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甲斐の偉人 内藤伝右衛門(ないとうでんえもん)

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甲斐の偉人 内藤伝右衛門(ないとうでんえもん)

   『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
 

山梨日日新聞の前身である「峡中新聞」の創始者。

1844(弘化1)・114生れ-1906(明治39)・1118歿。
甲斐国山梨郡八幡北村(山梨市北)の農業手塚伊左衛門の家に生まれた。幼名は猪之甫。生後間もなく甲府八日町「藤屋」内藤伝右衛門の養子となり、
1860(万延1)年、養父伝右衛門が,病死すると16歳で藤屋を相続して伝右衛門を襲名した。藤屋は古本、古着、古道具頬から布地、反物まで幅広く商う店で、伝石衛門は養父の死後家業に励むかたわら養母満寿について国学を学んだが、後年、伝右衛門に次々と先駆的な事業を行なっていく目を開かせたのは、この養母満寿の影響が大きかったといわれる。
明治専任新になり、日本全国に文明開化の風朝が広がる中で、伝右衛門は1872(明治5)年、山梨県最初の新聞峡中新聞を発行した。峡中新聞は後に甲府新聞、甲府日日新聞、山梨日日新聞と改題されて今日に至っている。
峡中新聞は木版であったが、伝右衛門はこれを機会に近代活版印刷術の導入に意欲を燃やし新聞や書籍を発行した。その中でも「甲斐国志」30巻、「甲斐叢記」5巻などの刊行は大きな業績として残っている。
しかし、こうした先駆的な事業の裏で次第に経営に行きづまり、1880(明治13)年には新聞の事業を主幹の野口英夫に譲り出版事業に専念したが、その事業も1883(明治16)年に長男に譲って自ら恒右衛門と称して上京した。上京後も温故堂書院を運営して従来の出版事業を続けたが、文部省との版権訴訟に敗れるなど晩年まで不遇であった。墓は甲府の瑞泉寺にあったが、今は東京染井墓地に移されている。<望月優男氏著>
 

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