武田武将 一板垣駿河守信方
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
『甲陽軍鑑』諸記信形ニ作ル者多シ、『北越諸記』及『滋野世記』等ニ信春又信澄或為父子二人名皆非也、今武田八幡宮並ビ鎮目寺ノ棟札ヲ以テ訂定ス)
其先ハ板垣三郎兼信ヨリ継ク、世々武田家ノ族臣ナリ。
一蓮寺過去帳ニ
延徳二年(1490)十二月十七日逆修(板垣善満)
永正三年(1506)二月廿九日弥阿(板垣備州)
永正三年十二年十月十七日合戦討死重阿(板垣備州)
天文十二年(1543)八月廿三日住一房(板垣駿河殿老母道修)
年月欠ケテ無一脱心大笑居士(板垣駿河)
塩山ニ大永五年乙酉(1525)二月廿五日板垣左兵衛佐ノ湯薬種田寄附状アリ、」何レカ信方ノ父ナルヤ未ダ詳ニ知レズ、信方ノ戦死ハ勝山記ニ天文十七年(1548)二月十四日信州塩田原卜申処ニテ合戦トアルヲ正トス、(軍鑑同十六年八月二十四日上田原ニ於テ討死トス非ナリ)軍鑑云、同十一年(1542)諏訪ノ桑原ニ壁ヲ築キ信万ニ衛ラシム、是ヨリ後諏訪郡ノ城代タリ、按ニ武田家ニ職トイウハ治国ノ主吏ナリ、此時代ハ板垣、甘利ヲ両職トス、弥次郎ノ代マテ役セリ、出テ諏訪方ニ在ルト云コトハ覚束ナシ、晴信ノ治世ノ初輔弼ノ良臣卜称スル者士隊将ニ六人、足軽隊将ニ四人ナリ、皆信虎ノ時ヨリ勇名アリ、所謂六人ハ甘利備前、板垣駿河、飯富真部、原加賀、小山田備中、室住豊後、是ナリ、又日向大和、小宮山丹後ヲ加へ八人ト云ウ(一ニ荻原常陸モ八人ノ内ナリト云ウ、是ハ時代先キナリ)四人ト云ウ、原美濃守、横田備中守、小畑山城森、多田三八ナリ、後ニ山本勘助ヲ添テ「旗本ノ五人衆」卜称シ、又米倉丹後(亡姓名)ヲ加ヘ「七人ノ足軽隊長」ト云エリ、後又七人ノ隊将卜呼ベルアリ、山県三郎兵衛、馬場美濃守、内藤修理、高坂弾正、秋山伯耆守、土屋右衛門、甘利左衛門ナリ、此廿二人ハ希代ノ英雄後人ノ亀鑑卜為ス所ナリ、(近時二十四将ノ象図ヲ造ル者アリ、又十八将トモ四臣トモ号称セリ、皆無稽偽り飾ル所謬妄採ニ足ラズ、二十二将伝ノ説一帯附録ニ載ス)
武田武将 板垣弥次郎信憲
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
(軍鑑、信重ニ作ル諸記之ニ従フ、烈祖成積信惹憲卜為ス、蓋見ル所アリ、耳哉始信重ト云ウ、後之改ム)二ノ宮ノ社ニ蔵ム天文二十辛亥年(1551)七月十一日国中奉加ノ許状ニ板垣信憲、甘利昌忠ノ花押アリ、両職ノ許状上京伝へタ リ塩山ニ蔵ム、丙辰(弘治二年 1556)九月十一日、信憲印書千野村自徳院ノ薮林中ニ有ル所ノ矢箆竹ヲ召ス趣キ皆主吏タル文面ナリ、軍鑑云、信方死シ其男弥次郎代リテ諏訪ノ郡代卜為ル、食禄旧ノ如シ、天文廿一子(1552)年罪ヲ蒙リ其秩ヲ収メ、僚属ヲ剥テ幽セラル、後本郷八郎左衛門ノ為ニ殺害サル、其家断絶ス(但シ前ニ所記弘治中ノ印書ニ拠レハ天文廿一年ノ専一スルハ誤ナルヘシ。
武田武将 板垣左京亮信女
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
始於曽氏ナリ永筒中板垣ノ家迩ヲ継キ氏ヲ改メシム下郷起請文、又於曽ノ菅田社、於屋敷ノ六所社等ニ寄附状アリ、板垣ヲモ兼領セシ趣キナリ、軍鑑ニ小曽ノ板垣殿、又田中ノ板垣殿トアルハ勝頼ノ時駿州田中城衛固ニ在リシ故ナリ。
武田武将 板垣修理亮
『甲斐国志』巻之九十六 人物部第五 武田氏将師部 一部加筆
古戦録ニ信憲ノ子ナリ、真田ガ扶助ニ係リ、信州上田ニ在シト云ウ。