河中島五箇度合戦記 第一回合戦
信州五郡の領主村上左衛門尉義清は、清和源氏伊予守頼義の弟で、陸奥守頼清の子、白河院蔵人顕清が初めて信州に住むようになり、それから四代目の孫に当たる為国、その子基国の後胤である。高梨摂津守政頼も、伊予守頼義の弟井上掃部頭頼季三代の孫に当たる高梨七肺盛光の子孫である。井上河内守清政も高梨の一族。須田相模守親政も一家。島津左京進親久は、頼朝の子島津忠久の子孫に当たって、いずれも信州の名家である。これらの人々が甲州武田信玄に負けてみな越後に落ちのび、長尾景虎(謙信)を頼って来たのでぁる。中でも村上義清は、多年武田と戦っていたが、とうとう負けて、天文二十二年五には月に越後に落ちのび、謙信の力を頼って、自分の領地坂本の城に帰ることができるのを心から望んでいた。
謙信はこの年間二月初めて京都に上った。二十四歳の時である。これは、前の年の天文二十一年五月に、勅使、将軍の使があって、謙信は弾正少弼従五位下(だんじようひようひつじゆごいのげ)に任ぜられた。このお礼のため京都に上ったのである。謙信は京都御所に参り昇殿をゆるされ、後奈良天皇に拝謁し、天盃をいただいた心また将軍義輝公にお目見えして、いろいろねんごろなお言葉を受けて、五月に帰国したところ、六月村上義清が落ちのび、謙信を頼りにした。その上高梨政頼、井上清政、須田親政、島津親久、栗田、清野などがそろって越後を頼り、その助力を願った。それで同年十月十二日、田浜で勢ぞろいをして信州に向かって出発した。
途中、武田についている者どもの領分には火をかけて焼き払い、自分の館にひっこんで手向かいをしない者の領分はそのままかまわずに通り、十一月一日に川中島に陣を取った。
晴信(信玄)も二万の兵をひきいて出陣した。同十九日から二軍の間は四キロ足らずで毎日小競り合いとなった。二十七日に謙信から平賀宗助を使者にして、明日決戦をすることを申し送り、その備えを定め、夜のうちに人数を出した。先手は長尾平八郎、安田掃部、(かもん)それに長尾包四郎、元井日向守((ひゆうがのかみ)清光、同修理進(しゆりのしん)弘景、青河十郎を左右に備えた。左の横槍は諏訪部次郎右衛門行朝、水間掃部頭利宣とし、奇兵は、長尾七郎景宗、臼杵包兵衛、田原左衛門尉(さえもんのじよう)盛頼。二番手は小田切治部(じぷしようゆう)少輔勝貞、荒川伊豆守義遠、山本寺宮千代丸(後の庄蔵行長)、吉江松之助定俊、直江新五郎実綱と定めた。後陣は長尾兵衛尉景盛、北条丹後守長国、斎藤八郎利朝、柿崎和泉守景家、宇佐美駿河守走行、大国修理亮などの面々を七手に分け、四十九備えとしてそれを一手のように組んで円陣を作り、二十八日の夜明けごろから一戦を始めた。武田方も十四段の構えに備え防戦し、敵味方ともに多くの負傷者、戦死者を出した。下米宮橋を中心として、追いつめ、押し返して、昼近くまで合戦の勝負はつかなかった。しかし、越後方は千曲川の橋から上流を乗り越え、武田勢の後方にまわったので、武田方は敗れ、横田源介、武田大坊、板垣三郎など戦死、また駿河から応援に来た朝比奈左京進、武田飛騨守、穴山相模守、半菅善四郎、栗田讃岐、染田三郎左衛門、
帯兼刑部少輔など名のある人々を含んで甲州方の戦死者は五千余りにのぼった。それで十二月三日、京都公方に戦の経過を注進する。大館伊予守が披露する。これが謙信と信玄との戦いの始めである。
そのころ、謙信は長尾弾正少弼( だんじようしようひつ)と号していた。関東管領の上杉憲政は北条氏康に圧迫され、越後に内通し、管領職と上杉の姓、憲政の一字を下されたが、管領職は辞退し、謙信は景虎を改め政虎と名乗るようになった。これは天文二十三年(一五五四)春のことであった。
河中島五箇度合戦記 第二回合戦
天文二十三年八月初め
謙信は越後を発ち川中島に着き、丹波島に陣を取った。越後の留守居として、謙信の姉婿に当たる上条の城主の上条入道、山浦主水入道、山本寺伊予守、大国主水入道、黒金上野介、色部修理、片貝式部の七人にその勢八千を残した。謙信は川中島に陣を張り、先手は村上義清、二番手は川田対馬守、石川備後守房明、本庄弥次郎繁長、高梨源五郎頼治の四人である。後詰(応援)は柿崎和泉守景家、北条安芸守長朝、毛利上総介広俊、大関阿波守規益の四人である。それに遊軍として、本庄美作守慶秀、斎藤下野守朝信、松川大隅守元長、中条越前守藤資、黒川備前為盛、新発田長敦、杉原壱岐守憲家、上条薩摩守、加地但馬守、鬼小島弥太郎、鬼山吉孫次郎、黒金治部、直江入道、山岸宮内、柏崎日向守、大崎筑前守高清、桃井讃岐守直近、唐崎左馬介、甘糟近江守、神藤出羽介、親光安田伯音守、長井丹後守尚光、烏山因幡守信貞、平賀志摩守頼経、飯盛摂津守、竹股筑後守春満など二十八備え、侍大将が二行に陣を張り、旗を進めた。宇佐美駿河守定行二千余、松本大学、松本内匠介千余は旗本脇備えである。総軍の弓矢奉行をつとめるのは、謙信の姉婿に当たる上田政貴で、飯野景久、古志景信、刈和実景の四人は、みな長尾という同名で謙信の一門である。これで越後勢は合わせて八千である。犀川を越え、綱島丹波島原の町に鶴翼の陣を取った。
武田晴信も同十五日に川中島を通って、海津城に入り、十六日に人数を繰り出して、東向きに雁行に陣取った。先手は高坂弾正、布施大和守、落合伊勢守、小田切刑部、日向大蔵、室賀出羽介、馬場民部の七組で、七百の勢が先手に旗を立てて進んだ。二番手には真田弾正忠幸隆、保科弾正、市川和泉守、清野常陸介の四人が二千の兵をひきいて続き、後詰は海野常陸介、望月石見守、栗田淡路守、矢代安芸守の四人で二千七百。遊軍は仁科上野介、須田相模守、根津山城守、井上伯音守の五人、四千の軍勢である。これを二行に立てて陣を張り、総弓矢奉行は武田左馬介信繁、小笠原若狭守長詮、板垣駿河守信澄の三人の備えとなった。旗本の先頭は、飯事二郎兵衛昌景、阿止部大炊介信春、七宮将監、大久保内膳、下島内匠、小山田主計、山本勘介、駒沢主祝の八人で、信玄の本陣の左右には、名家の侍の一条信濃守義宗と逸見山城守秀親(信玄の姉婿)が万事を取りしきり、そのほかには下山河内守、南部入道喜雲、飯尾入道浄賀、和賀尾入道、土屋伊勢、浜川入道の六人が二千の兵と陣を敷いた。そして日夜お互いに足軽を出して戦いの誘いをかけたが、なかなか合戦にはならなかった。
天文二十三年八月十八日
朝はやく、越後方から草刈りの者二、三十人出し、まだうす暗いうちから駆けまわり、それを見て、甲州の先手の高坂陣から足軽が百人ばかり出て、その草刈りを追いまわした。かねての計略であったので、越後方から村上義清と高梨政頼の足軽大将である小室平九郎、安藤八郎兵衛ら二、三百人の者が夜のうちから道に隠れていて、高坂の足軽ども全部を討ち取った。これを見て、高坂弾正、落合伊勢守、布施山城守、室賀出羽介の陣から百騎あまりの者が大声を上げて足軽勢を追いたてた。そして、上杉方の先手の陣のそばまで押し寄せて来たところを、義清、政頬の両方の軍兵一度にどっと出て、追い討ちをかけ、武田勢百騎を一騎も残さず討ち取ってしまった。そのため、高坂、落合、小田切、布施、室賀などの守りが破れ、元の陣まで退いていった。武田方は先手が負けて退いたてられるのを見て、真田幸隆、保科弾正、清野常陸、市川和泉などが第二陣から出て、勝に乗って追いたてていった上杉勢を追い返して、陣所の木戸口まで迫り、義清、政頼も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。
謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをとの川中島古戦場跡にたつ謙信と信玄の像え、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。
そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみ義清、政頬も危なく見えた。この時、二番手から越後方の川田対馬守、石川備後守、高梨源五郎の三隊、そのほか遊軍の中から、新発田尾張守その子因幡守、杉原壱岐守の五隊が二千ばかりの兵と、ときの声をあげて駆け出て、武田勢を追い散らして戦った。そのうち、真田幸隆が傷を受けて退くところを、「上杉方の高梨頼治」と名乗って、真田にむんずと組んで押しふせ、鎧の脇のすきまを二太刀刺した。保科弾正はそれを見て、「真田を討たすな、者どもかかれ」と戦った。真田の家人細谷彦助が、高梨源五郎の草ずりの下をひざの上から打ち落した。つまり主人の仇を取った。これから保科を槍弾正と言うようになったという。保科もその時、越後方の大勢に取りこめられて、危なく見えたが、後詰の海野、望月、矢代、須田、井上、根津、河田、仁科の九人がこれを見て、保科を討たすな、と一度にときの声をあげて、追い散らした。越後の本陣に近いところまで切りかかってきたところ、越後の後詰斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家、北条安芸守、毛利上総介、大関阿波守など三千あまりが切って出て追い返し、押しもどして戦った。この戦いで、敵も味方も、負傷者、戦死者を多く出し、その数は数えきれぬほどであった。
謙信は紺地に日の丸、白地に「毘」の字を書いた旗を二本立て、原の町に備えをととのえ、その合戦が続いた。そのうちに信玄は下知して、犀川に太い綱を幾本も張り渡して、武田の旗本大勢がその綱にすがって向こう岸に上り、芦や雑草の茂った中の細道から、旗差物を伏せしのばせて出て、謙信の旗本にときの声を上げて、にわかに切り込んで来た。そのため、謙信の旗本はいっぺんに敗れ、武田方は勝に乗じて追い討ちをかけて来た。信玄は勇んで旗を進めたところに、大塚村に備えを立てていた越後方の宇佐美駿河守定行のひきいる二千ばかりの軍が、横槍に突きかかり、信玄を御幣川に追い入れた。そこに越後方の渡辺越中守が五百余騎で駆けつけ、信玄の旗本に切ってかかり、宇佐美の軍とはさみうちに討ち取った。武田勢は人も馬も川の水に流されたり、また討ち取られた者も数知れなかった。そのうちに謙信の旗本も戻り、越後方上条弥五郎義清、長尾七郎、元井日向守、沼野掃部、小田切治部、北条丹後守などが信玄の旗本を討ち取った。その他、青川十郎、安田掃部などは御幣川に乗り込み、槍を合わせ太刀で戦い名を上げた。手柄の士も多かった。しかし討ち死にした者も数多かった。
信玄も三十ばかりの人数で川を渡って引き1げるところを、謙信は川の中に乗り込んで二太刀切りつけた。信玄も太刀を抜いて戦う時、武田の近習の侍が謙信を取り囲んだが、それを切り払った。しかし、なかなか近づけず、信玄も謙信も間が遠くへだてられた。その時、謙信に向かった武田の近習の士を十九人切った謙信の業は、とても人間の振る舞いとは思われず、ただ鬼神のようであったといわれる。謙信とはわからず、甲州方では越後の士荒川伊豆守であろうと噂されていた。後でそれが謙信とわかって、あの時討ち取るベきであったのに残念なことをした、とみなが言ったという。
信玄は御幣川を渡って、生萱山土口の方に向かい、先陣、後陣が一つになって負け戦であった。甲州勢は塩崎の方に逃れる者もあり、海津城に逃げ入った者もあった。
中条越前が兵糧などを警護していたところ、塩崎の百姓数千がそれを盗みに来たため、中条がこれを切り払った。このためまた、武田、上杉の両軍が入り乱れてさんざんに戦った。両軍に負傷者、死者が多く出た。信玄は戦に敗れて、戸口という山に退いた。上杉勢がこれを追いつめ、そこで甲州方数百を討ち取った。
信玄の弟、左馬介信繁が七十騎ばかりで、後詰の陣から来て、信玄が負傷したことを聞き、その仇を取ると言って戻って来た。その時、謙信は川の向こうにいた。左馬介は大声で、「そこに引き取り申されたのは、大将謙信と見える。自分は武田左馬介である。兄の仇ゆえ、引き返して勝負されたい」と呼びかけた。謙信は乗り戻って、「自分は謙信の家来の甘糟近江守という者である。貴殿の敵には不足である」と言って、川岸に馬を寄せていた。
待っていた左馬介主従十一人が左右を見ると敵はただ一騎である。信繁も、「一騎で勝負をする、みな後に下っているよう」と真っ先に川に入るところを、謙信は川に馬を乗り入れ、左馬介と切り結んだ。左馬介は運が尽きて打ち落され、川に逆さまに落ち込んだ。謙信は向こうの岸に乗り上げ、宇佐美駿河守が七百余で備えている陣の中に駆け入った。一説には武田左馬介信繁を討ち取った者は村上義清であるともいう。上杉家では、左馬介を討ち取ったのは、謙信自身であったと言い伝えている。甲州では信玄は二か所も深手を負い、信繁は討ち死にしたのである。板垣駿河守、小笠原若狭守も二か所、三か所の負傷で敗軍であった。
越後勢も旗本を切り崩されて敗軍したが、宇佐美駿河守、渡辺越中守が横槍に入り、信玄の旗本を崩したのに力を得て、甲州勢を追い返して、もとの陣に旗を立て、鶴翼の陣を張ることができた。
この時の戦
天文二十三年甲寅八月十八日。
夜明けから一日中十七度の合戦があった。
武田方二万六千のうち、負傷者千八百五十九人。戦死者三千二百十六人。越後方は負傷者千九百七十九人、戦死者三千百十七人であった。
十七度の合戦のうち、十一度は謙信の勝、六度は信玄の勝であった。
謙信は旗本を破られたが追い返して、もとの場所に陣を張ることができた。
武田方は信玄が深手を負い、弟の左馬介戦死、板垣、小笠原なども負傷したため、陣を保てず、夜になって陣を解いて引き上げた。
謙信も翌日陣を解き、
十九日には善光寺に逗留して、負傷者を先に帰し、手柄を立て名を上げた軍兵に感状証文を出して、
二十日に善光寺を引き払い、越後に帰陣した。
これが天文二十三年八月十八日の川中島合戦。
第二回川中島合戦< 甲府市 史>
天文二十四年(一五五五)
晴信、信濃川中島で長尾景虎と対戦する(「 甲府市 史」)
(上略)去程此年七月廿三目、武田晴信公信州へ御馬ヲ被出侯、
村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎ヲ奉頼、同景虎モ廿三目
二御馬被出侯而、善光寺二御陣ヲ張被食候、武田殿ハ三十町
此方成リ、大塚二御陣ヲ被成侯、善光寺ノ堂主栗田殿ハ旭ノ
域二御座候、旭ノ要害へそ武田晴信公人数三千人、サケハリ
ヲイル程ノ弓ヲ八百張、鉄胞三百挺入候、去程二長尾景虎、
再次責侯へ共不叶、後ニハ駿河今川義元御扱ニテ和談被成侯、
閏十月十五目、隻方御馬ヲ入被食候、以上二百日ニテ御馬入
申侯、去程二人馬ノ労レ無申計侯、(下略)(「勝山記」)
〔解説〕(「 甲府市 史」)第二回川中島の戦い
天文二十二年(一五五三)四月、晴信は念願の村上義溝の葛尾城を攻め落し、信濃の大半を掌中にした。
村上氏は越後へ逃れ、長尾景虎を頼って、その援助によって、再度、小県郡に復帰していた。
これによって長尾景虎との川中島をめぐる争いが始まる。
天文二十四年七月には、両老が川中島へ出陣し、晴信は大塚に陣を敷いた。景虎も善光寺へ着陣し、十九目には両軍が川中島で対戦した。
その後、善光寺の堂主であった栗田氏は旭城に籠って景虎を牽制し、晴信は旭城に兵三千人と弓八百張、鉄砲三百挺とを送り込んでいる。両者対陣のまま閏十月に及び、晴信は今川義元に幹旋を頼んで景虎と和睦し、ようやく両者は川中島から兵を引いた。
これを第二回川中島の戦いという。
<筆註>武田方の鉄砲三百挺の記事は注目される。
河中島五箇度合戦記 第三回合戦
弘治二年丙辰(一五五六)
三月、謙信川中島に出陣、信玄も大軍で出向し陣を張った。日々物見の者を追いたて、草刈りを追い散らし、足軽の小競り合いがあった。
信玄のはかりごとでは、戸神山の中に信濃勢を忍び込ませて謙信の陣所の後にまわり、夜駆けにしてときの声を上げて、どっと切りかかれば、謙信は勝ち負けはともかくとして千曲川を越えて引き取るであろう。そこを川中島で待ち受けて討ち取ろうとして、保科弾正、市川和泉守、栗田淡路守、清野常陸介、海野常陸介、小田切刑部、布施大和守、川田伊賀守の十一人の、総勢六千余を戸神山の谷の際に押しまわし、
信玄は二万八千の備えを立てて、先手合戦の始まるのを待った。先手十一隊は戸神山の谷際の道を通って、上杉陣の後にまわろうと急いだが、三月の二十五日の夜のことである。道は険しく、春霞は深く、目の前もわからぬ程の闇夜で、山中に道に迷い、あちこちとさまよううちに、夜も明け方になってきた。
謙信は二十五日の夜に入って、信玄の陣中で兵糧を作る煙やかがり火が多く見られ、人馬の音の騒がしいのを知り、明朝合戦のことを察し、その夜の十時ごろに謙信はすっかり武装をととのえて八千あまりの軍兵で、千曲川を越えた。先陣は宇佐見駿河守定行、村上義清、高梨摂津守政頼、長尾越前守政景、甘糟備後守清長、金津新兵衛、色部修理、斎藤下野守朝信、長尾遠江守藤景九組の四千五百。二番手に謙信の旗本が続いて、二十五日夜のうちに、信玄の本陣に一直線に切り込み、合戦を始めた。
信玄は思いもよらぬ油断をしていた時で、先手がどうしたかと首尾を待っていたところに越後の兵が切りかかった。
武田方の飯富兵部、内藤修理、武田刑部信賢、小笠原若狭守、一条六郎など防戦につとめた。しかし、越後方の斎藤、宇佐美、柿崎、山本寺、甘敷、色部などが一度にどっと突きかかったので、信玄の本陣は破れ、敗軍となった。その時板垣駿河守、飯富、一条など強者ぞろいが百騎ばかり引き返して、高梨政頼、長尾遠江守、直江大和守などの陣を追い散らし、逃げるのを追って進んで来るところを、村上義清、色部、柿崎などが、横から突きかかって板垣、一条などを追い討ちにした。小笠原若狭守、武田左衛門、穴山伊豆守など三百騎が、「味方を討たすな、者どもかかれ」 と大声で駆け入って来た。
越後方でも杉原壱岐守、片貝式部、中条越前、宇佐美、斎藤などが左右からこの武田勢を包囲して、大声で叫んで切りたてた。この乱戦で信玄方の大将分、板垣駿河守、小笠原若狭、一条など戦死、足軽大将の山本勘介、初鹿野源五郎、諸角豊後守も討ち死にした。二十五日の夜四時ごろから翌二十六日の明け方まで、押し返し、押し戻し、三度の合戦で信玄は負けて敗軍となり、十二の備えも追いたてられ討たれた者は数知れなかった。
謙信が勝利を得られたところに、戸神山よりまわった武田の先手十一組、六千余が、川中島の鉄砲の音を聞き、謙信に出し抜かれたかと我先に千曲川を越え、ひとかたまりになって押し寄せた。信玄はこれに力を得て引き返し、越後勢をはさみうちに前後から攻め込んだ。前後に敵を受けた越後勢は、総敗軍と見えたが、新発田尾張守、本庄弥次郎が三百余で、高坂弾正の守る本陣めがけて一直線に討ちかかり、四方に追い散らし、切り崩した。
上杉勢は一手になって犀川をめざして退いた。
武田勢は、これを見て、「越後の総軍が、この川を渡るところを逃さず討ち取れ」と命じ、われもわれもと甲州勢は追いかけて来た。上杉勢は、退くふりをして、車返しという法で、先手から、くるりと引きめぐらし、一度に引き返し、甲州勢の保科、川田、布施、小田切の軍を中に取りこめて、一人残らず討ち取ろうと攻めたてた。
信玄方の大将、河田伊賀、布施大和守を討ち取り、残りも大体討ち尽くすころ、後詰の栗田淡路、清野常陸介、根津山城守などが横から突いて出て、保科、小田切の軍を助けだした。越後の諸軍は先手を先頭にして隊をととのえて、静かに引きまとめ犀川を渡ろうとした。そこへ、信玄の先手、飯富三郎兵衛、内藤修理、七宮将監、跡部大炊、下島内匠、小山田主計などが追って来た。本庄美作、柿崎和泉、唐崎孫之丞、柏崎弥七郎などが、引き返して戦っているところに、新発田尾張守、斎藤下野守、本庄弥次郎、黒川備前守、中条越前守、竹股筑後守、その子右衛門など八百あまりが柳原の木陰からまわって来て、それぞれに名乗り、何某ここにあり、そこをひくなと大声で叫び、一文字に突いてかかった。
そのため甲州勢はもとの陣をさして退いた。越後勢は勝って、その足で川を越え、向こうの岸に上がった。甲州勢はなおも追いかけようとひしめいたが、越後方の宇佐美駿河守が千あまりで市川の渡り口に旗を立て、一戦を待つ様子に恐れ、その上、甲州方は夜前から難所を歩きまわり、疲れているのに休む間もなく四度も合戦になったため、力も精も尽き果てて、重ねて戦うだけの気力をなくした。
甲州本陣にいた軍兵が代わりに追討軍を組もうとしたのを信玄は厳しく止めたので、一人も追っ手は来なかった。越後勢はゆっくり川を越して、はじめの陣所に引き上げた。
この日の合戦は夜明けの前に三度、夜が明けてから四度、合わせて七度の戦いで、越後方戦死三百六十五人、負傷者千二十四人。甲州方の戦死者は四百九十一人、負傷者千二百七十一人と記した。中でも、大将分小笠原若狭守、板垣駿河守、一条六郎、諸角豊後、初鹿野源五郎、山本勘介をはじめ、信玄の士の有名な人びとが討ち死にしたので翌二十七日に信玄は引き上げた。謙信も手負いの者、死人など片づけ、軍をまとめて引き上げた。
弘治二年三月二十五日の夜から、二十六日まで、川中島の第三度の合戦であった。
第三回川中島合戦
晴信感状(天文二十四年(一五五五)七月十九日(「 甲府市 史」)
晴信、遠光寺の土橋氏に感状を与える
今十九、於信刀朋更科郡川中嶋遂一戦之時、頚壱討掩之条神
妙之至感入侯、弥可抽忠信者也、仍如件
天文廿四年乙郊、
七月十九日晴信(「晴信」朱印)
土橋対馬守との(「甲州古文書」)
晴信、川中島への出陣を報ずる
弘治三年(一五五七)
十一日之注進状今十四目戊刻着府、如披見老越国衆出張之由
侯哉、自元存知之前候条不図出馬候、委曲於陣前可遂直談候
趣具承候、飯富兵部少輔所可申趣候、恐々謹言
(弘治三年)三月十四目 晴信(花押)
木島出雲守殿原左京亮殿(「丸山史料」)
〔解説〕(「 甲府市 史」)
第三回川中島合戦
葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪のために出陣することができず、晴信も三月十四日にはまだ甲府にいた。
そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出障するとの鞍に接し、自らも出馬すると伝えている。
四月十八日、景虎が川申島に出陣し、晴信は決戦をさげて安曇郡小谷城を攻め、
八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。
河中島五箇度合戦記 第四回合戦
弘治二年八月二十三日
謙信は川中島に出て、先年の陣所より進んで川を越えて、鶴翼に陣を張った。両度の陣と同じ陣形である。村上義清、高梨政頼を中心として、丸い月の形に十二行の陣立てである。信玄は二万五千の兵で出陣した。
今度の越後の陣取りは、長期戦とみえて、薪を山のように積んでおいたと、甲州の見張りの者が報告するのを、聞いて信玄は、「一日二日の間に、越後の陣に夜中に火事があるだろう。その時、一人でも進んで出て行く者があったら、その子孫までも罰するだろう」 と下知した。
すると、二十三日の晩方、越後の陣所より荷物を積んだ馬や、荷を持った人夫が出て、諸軍旗を立てて陣を解き、引き上げるようにみえた。甲州方の軍兵が、謙信が引き上げるのを逃さず追い討ちにしようとした。信玄は一の木戸の高みに上ってその様子をながめて、「謙信ほどの大将が、日暮れになって陣を払って退くようなことがあるはずがない。これを追ってゆけば必ず失敗である。一人も出てはならぬ」 と止められた。思ったとおり、その夜二時ごろ、越後の陣から火事があり、たいへんな騒ぎとなった。だが、信玄が厳しく命令して一人も出なかった。間もなく夜が明けて、越後の陣地を見渡すと、通り道をあけて、きちんと武装した武士が、槍、長刀を持って、六千ばかりが二行に進んで、敵が近寄るのを待ち受けていた。朝霧が晴れるにしたがって見わたすと、二行になった備えの左側の先手は長尾政貴、右側は宇佐美駿河守走行、松本大学、中条越前を頭として十備え、杉原壱岐守、山本寺伊予守、鬼小島弥太郎、安田伯者守などを頭として十二備えが続いている。
中筋は、紺地に日の丸の大旗、「毘」の字を書いた旗の下に、謙信が床凡に腰をかけて、一万あまりの軍勢がそれを取り囲み、敵を待ち受けていた。甲州勢はこれを見て、ここに攻め込めば一人として生きては帰れまい。この備えのあることを見破った信玄の智は計り知れない、ただ名将というだけでなく、鬼神の生まれ代わりともいうべきものだと、みな感じ入ったという。
その翌日、信玄は戦いの手立てを考えて言った。「夜中に甲州方一万の人数を山の木の陰にひそかに隠し、馬をつないである綱を切り越後の陣に放してやる、そして馬を追って人を出す。敵陣から足軽がこの放した馬に目をつけて必ず出て来るだろう。その時、足軽を討ち取るように見せかけて、侍百騎を出して越後の足軽を追いたてれば、謙信は、気性の強い武士であるから、百騎の勢を全滅しようと出て来るだろう。その時、足並みを乱して敗軍のようにして谷に引き入れ、後陣を突ききり、高いところから、矢先をそろえ、鉄砲を並べて、目の下の敵を撃て」 と命じた。
そこで、馬二、三頭の綱を切って越後の陣に追い放し、足軽五、六十人が出て、あちこちと馬を追い、かけ声をかけたが、越後の陣では、これを笑って取り合わず、一人も出なかった。
信玄はこれを見て、「謙信は名将である。このはかりごとに乗らない武士である」と言い、「しかし、大河を越えて陣を張るのは不思議である。信州の中に謙信に内通している者がいるようだ。大事にならぬうちに引き上げることにしよう」 と内談して、信玄は夜中に陣を引き払い、上田が原まで引き上げた。謙信は総軍で信玄と一戦、朝六時ごろから、午後二時すぎまでに五度の合戦があり、初めは武田が負け退いたが、新手が駆けつけて激しく戦い、越後勢は押したてられた。長尾越前守政景、斎藤下野守朝信などが盛り返し、下平弥七郎、大橋弥次郎、宮島三河守などが槍を振るって、武田勢を突き崩した。
また、上杉方の雨雲治部左衛門が横合いに突きかかり、道筋を突き崩した。宇佐美駿河守走行は手勢で、山の方から信玄の陣に切ってかかったため、甲州方はついに敗北した。翌日信玄は引き上げ、謙信も戻った。
この戦いで、甲州方千十三人の死者、越後方八百九十七人の戦死者。
弘治三年
3月10日
晴信感状(「甲州古文書」)
去る二月十五日、信州水内郡葛山の地において、頸壱つ討捕り候。戦功の至り感じ入り候。
いよいよ忠信抽んずべきものなり。よってくだんのごとし。云々
三月十日 晴信
土橋対馬守との
《『長野県史』》
弘治3年1・20《『長野県史』》
長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃征服の暴虐を記す。
弘治3年2・15《『長野県史』》
武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。
同郡長沼城の島津月下斎、大倉城に退く。
葛山衆は多く武田方に属し存続する。
弘治3年2・17《『長野県史』》
武田晴信、内応した高井郡山田左京亮に、本領^同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。
弘治3年2・25《『長野県史』》
後奈良天皇、伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。
ついで文永寺厳謁、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。
弘治3年2・25《『長野県史』》
武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、域を堅めさせる。
ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。
弘治3年3・23《『長野県史』》
武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落域の危機を訴え長尾景虎に救援を請う。
この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。
弘治3年3・28《『長野県史』》
武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。
弘治3年4・13《『長野県史』》