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三枝雲岱翁傳(六)明治十五年 72才 内国博覧会出典

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三枝雲岱翁傳(六)

斎藤操氏著『地歴の甲斐』第2号第6巻 一部加筆
 

明治十五辛巳年(七十二歳)

東京上野公園内に開かれたる内国絵画共進会に出品褒状を受ける。

 雪岱先生之碑に、

 先生是より先年七十一、其の作る所を絵画共進曾に出し褒状を得る。
と見える。翁年七十一といふは、明治十四年に当る。しかし絵画共進曾の開かれたのは明治十五年を以って最初とするのであるから、碑文の云うところは如何と思われる。
 絵画共進会は此の年十月一日より十一月二十日まで、農商努省主管の下に開催せられた。法令全書は、この会の細則をも規定しているが、その大要は次の如くである。
 会は、西洋画を除くの外流派の如何を問はず、新作を出陳することを許し、その出品物を第一区より第六区まで分類区別し各審査員は区毎に審査し、一方、観客の来観に任せた。
 翁は、「山水」及び「玉堂富貴」の二図を作製提出したが、会の終了後、其の一は甲府櫻耶馬場氏(開峡楼)、一は吉田の池谷氏に所蔵せられるところとなった。
 審査員は、慎重審査の末、銀印・鋼印・褒肋を優秀の作品に夫々輿へたが‥翁は褒状を受けた七十八名中の一員となる名声を享けた。そして更に‥明治天皇には十月二十四行幸‥
英照皇太后・昭憲皇太后には御同列にて十一月二十日行啓、会場を隈なく御巡覧、出陳絵画を御賞翫あそばされ給うた。
 此の会に嘗って、翁自ら上京はしないようであって、規定の認める代理人を差遣わしたものと思はれる。
 全開数百の画家中より選ばれて、この栄をかち得た翁にとっては、優れた丹青の技をひろく天下に認められたことは素よりであるが、甲斐にこの人あるを知らしめ峡中画壇のため
萬丈の気焔を吐き得た云いつべく、翁の画の生活の一頁を飾る華々しい好事であつた。
 

 翁、大略、明治十五・六年と推定せられるが宮内省の命により翁が屏風を描いたことに就いて一言附け加えたい。

 碑に、

 宮内省七十以上の者をして屏風を画かしむ、先生が是に與る。
 また、宮内省の文書にも、「古希ノ者絵画」に関するものが存するが、この事が明治何年に行はれたのか明かではない。しかし、小野八代麿氏(六十六歳)の談話に従えば、同氏十二・三歳の折に、この事があったとの由であるから、逆算して明治十五・六年であることを知る。大凡この年代に相違ないことは、右の宮内省文書も、恐らく明治十四・五年のものと思われるのに依つても、大体認められると思う。
 此の時、北巨摩穂足村(現北杜市須玉町)の人清水吉文が、短冊に、
   雪岱翁の宮内省屏風かゝれしと聞て水莖にうつろふ影は
    月のごと雲井にあけし名ぞ照量る
との祝歌を翁に贈っている。それが如何なる画題であったか知る由もない。

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