馬場美濃守信房
(信州下郷起請文永禄十年(1567)名押アリ、野州小野寺修験江田松本坊蔵系作ニ「信武」ニ「箕輪軍記」同之宜従焉「信玄全集」、「三国志」、「軍鑑大全」、「伝解」等皆為ニ「信房」一或改名カ未詳、「異本徳川記」作「信政」衰余作ニ「氏勝」者多シ。「烈祖成績」云、今従播州班鳩寺過去帳為氏勝、按ニ播州ハ遠境ナリ、有所縁人偶修追福ニヤ、寺僧ノ所記豈足徴乎最難信也、「北越軍談」ニ云信房後ニ改信里、未知所証疑フアラバ空言ノミ) 軍鑑云、天文十五年武河衆教来石民部都ヲ擢テ五十騎士隊将トシ、馬場氏ニ改メ民部少輔卜称ス(「三代記」云、馬場伊豆守虎貞卜云者直諌信虎所殺戮、無嗣晴信立令教来石民部景政為紹馬場氏之杷□云々、虎貞之事未知明拠故不采、教来石ハ武河筋ノ村名ナリ、彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人称之カ為氏族者本州ニ所見ナシ)永禄二年(1559)加騎馬七拾合為ニ百弐拾騎、此内ニ小幡弥三右衛門(小幡山城庶男)、金丸弥左衛門、早河弥三左衛、門平林藤右衛門、鳴牧伊勢守、鵄(トビ)大弐(本卜根来法師也、長篠ニテ飯崎勘兵衛卜名乗リ討死ストイウ、其弟ハ二位)是等皆既勇ノ稗将ナリ、同八年(1565)授美濃守、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ令外人避ケシム最モ規模トスル所ナリ、明年十月信州牧島城代トナル、信玄ヨリ七歳長セル人ニテ信虎ノ代ヨリ功名アリ道鬼日意力兵法ヲ伝へ得タリ、場数二十一度ノ証文其方一身ノ走リ回リ諸手ニ勝レタリト、褒賞セラルルコト九度ニ及ベリ、戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創痕ヲ被ル無シ。智勇常ニ諸将ニ冠タリトイウ、旗ハ白地二黒ノ山道、黒キ神幣ノ差物ハ日意ヨリ所乞受ナリ、天正三年(1582)五月廿一日長篠役軍ニ散シテ、勝頼ノ馬印遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還リ、傍ニ小岡ニ坐シ、大ニ喚テ云、馬場美濃守ナリ、今将就死卜終ニ刀柄ヲ握ラス、安然トシテ首級ヲ授ク(諸記ニ深沢谷ニテ塙九郎左衛門内、河合三十郎討之「参河国墳墓記」ニ馬場募濃守信政ノ墓ハ長篠橋場近所ニ在シテ、元禄中毀シテ為畠馬場ハ須沢トイウ所ニテ討死信長ノ幕下岡三郎左衛門獲首賜感状三河国政績集ニハ須沢出沢ニ作ル)法名乾叟白元居士(武川筋白須村白元寺ノ牌子ナリ)
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)
・馬場美濃守の事績については甲斐国志に「天文十五年武河衆教来石民部ヲ擢デ五十騎ノ士隊将トシ馬場ニ改メ民部少輔卜称ス、
・永禄二年騎馬七十ヲ加へ合テ百二十騎卜為ス、
・同八年美濃守ヲ授ク、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ外人其ノ称ヲ避ケシム、最モ規模トスル所ナリ。
・明年十月信州牧ノ島城代トナル、信玄ヨリ七歳前ノ人ニシテ信虎ノ代ヨリ功名アリ、道鬼(山本勘助)日意(小幡)ガ兵法ヲ伝へ得タリ、
・場数二十一度ノ証文ニ其方一身ノ走り回り諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝ事九度ニ及ブ、
・戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創ヲ被ルコト無シ、
・智勇常ニ諸将ニ冠タリト云フ、
・旗ハ白地ニ黒ノ山道、
・黒キ神幣ノ差物ハ日意より迄受ケシ所ナリ、
・天正三年五月廿一目長篠ノ役軍己ニ散ジテ勝頼ノ馬印シ遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還り小岡ニ傍フテ座シ大ニ喚デ云フ、
馬場美濃守ナリ、今将ニ死ニ就カントスト、終ニ刀柄ヲ握ラズ安然トシテ首級ヲ授ケリ、法名ハ乾叟自元居士」とある。
【註】
智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
〔教来石景政、初陣〕
享禄四年(1531)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。
その勇に誇り悪行募ったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景政も武川衆の一隊長(?)としてその幕下に加わった。
天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。
〔馬場民部景政〕
天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、
〔馬場民部少輔〕
十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、さらに十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶碓山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
〔馬場美濃守信春〕
この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴
牧伊勢守、平林藤右衛門、鵄(とび)大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。
翌永禄三年十月、信春は牧島城の城代となる。
永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てると確信する」と進言した。馬場信春は「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべく味方の犠牲を少くするために慎重な作戦をたてるべきである」と慎重論を提言した。そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。
そこで本隊は八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じます」と進言した。いわゆる〝きつつき戦法″である。信玄はこれを採用した。妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。しかし甲軍の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全域を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦となった。妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。
卯の刻(午前六時) から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信春であったと「甲越川中島戦史」などで伝えている。このとき信春は四十七歳であった。
その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、追撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃などの奮戦によってこれを破る。
信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏其の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかけては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いのたねになる。構わぬ焼やしてしまえ」と曲輪内に大挙して踏み込み、片っ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
田中城は馬場信春の縄張りによったものである。信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房に縄張り致さすべしといったという(武田三代軍記)。馬場美濃守は築城の名手でもあった。
元亀三年(1572)十月、馬場、山県隊の甲軍徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが籠る二俣城(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。馬場信春は、尋常な手段では城は落とせない、城で使っている天竜川の取り入れ口を破壊し城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣城は忽にして混乱が起きた。それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、城将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
この時、浜松城にいた徳川家康は二俣城を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。武田勝頼、馬場信春、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚ぐるの手初めなれは信玄の大事是にすぐべからず」と(武田三代軍記)三方ケ原において徳川軍と戦う。家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきつた。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(武田三代軍記)
翌元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信春にも〝老″いが迫っていた。信春は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
二つ 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
三つ 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
四つ 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
五つ 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
信春が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信春が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
天正二年一月、勝頼岩村城付城一入城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を武田三代記は「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申さん、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚鱗に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、少しも猶豫ふ気色なく真一文字に突懸れば信長取る物も取会敢ず、捨鞭を打って引返さる」と記している。
天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもって固める長篠城を包囲して攻めたが、容易に城内に侵入することができなかった。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。
武田勢は長篠城を挟み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバックに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、これに向えば不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再検を図るよう」と進言した。このとき跡部勝資は「一戦も交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに若(し)かず」とし、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意したので老臣たちは軍議の席を蹴って「御旗・楯無鎧、ご照覧あれ」と退去した。
これらの重臣は、信春の陣地大通寺山に集まり「この合戦が武田家への最後になるだろう」と討死の覚悟で別れの水盃をした。
五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。
馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく間に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。
馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度が、願わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必勝ち弓矢の面目既に立ったず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。
馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待ち請け、勝頼の御無事を見届け、長篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよと、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死(武田三代軍記)。
長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。
馬場民部少輔
美濃守男ナリ、「大宮神馬奉納記(武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に、多数の武田家臣が神馬奉納を行ったことに関する記録)」ニ神馬五匹(同心共ニ)トアリ、天正壬午ノ持氏部信州深志城ヲ衝ル(「三国志」ニ倍春ニ作ル、一書ニ「氏員」又「信頼」ニモ作ル、或云、信頼ハ信房ノ甥ナリ、戦死ノ後家督セリト皆無明証)「縮年集成」天正七年(1579)(九月沼津ノ条ニ馬場民部昌行卜云者アリ、天正壬午七月記ニ北条氏直信州ニ入ル、馬場右馬助房勝(美濃氏勝二子)其外国人ヲ郷導トシ、碓日峠ヲ越ユトイウ、女婿ハ「軍鑑」ニ信州丸子(「大全」作、三右衛門)、「伝解」ニ初鹿伝右衛門(「岩淵夜話」ニ所記初鹿ノ伝ニアリ、可互照)鳥居彦右衛門(「関原記大全」所記ナリ、家系ニハ形原ノ家広女ハ鳥居ノ妻ナリ、即チ、左京売忠政、土佐守成次ノ母卜云)按ニ馬場民本州ニ旧ク之アリ、
一蓮寺過去帳ニ、長禄四年(1460)十二月廿七日臨阿(馬場参州)文明ノ頃(1469~86)(年月日無記)来阿(馬場中書)浄阿(馬場民部)金阿(馬場小太郎)下ノ郷信州起請文六河衆ノ列ニ馬場小太郎信盈花押アリ(是ハ永禄中ナリ 1558~69)後年マデ彼筋ニ二土著セル馬場氏ノ事ハ士庶部ニ詳ニス、教来石、白須、台ガ原、三吹、逸見ノ小淵沢等伝領セリ、民部信春トイウ者ヲ擢出シ、軍将ニ而己命ス、元来ノ馬場氏卜見エタリ、木曽千次郎義就ノ家老ニ馬場半左衛門昌次トイウ者アリ、後ニ幕府ニ仕へ尾州義宣郷ニ附属セラル、彼先祖ハ木曽義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村讃岐ノ守卜称ス、家村ノ第三男ヲ常陸介家景トイウ、始メ馬場ヲ以テ氏卜為シ、数世ニシテ半左衝門ニ至ルト云ウ。