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素堂の事跡
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毛越寺阯大泉池より鐘楼跡を望む
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古写真 赤目峡谷 琵琶滝
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古写真 猿橋
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古写真 史蹟 百済寺西塔阯
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古写真 小仏峠阯
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古写真 近江柴香楽宮阯
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古写真 六義園
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芭蕉像 松雲作
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天保五年 富士山大出水
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聖徳太子 国宝
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御儒役 人見友元法眼(竹洞)と素堂
『三河記』 御儒役 人見友元法眼(竹洞)
資料「一話一言」太田南畝著
〔筆註〕山口素堂と人見竹洞は特別な関係であり、これまでの素堂像を大きく変える要因を含んでいる。(詳細は別記)そこには文学研究者の弛まざる取り組みから生まれている。
素堂の江戸屋敷は広大な土地と家宅があり、さらに幕府関東郡代で著名な伊那半十郎の屋敷を抱え屋敷として所有する。この抱え屋敷は芭蕉庵と包含する土地である。(別記)その素堂亭を竹洞や多くの幕府漢学者が訪れ詩作を披露している。
今回はその人見竹洞に関する記事である。
三河記改め出来に付き、貞享三年(1686) 十二月十八日に将軍(綱吉)より時服二つ、銀二十枚を拝領被仰付候。右の通り申し伝え他委儀相知不申候以上。
〔当時、林家の国役を出せる帳にも御儒役林大学頭とあり〕
西山翁云、是は世にある処の武徳大成記(三十巻)なるべし。公儀へ上しものゆえわざと名を代えて世に伝えし也。其の家の書名には「武成余談」とあり。林祭酒の説に「松栄紀事」は「武徳大成記」なり。
素堂の知友、人見友元事蹟 『武徳大成記』
堀田氏の家系に、
天和三年十一月九日、御当家御記録御改被成候旨、阿部豊後守正武、堀田下総守正仲両人吟味可仕旨仰付候
貞享二年八月五日下総守御用掛リ御免
『営中日記』
天和三年十一月十三日ノ条ニ
御書物御用被仰付候 阿部豊後守 堀田下総守 可受差図旨被仰付候
林春常 人見友元 木下順庵
貞享三年九月七日
御記録出来差上候ニ付
時服十 阿部豊後守
銀二十枚 時服三 林春常
銀二十枚 時服二 人見友元 木下順庵
銀五十枚 弟子五人へ
右者御書物御用被 仰付候ニ付被下之
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馬場美濃守のこと『村乃あゆみ』名所旧跡の項 馬場氏の居跡
こうした記述が伝播して誤伝となる。
馬場美濃守のこと『村乃あゆみ』名所旧跡の項 馬場氏の居跡
白須西方の広野に馬場美濃守信房の宅跡がある。郷社若宮八幡神社の南方で東西凡そ二丁余南北二丁。今は全部田畑となっているが四周に掘り跡があり、なお邸内に一條の濠を通した跡がある。邸園の跡とおぼしき辺に梨の老木があってその地名を「梨の木」と呼んで居る。古色蒼然たる石祠の屋根石が「梨の木」の有ったと云う藪陰に在る。その南方に一條の低地が在る、そこより高橋の清水と称する冷水が湧き出し自然の谷をなしている。その谷の南方一帯の地を大庭と云う。馬場の跡らしくも思える。その南殿町部落より竹宇に通じる右直に沿いたる地に門が有ったと見え、今に礎石が存して有る。この居跡の北方丘陵の上に姫塚と称する塚がある。里人は信房の墓と称すれども疑わしい。盖しその縁辺の人の墳墓ならん。この丘陵の地は自元寺の故地なると称し現に同寺の所有である。
「姫塚」は若宮八幡神社の左方に現在もあり、遺骨については織田信長の娘との説もあり、姫塚は現在の前沢、かつては門前と呼ばれた)の北原の地に墳墓があり、ここを「姫塚」と呼び墳墓を整備したがその後この場所には作物が育たなかったと云う話もある。また北原の墳墓からは装飾品が出てきたが今は一部を残して不詳との事である。又若宮八幡神社の周辺は現在の国道が通る事となり、その時には多くの五輪の塔が地下に埋められたとも伝わるが、一部は好事家の手にあったが後禍を恐れて戻したとも伝わる。
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山梨県 歴史誤伝 市川団十郎の初祖を探る
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