↧
中江藤樹 画像・略歴
↧
小堀政一 画像・略歴
↧
↧
浅野長政 画像・略歴
↧
白州町の観光&歴史&文化 白州ふるさと文庫・山口素堂資料室編集
↧
藤原惺窩 画像・略歴
↧
↧
山田長政 画像・略歴
↧
古写真 東海道五十三次 川崎
↧
古写真 東海道五十三次 神奈川
↧
古写真 東海道五十三次 日本橋
↧
↧
古写真 東海道五十三次 戸塚
↧
名画 菜の花 杏 李
↧
名画 菜の花 杏 李
↧
名画 菜の花 杏 李
・
↧
↧
貴重資料 舞楽 散手と貴徳
・
↧
武川衆 米倉氏考案 竹束
・米倉丹後守重継
米倉左大夫の兄、丹後守重継は名将であった。
◇ 『寛政重修諸家譜』
『寛政重修諸家譜』の重継の譜によれば、
「代々武田家に仕え、甲斐国武川に任す。天文二十一年八月、信濃国苅屋原城攻めのとき、はじめて竹束を作り、これを攻め、遂に其の城を乗っ取る。のち甘利某が陣代となり、しばしば戦功あり。天正三年(一五七五)五月二十一日長篠の役に戦死す。法名空心。山梨郡小屋敷村恵林寺に葬る。妻は牧野原氏の女。」と見えている。
◇ 戦陣における銃弾の防具、竹束の創意
丹後守重継の特筆すべき事績は、戦陣における銃弾の防具、竹束の創意である。竹束とは、竹を束ねて楯とし、銃弾を防ぐもので、軽くて堅牢で、当時の銃丸の威力に十分に堪えたので、たちまち全国に普及したのである。
『大言海』は竹束の解説を次のように記す。「竹束、竹を束ねたるを楯とするもの。銃丸を防ぐに用いる。天文の頃、甲斐の武田氏の士、米倉丹後守の創意という。」と。
◇ 『姓氏家系大辞典』米倉氏の項
「天文二十一年(一五五二)信玄、信州小笠原氏の老臣会田弥助を苅屋原城に攻めし際、米倉丹後守重継、はじめて竹束を製し、鉄抱を防ぐ。これ日本竹束の起原なりという。」とある。
『寛政重修諸家譜』によれば、米倉家の記載を丹後守重継の子女関係系図を整理してみよう。
重継 (丹後守)
―晴継 (彦次郎、駿河薩埵山にて討死)
―忠継 (主計助)
―種継 (丹後守、忠継の嗣となる)
―豊継 (左大夫)
―利継 (彦大夫)
―女子
―満継(加左衛門尉)
米倉丹後守重継と、その長男彦次郎晴継にまつわる逸話が、『甲陽軍鑑』に見える。まず父重継の武略をたたえ長文のものである。
『甲陽軍艦』米倉丹後守重継の武略
永禄五年(一六五三)戊の二月二十八日に、信玄公甲府を御立あり、三月北条氏康子息氏政、武田信玄公子息太郎義信公、両家合せて四万六千余にて松山の城を攻め給うに、武田勢の先衆甘利左衛門尉、より口から城ちかく取よせ、城の内より降参仕る。子細は、甘利殿同心頭米倉丹後守と云う弓矢巧者の武士、よき工夫の故、天文二十一年壬子に信州刈臣原の城を信玄公攻め取り給う時、甘利左衛門尉より口にて、竹を束ね持ちて立て置き、城際へ寄り、跡を崩しては操り寄りに仕り、甘利家中よく働き、諸手に勝れ候て此の城を攻落すこと、悉皆米倉丹後守武略の故、かくの如し、今度松山においても米倉丹後を武田の諸人まね、竹ばかりにも限らず杭柱までからげ集め、武田の語勢是を竹克と名づけて城近く付寄するは、根本刈屋原の城において、竹を束ねて米倉丹後守付よりて、味方の手負すくなく利運にしたる故なり。米倉丹後、信玄公の二十人衆頭とて倅者頭(かせものがしら)なれ共、いくさの時御便にありき、武篇度々の覚ありて弓矢にはたばり有る故、所領を下され、甘利同心頭に定めあづけ下さる。件の竹束にて松山の城弱り、あけて北条へ渡し、氏康公の利運になるは城の早く落つる事、米倉が武略、竹束の故なり、
↧
素堂の知友 儒官人見竹洞と雲龍寺
↧
山口素堂 宗長庵記 板版 『宗長庵記』
『宗長庵記』
連歌の達人舊庵宗長居士は、当嶋田の郷にして、父は五条義助、母なん、藤原氏なりける。若年の頃今川義元公につかへ、故ありてみづから髪を薙出、華洛にのぼり、種玉庵宗祇法師にま見え、連歌を学び、道既長じて宗祇の宗をうけつぎ、斯道の規範として猶歌仙に人丸赤人有がごとし。性行脚を好み、江山を友とし岩上樹下を家となして風月に宿る事いまさらいふに及ばず。記詞花言葉・新撰筑波集・北国の道之記及び宇津の山の記にのこれり。然共宗祇居士、牲丹花翁のごとく世にいひ傳へたる事多からず。同国の東北にあたつて天柱山のふもと柴屋といふ所に両居士は文亀年中相州箱根山にて終たまふよし、宗長居士は享禄元年弥生初の六日と計傳へきて桂城の地きはめてさだかならず。此郷にて出生の事はうたがふ所なし。よつて郷人風雅の旅人をやどさしめむとおもひたつこと久し。予たまたま此郷にやどりて聊きく所をしるしさりぬ。他日よくしれらん人、記つきたまへ、
元禄辛巳(十四年)二月五日 武陽散人素堂書
宗長庵は、元禄年間(1688~1704年)に島田宿の俳人・塚本如舟(つかじょしゅう)が室町時代の連歌師宗長を偲んで建てた庵
↧
↧
〇老中土浦城主、土屋但馬守数直卒 祖先は甲斐武田家臣
〇 四月二日 老中土浦城主、土屋但馬守数直卒、年七十二。
土星数直は、忠直が二男なり。元和五年西丸につけられて近仕し、寛永元年十二月叙爵、大和守にたり、五年総州にて五百石の地を賜ひ、九年十一月進物番、十八年七月五日、書院番組頭、慶安元年十月二十七日、小姓組番頭になり、但馬守に改め、承応五年元月十八日、 側の衆となり、明暦三年十二月、前々より禄しばしばまして五千石になり、寛文二年二月二十二日、若年寄になり五千石を加へ(一万石)、元年十二月二十三日、老中に列し、四品に進み、六年七月二十八日、地をまして(三万五千石)、元年六月、又一万石をまされ、土浦城を賜ひ、十年十二月侍従に進み、此の日卒す。さりし寛永九年に、台徳公上洛の時、数直罪を得て屏せしが、僣かに登りて、京の西仮に寓居せしを、公より召されて、其の罪をゆるして、元の如く近仕せしむ。
【割注】〔土屋相模守〕
武田勝頼の最期に劇的に活躍した武将、土屋惣藏を祖に持つ家系で、武田家では譜代家老衆を勤めた。
甲斐大善寺、神変堂(役所者堂也。元禄十三年(1700)土屋相模守建立と伝え云う。
土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に九万五千石となる。奏者番、大坂城代、京都所司代を経て老中に就任、元禄十一年(1698)に老中首座となり四人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、七代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは三問中二問を答えることができた政直のみだったという。
享保四年(一七一九年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、三年後に八二歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。茶道を嗜み、小堀遠州流の門人の一人でもある。また、元禄赤穂事件の関係者であった従甥の土屋逵直の次男好直を養子に迎えている。
↧
◎ 二十六日、四代将軍家綱の葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。
◎ 二十六日、四代将軍家綱の葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。
庚申五月五日
厳有公疾劇なり、継嗣未だ定まらず、館林宰相綱吉卿を召て養子とす。
厳有公、疾日に重くして、世嗣未定まらざりしかば、大老酒井忠清等はかりて、密に京師に請ふて、有栖川幸仁親王を迎へて、将軍になさんとの議あり。
堀田備中守正俊、独り其の議に従はず、親弟館林宰相を以て、義子とせんと請ふ。諸老皆同意せず、此の夜正俊一人、将軍の林下に就て、之を申し、急に宰相を召す。時に忠清以下老臣皆退きぬれば、正俊一名の奉書なり。事尤も急なりければ、宰相は優に曾我因幡守祐人を具し、馳至る。大手門を入る頃、牧野備後守成貞追付たり、夜中の事にてはあり、急なる召、何事ならんと成貞深く危ぶみ思ひしにや。黒書院まで側を離れず、従ひ参る。正俊出向つて先導し、成貞に向ひ、今夜の召は吉事なり、疑懼に及ばざる旨、神に誓つて申せしかば、成貞も始めて心を安んじて退きぬ。
かくて林下に至られしに、正俊独り公の側に侍して直命あり、養子として大任を継がしめんとの旨なりしに、綱吉卿是天下の大事なり。一身を顧みて、徒らに遜譲すべきにあらず、然れども、御疾未だ太甚に至らず、先いかにも御養療こそあらほしきとて、其の夜は神田の邸に還られたり。此の事夜明けて後に、忠清、正則等は始めて之を知りしと云。
六日、綱吉卿登営、病林に就て密命を蒙る。又館林の城は、卿の世子徳松をして相続せしめ、家臣領地旧の如くなるべしとの直命あり。奏者番久世出雲守重之供奉して、又神田の邸に還る。今夜より、大手桜田の南門を警厳す。七日、綱吉卿二の丸に還、忠清、正則等の老臣、正俊も同じく来り迎へて、本丸に至り、面命して、権大納言に任じ、伝家の宝刀(正宗の刀、国光の指添)を授けられ、過て二の丸に還る。甲府綱豊卿、紀伊光貞卿父子、水戸光囲卿父子、及び家門溜詰の大名、皆二の丸に登りて、世嗣たることを拝賀す。八日酉の刻将軍厳有公薨ず。九日、喪を発し、遺命を伝ふ。当時大老酒井雅楽頭忠清、老中稲葉美濃守正則、大久保加賀守忠朝、土井能登守利房、堀田備中守正俊、若年寄松平因幡守信興、石川美作守乗政なり。十日、諸大名登営、二の丸に至りて候問す。是より連日、発引に至りて止む。十三日、前代近習以下の諸臣落髪す(儒髪の者は、羽織袴にて事に従ふ)。十四日、霊柩を発す。北別橋より出でて東叡山本坊に遣る。本丸は堀田正俊、石川乗政留守し、二丸は、側衆内藤若狭守重療宿直す。十六日、日光門跡守澄法親王俄に疾んで粟ず。附弟天真法親王、急に京都より下向あるべきに定まる。二十六日、葬礼を行ふ。石蓋の銘は。人見友元之を書す。(云々)
↧
大名行列絵巻部分
↧