【貝原 益軒】かいばら えきけん
『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典<その5>学問・思想の指導者30人
中野三敏氏著(昭和54年当時、九州大学助教授)
宝永七年(一六三〇)、筑前福岡藩祐筆役貝原寛斎の四男として生まれる。通称久兵衛。名は篤信。字は子誠。初号損
軒。最晩年に益軒と改めた。
十九歳で出仕後一時浪人し、再度出仕して三十歳代を殆ど京に留学。広く諸師を訪ねて朱子学の勉強に励み、帰薄して
『黒田家譜』等の編纂を主宰した。七十一歳で致仕後は、いわゆる益軒十訓等を執筆。最晩年に至って朱子学の理気二元論を疑い『大疑録』を書く等、没するまで学問に対する情熱を保ち続けた。益軒は朱子学者だったが、林羅山と違って特に気を重視する立場をとり、経験主義的にその考えを推し進めた。また、山崎闇斎とも違い決してリゴリスティックな発想を持たず、習俗と儒教道徳との一体化に腐心した仁者でもあった。
主著に『慎思録』『大疑録』『大和本草』『益軒十訓』等がある。正徳四年(一七一四)、八十五歳の高齢で没した。