なればとて。是は眞田が方に殘したり。然るを程なく北條又眞田が留守の家人を追出し其地を奪ふ。眞田又是を憤り其旨を關白に訴へなげく。關白是に於て北條が反覆常なしと怒らる。

天正十年(1582)武田滅亡(参考資料 『東照宮(家康)実記』)

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天正十年(1582)武田滅亡(参考資料 『東照宮(家康)実記』)

 武田勝頼・織田信長・徳川家康

家康 近年武田とは、結び触れたる中ながら勝の振舞いを疎み、密かに織田右府に下り甲州の案せんといへば。信長大に喜ばれ、その身七万餘兵にて伊奈口より向われる。信長の子、三位中將信忠卿は五万餘兵にて木曾口より向うと聞えければ、君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口より向はせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。
かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は、みな城を捨て甲斐の國へ迯歸る。   
家康の御勢は二月十八日松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へ至る。
信長は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには、國中の犬猫までも斬り捨てよとの軍令なりしが。こなたはもとより仁大度の御計らいにて。依田三枝などいへる降參の者等は。しろしめす國の山林に密かに身を潜め時を待つベシとて。内々惠み賑はしたまへり。
穴山陸奥入道梅雪は武田家の一門なりしが。是も勝を怨むる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地藏堂に參り君に對面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。
勝は梅雪・典廐・逍遙軒などいへる一門親戚にも思い離たれ。宗徒の家の子どもにも叛かれて。新府古府の住家をもあかれ出。天目山の麓田野といふ所まで彷徨い、その子太信勝と共に討たれたり。  
家康の御勢は蒲原興津より駿州井出の口をへ給ひ。甲州西郡萬座にすゝみ給へば。梅雪が案内し先鋒の諸將富士の麓八代郡文殊堂市川口より押し入たり。
こゝに成吉右衛門正一と云えるは、さきに當家を退し時甲州に在りしかば。武州士どもと親しい故に、今度仰を受けてかの輩を募り招きければ、もとより御仁愛は隣國までも及びし故、折井・米倉(武川衆)など云える者一番に歸順せり。
信忠卿古府へ着陣せられければ。家康もその所におはしまして對面したまい、又諏訪へ赴き給ふ。

信長は十四日波合にて勝父子の首を實撿せらる。

その時汝が父信玄は每度我等に難題を言いかけ困らせたり。首に成てなり共に上洛したと云いしと聞しが、汝父が志を継ぎて上洛せよ。我も跡より昇るべしと罵られ、頓て其首共を市川口の御陣へ送り見せ給ふ。 
家康は勝の首を白木の臺にのせ上段に直され。厚く禮を施し給ひ。今日かゝる姿にて對面せんとは思いもよらざりしを。若氣にて數代の家國を失はれし事の笑止さよ、とて御淚を浮かべ給へば。甲斐の國人どもかくと聞傳て。はやこの君ならずばと懐き慕い奉る。

信長は武田の舊臣ども上下の分かちなく。一々探し出して誅せらる。

家康は、かの者共生殘りて餓死せんも愛おしき事と憐れみ給ひ、甲信の間に名を得たる者をば、悉く駿遠の地に招きはごくませられ。又勝父子はじめその最期まで附從ひつる男女の亡骸共。田野の草村に算を亂して鳥獸の啄にまかせたるを、武田が世々の菩提所惠林寺も、織田家をはゞかりてとり治めんともせず。  
信長さすがにさるものゝ骸を露霜にさらさんは情なきに似たりとて。田野より四里へだゝりし中山の廣嚴院といふ山寺の僧に仰せて、その屍ども懇に葬らしめ。其所に一寺をいとなみ天童山景院とて寺料までよせ給ふ。これを見聞する遠近のもの。織田殿の暴政とは天淵の違かなとて感じ仰がざる者なかりしとぞ。
十九日には信長父子軍功の諸將士に勸賞行はるゝとて。川殿今度神速に駿州の城々責取給ふ。その功輕からずとて。駿河一國進らせらる。(烈祖織田殿に對し。今川氏眞は父義元より好みあり。駿河はかの家の本領なり。幸に氏眞いま松に寓居すれば。駿河を氏眞にあたへかの家再興せしめんかと仰ければ。
信長きかれ。何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば。我にかへしたまへとて氣色以の外なれば。やむ事を得ず御みづからの御領となされしといふ。)
梅雪入道も君に降りし事なればとて。本領の外に巨摩一郡をそへ與へ。永く川殿の旗下たるべしとて屬せらる。

さて信長國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ。かへさに駿河路をへて富士一覽あるべしとの事なり。そのあたりは家康しろしめす所なるがゆへに、其道すがらの大石を退け、大木を切り払い、道橋をおさめられ。旅舘茶亭を營み。所々にあるじ設けいとこちたく沙汰したまふ。近衛大政大臣前久公こたび北國の歌枕からまほしとて。右府にともなひはるばる甲斐まで下り給ひしが。幸なれば都のつとに富士をも一覽せまほしと宣ひしに。右府我さへ川が世話になればとてゆるされねば。相國ほいなく木曾路より歸洛ありしとぞ。

(相國は右府にしたがひ柏坂の麓までおはし。然も下に座し奏者をもて。まろも駿河路にしたがはゞやと宣ひしを。信長馬上にて近衛。おのれは木曾路をのぼらせませといはれながら打過られしとぞ。倨傲粗暴のありさま思ひやらるゝ事にこそ。)

卯月のはじめに信長は甲斐八代郡姥口より富士の根方を分いられ、阿難迦葉坂をへて上野が原井出の邊にて富士を見給ひ。昔鎌倉の右大將家狩倉の古跡などまでたづね、大宮の旅舘にわたらせられしかば。家康こゝに侍迎へて饗し給ふ。道道の御設ども御心をつくされしを。右府あまたゝび感謝し給ひ。一文字の刀。吉光の脇指。龍馬三疋進らせらる。

日をへて富士安部川をわたり田中の城に泊られ、また大井川天龍川を越て松の城におはしつきぬ。大河にはみな舟橋を架られしかば右府ことに感ぜられ。その橋奉行にも祿あまたかづけらる。松にはこと更あるじ設け善美をつくさせ給ふ。今度勍敵を打亡し甲信まで一統する事。全く年頃君辛苦せさせ給ふによれりとて。右府あつく謝せらるゝあまり。今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは。全く東國征伐の備なりしが。今かく一統せしからにははや用なし。御家人等こたびの賞に賜はるべしとて。ことごとくその軍糧引渡され。また酒井忠次が吉田の城にもやどられ。忠次にも眞光の刀にこがね二百兩そへて賜はりぬ。

 
天正十年五月、家康は信長の居城近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪も従い奉る。信長おもたゞしき設ありて幸若の舞申樂など催し饗せられ、自らの配膳にて御供の人々にも手づからさかなを引れたり。信長やがて京へのぼらるれば、家康にも京堺邊まで遊覽あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五秀一といふ。)といへる扈從を案にそへられ。京にては茶屋といへるが家(茶屋四次。本氏は中島といふ。世々豪富之。)を御旗舘となさるべしとて。萬に二なく沙汰せらるれば。家康は先立て都にのぼらせ給ひ和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるゝならむ。都にかへり信長父子にも對面すべし。汝は先參て此よし申せとて、御供にしたがひし茶屋をば先にかへさる。 
又六月二日の早朝かさねて本多平八忠勝を御使として。今日御歸洛あるべき旨を信長に告げさせ給ふ。

家康も引つゞき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都にのぼらんと。河の交野枚方邊まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乘て、追かけかけ來る者を見ればかの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世は早これまでにて候。今曉明智日向が叛逆し。織田殿の御旅舘にをしよせ火を放て責奉り。織田殿御腹めされ中將殿も御生害と承りぬ。此事告申さんため參候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ飯盛山の麓まで引返したるを、君遙に御覽じそのさまいかにもいぶかしくおぼし召。御供の人々をば遠くさけしめ。井伊。榊原。酒井。石川。大久保等の輩のみを具せられ。茶屋をめしてそのさまつばらに聞給ひ。御道の案に參りし竹丸を近くめし。

我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。もし今少し人數をも具したらんには。光秀を追のけ織田殿の仇を報ずべしといへども。此無勢にてはそれもかなふまじ。なまなかの事し出して恥を取んよりは。いそぎ都にのぼりて知恩院に入。腹きつて織田殿と死をともにせんとのたまふ。竹丸聞て。殿さへかく仰らる。まして某は年來の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申。さらば平八御先仕れと仰ければ。忠勝と茶屋と二人馬を並べて御先をうつ。御供の人々は何ゆへにかくいそがせ給ふかと。あやしみ行ほど廿町ばかりをへて。忠勝馬を引返し石川數正にむかひ。我君の御大事けふにきはまりぬれば。微弱の身をもかへりみず思ふ所申さゞらんもいかゞなり。家康年頃の信義を守り給ひ。織田殿と死を共になし給はんとの御事は。義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。去ながら織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば。いかにもして御本國へ御歸り有て軍勢を催され光秀を追討し。彼が首切て手向給はゞ、田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。石川酒井等是をきゝ。年たけたる我々此所に心付ざりしこそ。かへすべすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞召れ。我本國に歸り軍勢を催促し。光秀を誅戮せん事はもとより望む所なり。去ながら主從共に此地に來るは始なり。しらぬ野山にさまよひ。山賊一揆のためこゝかしこにて討れん事の口おしさに。都にて腹切べしとは定たれと仰らる。其時竹丸怒れる眼に淚をうかめ。我等悔しくもこたび殿の御案に參りて主君㝡期の供もせず。賊黨一人も切て捨ず。此まゝに腹切て死せば冥土黃泉の下までも恨猶深かるべし。あはれ殿御歸國ありて光秀御誅伐あらん時。御先手に參り討死せんは尤以て本望たるべし。たゝし御歸路の事を危く思召るべきか。此邊の國士ども織田殿へ參謁せし時は。皆某がとり申たる事なれば。某が申事よもそむくものは候まじ。夫故にこそ今度の御道しるべにも參りしなりと申せば。酒井石川等も。さては忠勝が申旨にしたがはせられ。御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにて候といさめ進らせて。御歸國には定まりぬ。

穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。
よて後に光秀も。討ずしてかなはざる川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、命の拙さよとて後悔せしといへり。)竹丸やがて大和の十市がもとへ使立て案をこふ。忠勝は蜻蛉切といふ鑓提て眞先に立。土民をかり立り立道案せ、茶屋は土人に金を多くあたへ道しるべさせ。河の尊圓寺村より山城の相樂山田村につかせ給ふ。こゝに十市より案内いにとて吉川といふ者を進らせ。

真田源太左衛門尉信綱略歴 真田昌幸の鎧

北杜市の真田氏史蹟 須玉町大蔵小林寺 真田隠岐守信昌

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大蔵地域を近くの丘から望む
遠くの山は八ヶ岳
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須玉町大蔵には知られていない中世・江戸遺跡が多く残る。


遺された祠の中には 意味不明の物が祀られている事がある

真田隠岐守の知行地 山梨県 慶長・寛永時代 

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真田の足跡は、長坂町上条龍岩寺
       須玉町大蔵少林寺

参考 三枝土佐守知行地
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参考 屋代越中守知行地

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北杜市の歴史 真田隠岐守知行地一覧

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真田隠岐守知行地一覧
『須玉町史』通史編 第一巻 近世社会の成立 一部加筆
 
慶長古石高帳 
寛永元年
現市町村名
長坂上条村 巨摩郡
343,78 
 343,78
北杜市長坂町
大井ケ森村 巨摩郡
33,18
 
北杜市長坂町
村山北割村 巨摩郡
558,37
 558,37
北杜市高根町
小 倉 村 巨摩郡
639,67
 639,67
北杜市須玉町
中 丸 村 巨摩郡
69,29
  69,29
北杜市長坂町
大 蔵 村 巨摩郡
575,88
 575,88
北杜市須玉町
松 向 村 巨摩郡
92,69
  92,69
北杜市長坂町
黒 沢 村 巨摩郡
610,27
 610,27
北杜市高根町
下条東割村 巨摩郡
41,00 
  41,00 
韮崎市
上条中割村 巨摩都
12,55
  12,55
韮崎市
藤 田 村 巨摩郡
48,00
  48,00
南アルプス市若草
11か村             302,468 
10か村      299,187
 

真田氏 

真田氏は、信濃国真田郷を発祥とする滋野一族の豪族である。
町域(須玉町)に所領を持っていた真田氏は、戦国期に武田氏に仕えた真田幸隆(幸綱)の四男信昌の系統である。
真田隠岐守信昌は、武田信玄・勝頼に仕え、一時は真田氏を出て甲斐の国衆である加津野氏の名跡を継ぎ、加津野市右衛門尉と名乗り、武田氏の奉行衆となっていた。加津野市右衛門尉が奉者となった武田氏宋印状は数点確認されている。
天正一〇年(一五八二)に武田氏が滅亡し、徳川家康が甲斐に入国すると、加津野市右衛門尉はいち早く家康に属し、天正壬午の乱に際しては徳川方として、武田遺臣の懐柔に活躍した。特に、北条氏直に属していた実兄真田昌幸を徳川方に誘引するための工作に、依田信審とともにあたり、ついに昌幸を徳川方とすることに成功し、北条氏直軍の補給路を遮断して、北条氏を甲斐・信濃から撤退させた(「譜牒余録」)。この功績により、信昌は家康から褒賞され、金五〇両を与えられている(『寛永諸家系図伝』等)。
その後、一時徳川氏から離れて豊臣大名蒲生氏郷に属していたというが、詳細は判然としない。また、信昌がいつから加津野氏から旧姓の真田氏に復したかも明らかでない。
 記録に真田信昌が再び登場するのは、慶長一九年(一六一四)一月二七日に江戸幕府から屋代秀正・三枝昌吉とともに甲斐国巨摩郡において一万五〇〇〇石を給与され、その配分を指示された文書である(「屋代家文書」)。この際に、真田信昌に与えられたのは三、〇〇〇石であった(表11)。
 信昌は、徳川氏の御便番となり、大坂の陣に参戦して活躍した。特に、大坂冬の陣終了後、家康の密命を受けて、大坂方に属していた甥の真田信繁(幸村)を訪ね、徳川方へつくように説得、信繋がこれを断つ…とは有
名である(「真田家御事続稿」)。信昌はその後、御旗奉行に進み、知行地はそれにあわせて一、000石加増さ
れた。
 信昌は甲斐の知行地を支配するために、大蔵村に屋敷を構え、知行地の村の農業を安定させるために堰の開発を行っていたことが知られており、小倉村の井堰は真由隠岐守の援助によって整備されたことが伝えられている。
 甲斐国は元和二年(一六一六 一説に同四年)から徳川忠長が入封し、甲斐国の津金衆・小尾衆・武川衆をはじめ、屋代氏・三枝氏などの旗本もすべて忠長の家臣団に編入されたが、真田信昌のみはこれに配属されず、幕府直臣の旗本としての地位を保った。幕府から徳川忠長家老に宛てた忠長領地目録の中に、真田隠岐守領三、〇〇〇石が除外されて記述されているのはそのためである(「東武実録」)。
こうした事情から、真田氏は寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易に連座して追放、蟄居といった奇禍を免れている。
寛永八年五月、暦日は八八歳の長寿をもって病没し、その家督は長兵衛幸政が継いだ。相続に際して幸政は、実弟内蔵助信勝に一、〇〇〇石を分与している。幸政は、幕府の目付などの要職を歴任し、承応二年(一六五三)一月に病没している。
真田氏の所領は、その後どのような経緯をたどったのかについては、不明の点が多い。宝暦二年(一七五二)の巨摩郡大蔵村の村明細帳によれば、万治三年(一六六〇)に取り払われたとの記述がある。実は真田氏の系譜は、幸政没後にその子左兵衛幸信が相続するが病没し、嗣子がなかったために改易処分になったといわれる(『寛政重修家譜』)。ところが系譜では、没年が「某年」とあり不明とされているのである。もし大蔵村の明細帳に記載されている伝承が事実とすれば、真田幸信は万治三年(一六六〇)に病死し、嗣子なきにより改易とされ、真田領は幕府に接収されたと考えられる。

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真田丸 大坂夏の陣図屏風

真田信尹の墓『山梨県史跡名勝記念物調査報告書』

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真田信尹の墓
『山梨県史跡名勝記念物調査報告書』
北杜市長坂町 龍岸寺
北杜市須玉町 大蔵 少林寺
  1. 名称  真田隠岐守信尹の墓
  2. 所在地 北巨摩郡日野春村長坂上条(現長坂町) 龍岸寺境内
  3. 地目  共葬墓地
  4. 地籍  村有地
  5. 所有者 龍岸寺
  6. 現状  
墳塋は寺背の境内共同墓地中に在りて、元は五輪塔ありしものの如きも、現今はその残骸を留め、形式計りに三基並立せり。而し後の世の寄せ集めにて名残りを有せしに過ぎざるも、石質形状環境より帰納して、古色蒼然当時のものたるや、略は窺知することを得る。年代法名等何等記する所なく、確実に立証すべき資料に乏し、側に三塔の石塔あるも何れも文字摩滅し、石剥ぎ落として容易に読み能わざるも、辛うじて判読すれば左の如し。
 
     寛永九年(一六三二)
    1. 為 真田無齊居士造立之(長さ三尺六寸 幅六寸)
       五月四日
       
      寛永七年(1630
    2. 為月浦宗香大姉造立之
      七月五日
       
      承応二年(1653
    3. 為樹山林白大居士
       
      正月五日
    4. 寂照院殿明岸了大居士
      延宝八年(1680)五月四日卒
 
 一、は真田隠岐守信尹。
二、は信伊夫人。
三、は長子長兵衛。 
四、は次子左兵衛の墓。
 
信伊は真田幸隆の四男昌幸の弟なり。「大三川志」に幸孝又は信昌とあり。初宇は源二郎、信玄に仕え、加津野氏を継ぎ、市右衛門と称せり。勝頼の亡き後、本姓の真田に復し、北條氏に属し、天正十二年(1584)家康に仕え 食禄二千石を賜わる。天正十八年(1590)遠山直政と志を家康に通じ、江戸城の戌兵を遂、信伊入城して家康を竣つ、功により一萬石を併せ領せしが、加恩が少ないのを恚(いか)り、去って豊臣秀吉に就きぬ。後に蒲生氏郷に属し、食禄六千石を賜わりしが、後に再び徳川家康に召還せられ、甲斐国三千石を賜わり、使番旗奉行となり、一千石を加増され、文禄中(159295)隠岐守に叙爵せらる。子幸政、信勝並びに子孫幕府に仕える(野史)。
信伊、甲斐国地頭となり、三千石を賜わり、食邑(村)を左の如し。
 
  1. 高 三百四十三石七斗八升 長坂上条村
  2. 高 三十三石一斗八升   大井ヶ森村
  3. 高 五百五拾八斗三升七合 村山北割村
  4. 高 六百三拾九石六斗七升 小倉村
  5. 高 六十九石六斗七升   中丸村
  6. 高 五百七拾五石八斗八升 大蔵村
  7. 高 九拾弐石六斗九升   松向村
  8. 高 六百拾石弐斗九升   黒沢村
 
この他
  1. 高 四拾一石
  2. 高 拾二石五斗七升
  3. 高 四拾八石
  4. 高 四拾八石
  5. 高 拾八石
総計  三千四拾三石九升(慶長六年郷村高帳による)
 
『甲陽軍鑑』に云う、永禄十六年(註、永禄は12年まで)、駿州深沢にて、北條左衛門大夫が「地黄八幡」の差物を捨てたのを源次郎に賜う。『難波戦記』に云う、隠岐守は黄色旗に八幡と書たるを差すと即是也。
『甲斐国志』に云う、加津野市右衛門と名を改め、加津野氏の跡目となる。壬午(天正十年 1582)の後、本姓に復し幕府に奉仕し、小田原、大阪等の役に御使番を勤める。
『甲斐国志』云う、真田隠岐守の宅蹟は、北巨摩郡穂足村大蔵区にありしと。
現今神主赤岡巽氏の屋敷は即之なりと云う。大蔵は隠岐守所領の地なり、依ってこの地に居宅を構えしならん。
  1. 微證物件
  1. 麻上下     一着
  2. 馬の笞(むち) 一本
  3. 馬杓      一個
  4. 陣笠      一個
  5. 弄泉奇鑑    十三冊
 真田氏の使用せるものなることは、一見疑いを容れる余地なし。
 何れも真田家の六文銭を附せり。
  右書は天保七年(1837)春、後藤真田長兵衛寄贈の由緒書あり。

****参考資料『須玉町史』****

慶長古石高帳 
寛永元年
現市町村名
長坂上条村 巨摩郡
343,78 
 343,78
北杜市長坂町
大井ケ森村 巨摩郡
33,18
 
北杜市長坂町
村山北割村 巨摩郡
558,37
 558,37
北杜市高根町
小 倉 村 巨摩郡
639,67
 639,67
北杜市須玉町
中 丸 村 巨摩郡
69,29
  69,29
北杜市長坂町
大 蔵 村 巨摩郡
575,88
 575,88
北杜市須玉町
松 向 村 巨摩郡
92,69
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