市河藤若の末裔で、明治になった頃北海道の開拓に渡った家柄である。この藤若については、後の信玄北信濃侵攻の際に触れたいと思っているが、ここではこの文書の持つ意味について、少し話して見たいと思う。
私は仕事の合間に数ヶ月にかけて「市川文書」について調査してみた。
そして様々なことがわかってきた。文書は鎌倉以前のものから武田信玄・徳川家康にいたるまで積年のものが、長野県の小谷市川家に保存されていた。それが時代と共に数奇な運命を経て、現在は山形市の本間美術館に納まっている。しかしそれが文書の全てでなく、多くの文書は散逸したままである。そうした文書を含め、武田晴信が市川籐若宛に出した文書が三通あり、その発給年代は記載されていないのものを、「信濃史料」と「山梨県史」が弘治元年と弘治三年に推定挿入した。残りに十二月の文書には推定年令は書かれていない。先の二通の内の一通が下記の文書である。山梨日々新聞社連載の「山本勘助」では2通の文書を同じ時期のものとして編集されたが、これは大きな疑問が残る。その内容に不確かな箇所があるからである。(別記)
『市河文書』(山本勘助実像 別冊『歴史読本』1987年判)
『甲陽軍艦』に登場する謎の武将・勘助の真の姿とは 上野晴朗氏著より
注進の状披見す。よって影虎野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取りかかるべき模様、また武略に入り候と雖も、同意なく、剰、備え堅固ゆえ長尾効なくして飯山へ引き候よし、誠に心地よく候。いずれも今度のその方のはかり頼母敷くまでに候。なかんづく野沢布陣の砌り、中野筋の後詰の儀、飛脚に預り候き。品即ち倉賀野へ越し、上原与三佐衛門尉、又当千の事の塩田在状の足軽を始めとして、原与左衛門尉五百余人、真田へ差し遣し候処、すでに退散の上是非に及ばず候。まったく無守備に有るべからず候。向後は兼てその旨を存じ、塩田の在城衆へ申しつけ候間、湯本より注進次第当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下知をなし候條、御心易く有べく候。
{筆註―剰(あまつさえ)}
《訳》
注進状を読んだ。景虎が野沢の湯に陣を進め、その方の地へ責めかかる様子を見せ、また、先遣隊などが攻撃をしかけたが、とりあわず、防備を堅固にしたので、長尾景虎は功なくして飯山へ退いたそうだが、誠に心地よいことである。景虎が野沢に布陣中、中野筋へ後詰めするように飛脚をもらった。そこで倉賀野にいる上原与左衛門尉に応援を命じ、塩田在城の足軽をはじめ、原与左衛門尉ら五百余人を真田幸隆の指揮下に入れ、後詰めに差し遣わそうとしたが、すでに景虎が退散したので、間にあわなかった。決して処置を怠ったわけではない。今後は塩田在城衆に申し付けておくから、湯本から注進があり次第、私にことわらずに出陣せよと、今日、飯富兵部少輔に命じておいたからご安心願いたい。
勘助は眼も手足も不具合であったいう。激しい戦況下で活動するには大変な事であり、こうした注進を伝える使者であったことなど信じられない。勘助は動かず軍師としての活躍のほうが似合っている。定説というものは「事実であるかどうか」より「誰が言ったかが」大切にされて、しかも歴史学界や考古学界の重鎮の言が効力ある。それが決定的に間違っているにも拘わらず、こうし類は多く伝わっている。
この市川文書については調査報告があるので、参照してください。
甲陽軍艦について
甲陽軍艦は、長い間偽書扱いされてきた。その要因は事象と年代の違いなどが指摘され、中でも山本勘介の活躍が際だって記述されているからである。甲陽軍艦の記載内容の一は、武田信玄の事であり、次が山本勘介の事蹟である。記載内容は筆者により異なりをみせて、一部には凄まじささえ感じる長坂長閑らに対する言葉である。また山本勘介に戦法や築城技術を伝授されたという、馬場美濃守信房の記述が意外と多いということに気がつく。
特に目立った山本勘介の記述内容も、よく読んでみると繰り返したり、一部ではその内容が異なる。甲陽軍艦では武田信玄の父信虎の駿河追放と勘介の絡みが明確にされていないが、信玄に勘介が仕官した時期や、板垣信方の動きからは勘介が関与したことが窺われる内容である。
甲陽軍艦 品二十四 山本勘介と信州塩尻合戦
山本勘介が甲陽軍艦に登場する場面は、何通りかが認められる。甲陽軍艦が佐渡で書かれたことは余り知られていない。佐渡の太運寺には、著者の春日惣二郎の墓が静かに眠っている。一部報道されたが、これは私が数年かけて調査したもので、そのきっかけは多数の江戸随筆の中から、これに関した記述を見出したことから始まった。これについては別記で詳細に述べたい。この項は、山本勘介(甲陽軍艦では勘助でなく、勘介)の武田家仕官から、信州の戦いでの勘介の知略ぶりが書かれている。
<読み下し文は、簡略にしてあり、原文に沿わない箇所もある>
山本勘介の工夫と信州塩尻合戦
天文十二年(一五四三)正月三日、武田家老衆が集まり、この年の晴信公の軍事について話し合った。
敵味方が相反する国境の諏訪・佐 久・小県などに城をかまえる場合は、築城の善し悪しが重要である。その構築がよければ、千人の敵兵に対して味方は三百人で持ちこたえることができる。これは城の構え方、設計に大事な秘訣がある。この城の構築技術よく知っている剛の者(勘介)が、駿河の今川義元公の御家臣である庵原殿(安房守)の身内居る。
この人物は今川殿に奉公を望んだが、義元公は召し抱えられなかった。この者は三河 の牛窪の侍で、四国・九州・中国・関東を廻り歩いた山本勘介という大剛の武士との評判である。
板垣信形はこの勘介を呼び寄せ、召し抱えるように晴信公に進言した。晴信公は、その年の三月、知行百貫という約束で勘介を駿河から呼びよせられた。
晴信公は勘介のお礼の挨拶.を受けられ、その場で、
「勘介は片目であり、数ヵ所の負傷があり、手足もちょっと不自由のように見える。しかも色は黒い。これほどの醜男(ぶおとこ) でありなが、その名声が顕著であるのは、よくよく能力のすぐれた誉れ多い武士と思われる。このような武士に百貫では少ない。」
と仰せられ、二百貫を下された。
さて晴信公はその年の暮、十一月中旬に信州へ御出陣。十一月下旬から十二月十五日までの間に、晴信公は城を九つ落とし知行地となった。
これはすべて山本勘介ひ武略によりものであった。この話は晴信公が二十四才のときのことである。
甲陽軍艦
品二十四
諏訪頼信武田晴信に誅される
一、天文十三年(一五四四)甲辰二月に、晴信公は信州諏訪に出陣。このとき板垣信形の戦略で、晴信公の弟の典厩信繁の仲介で諏訪頼重と晴信公の和睦が成立した。頼重は甲府に出仕の約束を締結。晴信公は三月に御帰陣。
その後晴信公と諏訪頼重と和議が成立し、甲信の国境は蔦木(甲州街道、現在、道の駅、蔦の湯周辺)になり、頼重は甲府へ出仕。その三度目に、萩原弥右衛門 に命じて、頼重を御成敗(殺害)し、これを契機に諏訪勢はことごとく晴信公の敵となり、蓮蓬を大将として、甲信の抗争が始まった。
天文十四年(一五四五)正月十九目に、典厩信繁を大将として板垣信形が先鋒、日向大和守が後備えとなって諏訪に攻め込む。その二月には、板垣信形の先鋒は諏訪勢との合戦で勝利した。
その時の様子は、諏訪の大将の蓮蓬(れんぽ・不詳)が落馬し、五丈ほどもある崖から落ちた。それを長坂長閑が討ち取った。
<割注この長坂長閑との軋轢が甲陽軍艦の文中に際立って表れる箇所がある。別記>
この長閑は、長い間改易の身であったが、この一件で晴信公仕官が出来た。長坂長閑が長坂左衛門といった時期のことである。
このとき板垣勢は、諏訪勢の雑兵三百あまりの首をとって勝関をあげた。そこで援垣信形は諏訪の郡代を仰せつけられた。典厩信繁にも諏訪の武士たちを配下に所属させられた。こうして諏訪は晴信公の御手に入り、塩尻を境として、伊那勢と松本の小笠原勢への進撃が始まるのである。
諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘はたいへんな美人であられた。晴信はこの娘を妾にと望まれた。し。かしながら、板垣信形・飯富兵部・甘利備前の三人をはじ帥あ、各家老たちは、晴信公にむかって、たとえ女人とはいえ、乱退治なさった頼重の娘は敵にあたるゆえ、側女になさることはいかがなものでしょうか、とお諌め申しあげた。
ところが、三年前に駿河から召し寄せられた三河国は牛窪生まれの山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利の三人の侍大将に申した。晴信公の御威光がたいしたことでなげれば、諏訪の者たちも、公のおそばに頼重の息女がいることをこれ幸として悦び、よくない策略をたてるかもしれません。けれど晴信公の御威光は深くゆきわたってきていますのでその心配はありません。私のごとき者も、あらかた日本国中を見聞もとなりいたしましたが、中国安芸の毛利元就は、もとの知行七百貫の身分から戦功をあげ、いまでは中国のほとんどを征服し、四国、九州にまでもその威光が及んでおります。現在では将軍に御意見申しあげる三好長慶さえ、元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にさほど劣ってはおられない御威光の方であると、駿河にいたころから承って、日本国中第一の若手の武将と存じあげてまいりました。私が甲府にまいりまして二年ります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いのようすを拝見いたしますに、この屋形様は、御長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず、文武二道において、目本一の名大将と呼ばれましょう。したがって諏訪家の親類、家臣たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。したがって、頼重の息女を側女になさることを諏訪の衆も喜ぶと諫言し、信玄もこの説に従った。