北杜市武川町の概要 歴史
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
【武川村の面積】
武川村 面積六〇・七八平方キロ
【武川村の位置】
郡西部の南端に位置し、西は南アルプスの鳳凰山を境に中巨摩郡芦安村、南は小武川を隔てて韮崎市、北東は釜無川をもって長坂町・須玉町尾白川をもって白州町に接する。
村域内を釜無川・尾白川・大武川・石空川・黒沢川、北は中山・大武川・尾小武川が流れ、これらの河川の形成した河岸段丘や沖積扇状地は古代から中世初頭にかけて、甲斐三御牧の一つとして知られ、武川衆の根拠地となった。
中世後期から近世以降開拓が進み、生産や居住の基盤になった。一方、水害にたびたび脅かされた。
近世初頭に甲府から中山道下諏訪宿を結ぶ目的で開かれた甲州道中(国道二〇号)が南東から北西に縦貫し、街村として宮脇・牧原・三吹がある。
【武川村の村名】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
村名は昭和八年(一九三三)新富村と武里村が合併した時に、武川筋ということと大武川・小武川の流域に開けた村という意により命名された。
【武川村の遺跡】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
大武川右岸の黒沢から山高を経て真原(さねはら)に至る高台地域には縄文時代の遺跡が多く、低位の釜無川右岸の段丘地帯では平安時代の集落が発達している。また小武川左岸の新奥には縄文・平安時代の遺跡が知られている。神代ザクラで知られる実相寺周辺には遺跡が多く、真原B遺跡からは草創期の有舌尖頭器が採集され、中期の土器も
広く散布している。隣接する真原A遺跡では部分的な調査ながら縄文中期五領ケ台式から新道式期を中心とした住居跡が十軒が発見されており、山高B遺跡や東原A・B遺跡も含めこの一帯に集落が広がっていたことが推測される。
山高の再奥部には中期を主体とした真原遺跡群があり、真原A遺跡からは中期後半曾利Ⅱ式期の住居が発掘されている。黒沢から新奥にかけての地域にも縄文遺跡が所在する。とくに向原遺跡は前期から後期の遺跡である。弥生時代から古墳時代の遺跡は少ないものの、平安時代になると山高などの高台に加え、釜無川右岸の低位段丘面を中心に遺跡が多くなる。とくに三吹の宮間田遺跡では九四軒の住居跡、四五棟の掘立柱建物跡などが調査されている。同遺跡牧の経営にかかわる集落という見方もなされている。
【武川村、律令時代 真衣郷・真衣野牧】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
律令時代には巨麻郡真衣郷(和名抄)に属した。真衣は牧に由来するとされ、古くから牧馬の成育地であったとみられる。平安時代には甲斐の三御牧の一つである真衣野牧が設置され、相前牧(現高根町)とともに朝廷に毎年三〇疋の貢馬が行われた。「吾妻鏡」建久五年(一一九四)三月一三日条に鎌倉の源頼朝のもとに駒八疋を送った甲斐国武川御牧がみえ、この牧を真衣野牧の後身とする説もある。
【鎌倉末期 武川衆】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
鎌倉末期に甲斐守護となったと伝える武田(一条)時信は、武川筋の諸村に子を配したという。山高には信方が、牧原には貞家が入り、またのちに柳沢・知見寺・宮脇などにも支族が入ってそれぞれの地名を姓とし、近隣の教来石・白須・青木・山寺・折井・入戸野民らとともに武川衆とよばれる武士団を形成したという。その動向は明らかではないが、永享五年(一四三三)四月二九日、武田信長と結んだ日一揆と跡部氏についた輪宝一揆とが荒川で戦い、日一揆側が大敗するが(鎌倉大草紙)、同日付で「一蓮寺過去帳」に柳沢・牧原・山高氏らが載るから、この戦いに武川衆も参戦したことがわかる。
【戦国期時代の武川衆】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
戦国時代の武川衆は武田典厩信繋およびその子信豊を寄親としたといわれ、永禄一〇年(一五六七)八月七日の馬場信盈等連署起請文(生島足島神社文書)では、武川衆の馬場信盈・青木信秀・同重満・山寺昌吉・宮脇種友・横手満俊・柳沢信勝の七名が連名で六郎次郎(信豊)宛に誓紙を提出している。
しかし武田氏滅亡後に武田旧臣が徳川家康に提出した壬午起請文には、典厩衆のなかに武川衆は一人もみえない切で、武田勝頼の時代には信豊との寄親・寄子関係は解消されていたと思われる。
【武川衆、徳川へ臣属】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌を介して家康に臣属した武川衆は(七月一五日「徳川家康判物写」寛永諸家系図伝)、天正一〇年(一五八二)六月織田信長が本能寺で討たれた後、徳川・北条氏が対決した天正壬午の乱で活躍し本領安堵された。
当村域にかかわるものは、
柳沢郷で柳沢信俊七二貫八〇〇文・小沢善大夫三貫文、
新奥郷で青木信時一六貫文・折井次昌二貫文、
宮脇村で米倉豊継一五二貫五〇〇文・同信継一〇貫文、
牧原で小沢善大夫に六貫文などである。
このほか山本忠房・同十左衛門尉・五味太郎左衛門・五味管十郎・折井次正・折井次忠・米倉定継・横手源七郎・曲淵彦助らの武川衆に与えられた所領は総計二千二四二貫文余に上る。
天正十二年の小牧・長久手の戦、翌年の上田城(現長野県上田市)攻めに参戦した武川衆は、伊奈熊蔵の検地によって天正十七年十二月十一日に七千三三五俵余の知行が認められるが(「伊奈忠次知行書立写」記録御用所本吉文書)、このうちには
宮脇郷四五八俵余
黒沢郷一八四俵余
柳沢郷一六〇俵
新奥郷二四五俵余
山高郷一八〇俵が含まれている。
さらに北条氏攻撃を目前に控えた翌年一月に加恩された二千九六〇俵のうちには、
山高郷四七八俵余
三吹郷二二四俵余
牧原郷一五一俵余
宮脇郷八四俵余
があり(「徳川家事行連署知行書立写」同古文書)、
折井次昌・米倉忠継に各四〇〇俵、
馬場信盈・曲淵吉景・青木信時・同満定に各二〇〇俵
のほか、一八名の武川衆に八〇俵ずつが加増された。北条氏滅亡後の同年七月家康は関東に移封され、それに伴い武川衆も多くが武蔵国に、一部が相模・下総国に移住していった。
【武川町、中世の遺跡】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
中世の遺跡は非常に多く、地域的にも高台から低位段丘までほぼ全村にわたり、現在の集落と重なるかたちで分布する。山域では白州町と接して位置する煙火台としての性格の強い中山砦や、「甲斐国志」に星山古城と記載される
最奥部に位置する城郭も確認されている。いずれも武川衆とかかわりのある山城とみられる。
【徳川時代初期の武川衆】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
近世初期は徳川氏領で、知見寺越前(のち蔦木と改姓)、馬場民部・山高孫兵衛・青木与兵衛・米倉左大夫など武川衆は武蔵国鉢形(現埼玉県寄居町)から各旧領に復していた。慶長八年(一六〇三)徳川義直が甲斐国に封じられると、武川衆と津金衆二〇人が本領を給され家臣団に編入された。同一二年には武川衆・津金衆は武川十二騎と称
して城番を命じられ、二人ずつ交代勤番で付属した。
【徳川忠長と武川衆の動向】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
元和二年(一六一六)徳川忠長が甲斐一円を支配すると、武川衆は大番・書院番などに組入れられて勤仕した。寛永九年(一六三二)忠長が改易されると、武川衆は一時処士となった。同一九年ようやく再出仕の恩命に浴し、もとのように旗本として復帰が許された。
山高信俊は山高本家信直の家督を継いで、万治二年(一六五九)二〇〇石加増、寛文元年(一六六一)采地を下総・常陸国の諸郡に移された。
一方、信俊の弟信保は父親重の跡目を相続しで山高村の高三一〇石余のうち二七五石余を知行した。万治三年土木技術に長じていたことを認められ駿河国の堤防工事を奉行し、寛文元年には石見代官を命じられ、石見銀山の支配にあたった。これまで支配した山高村の采地を、下総国相馬郡・葛飾郡のうちに移され、甲州とのつながりは絶えた(寛政重修諸家譜)。この時点で武川衆は本貫の地である武川筋の知行地を去った。
【江戸時代の武川村】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
江戸時代には七村があり、巨摩郡武川筋に属した。七村とも宝永元年(一七〇四)ないしは同二年に甲府藩領となり、享保九年(一七二四)から幕府領甲府代官支配となる。
牧原村と新奥村は延享三年(一七四六)から寛政六年(一七九四)まで一橋家穎であった。文久二年(一八六二)頃も七村とも甲府代官支配。河岸段丘の高地に位置する山高村・黒沢村・新奥村と、沖積低地に位置する三吹村・牧原村・宮脇村・柳沢村とに分けられる。河川は急流で平常は潅漑用水に利用されているが、豪雨時には大水害がしばしば起こった。
【武川村と河川の水害の歴史】
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社 一部加筆)
永禄年間大武川の氾濫により幸燈宮一帯が流失した。
享保十三年七月釜無川と大武川が氾濫し、三吹下組は集落のほとんどが流失、一二月高台の畑に屋敷割をし、四五軒が移住した。
寛政二年、文政一一年(一八二八)と大水害を被り各村では水災供養塔・九頭竜権現などを祀り安全を祈願した。
明治二年(一八六九)七月の水害も釜無川通り田畑流失二九町歩に及び、各河川周辺に被害をもたらした。
明治三一年九月の台風により上三吹七四戸が砂石に埋まった。
大正三年(一九一四)の大武川の氾濫も下三吹と牧原に被害を与えた。
昭和三四年(一九五九)八月に台風七号と九月に一五号(伊勢湾台風)により村域は大水害を被り、流失民家一二九戸、死者・行方不明二三人、流失農地一二〇ヘクタール、堤防橋梁のほとんどが換害を受けた。この災害復旧には四カ年の歳月と三五億円の巨費を要した。
【武川村生業、明治から大正~昭和時代】