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 間違いだらけの甲斐源氏

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 間違いだらけの甲斐源氏
武田発祥についての重要文献
 山梨県の歴史は、独自の地域性があり、これまで『甲斐国志』を偏重するあまり、大きな間違いが訂正されることなく史実のように現在まで伝えられている。私の研究課題であった『山口素堂』などはその最たる犠牲者である(別記)。山梨県における御牧の展開やその生産地の地域比定など、大きな誤差の中で定説の紛い物が大手を振って歴史書や紹介書物に歩いている。
こうした中で安易な定説を創りつづけてきた山梨県の歴史学者および歴史家にとって、その基本認識をぶち破られる大きな出来事があった。それが今回示す講座資料である「武田義清・清光をめぐって」である。その内容は適切であり、その後の山梨県甲斐源氏記述は過去の杜撰な歴史展開から「新設」・「真説」大きな変換がもたらされた。しかし一部では未だに神社仏閣の史実に見えない由緒書の類を多く見る。
 
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
これまでの武田定説 甲斐源氏の祖 新羅三郎義光
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
 甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。
 これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。
 だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。
 そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。
 義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。
 そこでは、
「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」
と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。
 「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。
 奥野高広氏の『武田信玄」にも、「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘
園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄を築いた」と述べております。
 
甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすること
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 しかし、義清は市川荘や青島荘の下司として甲斐国に派遣されたのではなく、市河荘に配流されたのです。また義清の孫信義が最初に武田氏を名乗ったのではなく、義清は初めから「刑部三郎武田冠者義清」として甲斐国に配流されたのであります。
 それでは甲斐武田氏の祖となった義清はどういう人物なのか、なぜ市河荘に配流されたのか、などを考えてみましょう。義清の父である新羅三郎義光が、後三年の役のとき兄義家の苦戦を聞き、左兵衛尉を辞し救援のため奥羽に下向したのは有名な話であります。しかし、藤原為房の日記『為房卿記』、寛治元年(一〇八七)八月二十九日条によると、義光は「身の暇も申さず、陸奥に下向し、召し遣わすといえども参らなかったので、解任した」とあります。『本朝世紀」寛治元年九月二十三日条にも、「左兵衛尉源義光の停任の宣旨を下さる」とみえるので、八月二十九日に義光の左兵衛尉解任が決議され、九月二十三日に天皇の決裁が下されたのであります。
 義光のこうした強引な行動は、兄弟愛や源氏発展のためだけとは思われない面があるといわれています。義光の兄である義綱は義家不在の京都で源氏の代表者として摂関家に臣従し、武威を誇っていながら義家の奥羽での戦いに協力した形跡がないのです。義光はこれまでいつも兄の義家・義綱の威勢に押されて、自分の力を発揮することができなかったといわれております。そこで後三年の戦いを利用して奥羽に乗りこみ自分の勢力を拡大しようと考えたのであります。
 
甲斐源氏の祖 新羅三郎義光 足柄山笛吹の石」の真偽
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
 また義光の奥羽下向に際し、つぎのような物語が伝えられています。義光は音律を好み、笙の師豊原時忠に就いて笙の秘曲の復伝をうけ、名器交丸を授けられた。しかし、奥州下向のとき名器の失われるのを配慮して、逢坂山で時忠に返した。さらにその途中、足柄山で笙の秘曲を時忠の甥時秋に授けたというのであります。現在でも足柄峠には、「新羅三郎義光笛吹の石」というものが残っています。
 『今昔物語集』巻第二十四「源博雅朝臣会坂の盲の許に行く語」には、管弦の道に熟達していた源博雅朝臣が会()坂関に庵を造って住んでいた蝉丸という盲人が琵琶が上手であることを聞き、三年間も通い続け流泉・啄木の秘曲を蝉丸から伝授された話がみえております。
 また『更級日記」には、菅原孝標の娘が昼なお暗い恐ろしい足柄山を越えたとき、遊女が三人どこからともなく出てきて、庵の前に唐傘を立て十四、五歳の「こはた」という遊女が、空まで響くような凛とした涼しい声で歌ったので、とても感動した様子が記されております。
 したがって、逢坂山や足柄山には盲目の琵琶法師や遊女など芸能の徒がたむろしていたのであります。逢坂山や足柄山に芸能の徒がたむろしていたのは、国境などの坂や峠には神霊がこもっており、その神霊が歌舞音曲を好んだという思想が底流にあるのです。『今昔物語集』巻第二十七「近衛舎人常陸国の山中にて歌を詠いて死ぬる語」に、昔、近衛舎人がいた。神楽舎人でもあろうか。歌をすばらしく上手に歌った。この男が相撲の使として東国に下った。陸奥国から常陸国へこえる焼山の関を馬に乗って通ったとき、泥障をたたいて抽子をとり、常陸歌を二、三遍繰り返して歌った。すると、ずっと深い山の奥で、恐ろしげな声で「ああ、おもしろい」といって手を打った者がいる。舎人は馬をとめて、従者にあれは誰がいったのだと尋ねたが、何も聞こえません、と答えたので、頭の毛が太くたるほど恐ろしくなりそこを通りすぎた。その夜宿で寝たまま死んでしまった。だから深い山中で歌を歌ってはいけない。山の神がおもしろがってひきとめたのであろう、といい合ったということである、と記されています。
 したがって、義光が逢坂山や足柄山で笙の名器や秘曲を授けた、という話は疑わしいと思うのです。けれども『今鏡」第七には、豊原時忠は交丸という笙の笛と秘曲を「刑部丞義光といひし源氏のむさのこのみ侍りしに」教えて笛も与えた。ところが義光が「あづまの方へまかりけるに」時忠が見送ったとき、笙の笛を時忠に返して別れた、とあるので、義光が笙をよくしたことは事実のようであります。
 
甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の官歴
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
『尊卑分脈」には義光の官歴を「常陸介、甲斐守、左兵衛尉、刑部丞、左衛門尉、右馬允」あるいは「常陸介、甲斐守、左衛門尉、右馬允、刑部少輔、左衛門尉、刑部丞」としています。後三年の役が終わると、京都に帰りふたたび朝官に任ぜられたのでしよう。
 関白藤原忠実の日記『殿暦」長治二年(一一〇五)二月十八日条によると、義光は刑部丞の地位にありながら二年前から常陸に居住し、勅命で上京をうけながら命令を聞かず、支障を申し立てて猶予を請う返事を送っています。そのころ義光は、常陸国で常陸大橡平重幹と結び、義家の第三子で下野国足利荘を本拠としていた義国(新田・足利氏の祖)と対決し合戦をしているのであります。藤原為隆の日記『永昌記」嘉承元年(一一〇六)六月十日条によると、朝廷では東国の国司に命じて義光・重幹らの党を召し進めさせ、義国に対しては父の義家に命じて京都に呼びよせているのであります。
 
常陸平氏と源氏との結びつき
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
 常陸平氏と源氏との結びつきは、前からみられるのです。平維幹は将門の乱で活躍した平貞盛の子で、長保元年(九九九)十二月、藤原実資に馬や名簿を送って臣従し、栄爵を願っています。
 『宇治拾遺物語」には、維幹が京都に訴訟で上ったとき高階成順の娘を見初め妻にして常陸に帰った。二女をもうけたが妻は死んだ。その後、妻の妹が夫の常陸介に従い常陸にやってきた。任期が終わって帰るとき、維幹は二女を遣わしてそれぞれ逸物の馬十疋と皮子を負った馬百疋ずつを送ったので、常陸介は維幹の娘の富裕に驚いた、ります。『今昔物語集」巻第二十五には、常陸守とたった源頼信が下総国の平忠垣を攻めたとき、「左衛門大夫平
惟基」という老が三千騎をひきいて頼信の軍に加わった、とみえます。
 維幹の子が為幹です。寛仁四年(一〇二〇)七月、紫式部の弟でもあった常陸介藤原惟通が常陸国府で死んだとき、為幹が惟通の妻子を奪い取り強姦するという事件が起こりました。惟通の母は事の次第を朝廷に訴えたので、朝廷では紀貞光を遣わして為幹を召喚しました。ところが貞光は藤原実資と示し合わせて上京した為幹になにかと便宜を与えているのです。そして翌年、改元にことよせて赦免しようとしたのです。
 重幹はこの為幹の子です。したがって重幹は中央の藤原氏とも通じ、また義光とも結んで粗暴の限りを尽くしていたのです。義光は重幹と姻戚関係を結びます。『尊卑分脈』や「常陸大橡系図」によると、嫡男の義業に重幹の子清幹の女をめとらせ、生まれた昌義が佐竹氏の祖となるのです。
 また浅羽本「武田系図」によれば、義光自身が清幹の女との間に義清を生ませているのです。義光は姻戚関係で重幹を応援し、甥の義国と戦ったのです。
 
甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の悪行と評価
武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)文中の各標題は加筆
 
 義光は刑部丞という中央官職にありながら常陸国に土着をはかり、そのためには朝廷の命令や骨肉の情をもかえりみたかったのであります。
重幹の子である致幹は、後三年の役に参加しています。『奥州後三年記』によると、後三年の役の発端は常陸国の猛者多気権守宗基の娘と源頼義との間に生まれた女子が美女であり、これを清原真衝の養子である海道小太郎成衡に嫁がせとき、その婚礼の儀から起こった争いだ、と伝えています。事の真否はともかく常陸平氏が維幹から致幹に至る時代に、源氏と親密な関係を成立させたことが知られるのです。
致幹らの兄弟は水戸、結城、真壁方面に進出しました。とくに清幹は吉田次郎と称し、その三子は吉田太郎盛幹、行方次郎忠幹、鹿島三郎成幹で、それぞれ吉田、行方、鹿島氏の祖となったのです。義光や義清・清光が関係を持ったのが、この清幹の子どもたちであります。
嘉承元年(二〇六)七月、源義家が世を去ると源氏の棟梁の地位をめぐり内紛がおきるのです。その地位をねらったのは義家の弟の義綱と義光です。『尊卑分脈』には、つぎのような話を記しています。
義光は甥の義忠(義家の第四子)が嫡家を継承して、天下の栄名を得るのをねたみ、郎等の鹿島冠者三郎を語らって義忠を討たせた。三郎が目的を果たしたその夜、三井寺で首尾を待つ義光に報告すると、義光は書状をそえて三郎を弟の僧快誉の宿坊へやった。快誉は前もって深い穴を掘っておき、三郎を捕えて穴に藩とし埋め殺したというのです。
「常陸大橡系図」によると、重幹の孫の成幹が鹿島三郎と称しています。成幹は義光の嫡男義業の妻の兄に当たる人物なのです。
源義忠の殺害は、都の人びとに大きな衝撃を与えました。藤原忠実の日記『殿暦」天仁二年(一一〇九)二月八日条には、「伝え聞く、検非違使源義忠、去る三日夜、殺害され了ぬ」とあり、『百錬抄』にも二月三日夜、源義忠が郎従のために刃傷され、同五日に死去した、とあります。朝廷では義忠殺害の犯人を義綱の三男義明とにらんで、これを追捕し邸内の庭で殺してしまったのです。父の義綱は、これを知って憤激し近江に走ったが、捕えられて佐渡に流されてしまいました。こうして義綱一家は源氏の勢力を抑えようとする朝廷や、それに利用された義光によって悲惨な結末を迎えてしまったのです。
義光は自分の勢力を拡大するためには、兄や甥ばかりでなく、わが子の妻の兄まで殺したり、窮地におとしたりしたのであります。『今昔物語集」と『十訓抄」には、義光が院の近臣として(?)潅勢のあった六条顕季と東国の荘をめぐって争いをしたことが記されています。その荘は常陸国多珂郡の国境に近い菊多荘ともいわれるが、久慈郡佐竹郷とみる説もあります。ここはもともと顕季の領地であったから顕季に理があり、義光に非があることは最初からわかっていたのです。しかし白河法皇の裁定がないので、顕季は内心ひそかに法皇をうらめしく思っていたのです。
ある日、顕季が御前に伺候していると、法皇は顕季に対し、この問題の理非はよくわかっているが、義光はあの荘一か所に命をかけている。もし道理のままに裁定したら、「義光はえびすのようなる心もなきものなり。安からず思わんままに、夜中にもあれ、大路通りつるにてもあれ、いかたるわざわいをせんと思立たばおのれのためにゆゆしき大事にはあらずや」、つまり義光は「えびす」のような無法者だからなにをするかわからたい。だから自分の身を守るためにも、あの荘は義光に譲ってはどうかと仰せられた。顕季は涙を飲んで仰造にしたがい、義光を招いて事の次第を告げ、譲状を書いて与えた。義光は大いによろこびただちに顕季に名簿を捧げて臣従を誓った。
それからしばらくたったある夜のこと、顕季が伏見の鳥羽殿から二、三人の雑色をつれて京に向かったところ、鳥羽の作道あたりから甲冑を帯びた武者五、六騎が車の前後についてきたので、顕季は恐ろしくなって供の雑色に尋ねさせた。すると夜になって供の人もなく退出されるので、刑部丞殿(義光)の命令によって警衛している、と答えた。顕季は今さらながら法皇の深いはからいに感謝したというのである。
この説話の信愚性については間題がありますが、義光がいかに常陸国に自分の所領を欲していたかを知ることができるのです。また公家から義光が「えびすのようたる心もなき者」とその無法ぶりを恐れられていたことがわかるのです。
  • 甲斐源氏の祖 新羅三郎義光の子 
    義業、実光、義清、盛義、親義
義光には義業、実光、義清、盛義、親義らの子がありました。
嫡男の義業は吉田清幹の女をめとって久慈郡佐竹郷に住んだ。その子昌義は佐竹冠者と号し、常陸国に定住するのです。
義清は那賀郡(吉田郡)武田郷に住んで刑部三郎武田冠者と呼ばれています。「武田」は武田郷の地名であり、この地に定住したことを示しているのです。
 
刑部三郎は父義光が刑部丞なので、その三男の意味です。義光は常陸国への進出にあたり、常陸大橡平重幹・致幹父子と提携しました。那珂川以南の地が常陸平氏の支配下にあるのを知った義光は、那珂川以北に拠点を作ろうとしたのです。そこで致幹の弟の吉田清幹に近づき、その女を嫡男義業の妻に迎えたのです。こうして義業を久慈川流域の佐竹郷に、義清を那珂川北岸の武田郷に配置することに成功したのです。
 
佐竹郷と武田郷の地は、ともに水運の拠点でした。佐竹郷は久慈川・山田川の合流点にも近く、古代には河川港があった可能性があります。というのは『旧事本紀』の『国造本紀』によると、久自国造は成務天皇の御代に、物部連祖伊香色雄命の三世の孫船瀬足尼を国造に定めた、とみえます。久自国造の名である「船瀬」は、大輸田船瀬(神戸港)、水児船瀬(加古川市の加古川河口)が示すように河川港と関係のある名であります。また船瀬には船の停泊地、造船所、物資集積地の意味があります。おそらく、久自国造は久慈川・山田川合流地付近にあつた河川港を支配したものと思われます。
那珂川流域の武田郷も水運と関係があります。『和名抄』には那賀郡川辺郷の名がみえます。川辺は川部とも書き、重要河川に置かれ、渡し舟や物資輸送に従事した部民が設けられていたのです。那珂川も古代には重要河川とされていたのです。武田郷の対岸の水戸は三戸とも記され、かって「御津」と呼ばれた可能性があります。『万葉集』巻一の六三にみえる「大伴の御津の浜松」が、巻七の(?)一一五一の歌に「大伴の三津の浜辺」とみえ、伊勢国度会郡の「御津」も『山家集」に「三津」とあり、近江の坂本の津も「御津」(三津)と呼ばれていたのです。御津には難波御津が示すように特別に重要な港の意味があります。御津は中世には御()戸とも呼ばれるようになります。『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる「平津」は中世には「平戸」となります。岩手県の大船戸もかつては大船津と呼ばれていたのでしょう。水戸もかつては那珂川と千波湖が通ずる大きた入江のようになっており、重要な河川港の役割りを果たしていたのです。
武田の地も那珂川北岸の物資の積出しが行われたことも考えられます。付近の勝倉には船渡がありました。
こうした水運の拠点に義光は、義業・義清を配置したのです。
義光は『尊卑分脈」には「平日、三井寺に住す」とあるので、近江大津の水運の重要性を熟知していたのであります。義光と吉田清幹は、一時はかたり親密な関係にあったようです。浅羽本「武田系図」によれば、義光は清幹の女をめとって義清をもうけています。義清の名も義光の「義」と清幹の「清」をとって付けたことも考えられます。また『尊卑分脈』には、清幹の二男成幹(鹿島三郎)が「義光の郎等」とみえますので、義光は吉田郡の郡司でもあった清幹父子の力を背景に吉田郡や鹿島郡の地にも勢力を伸ばそうとしたことが考えられます。
『尊卑分脈』によると、義清は清光をもうけています。浅羽本『武田系図」では、清光の母は上野介源兼実の女で、天永元年(一一一〇)六月九日の生まれとなっています。その清光は源師時の日記『長秋記」の大治五年(二三〇)十二月三十日条に、「常陸国司、住人清光濫行の事等を申すたり。子細目録に見ゆ」と記されています。『尊卑分脈』には、義清は「配流甲斐国市河荘出家四十九才」とあり、清光は「号免見冠者、黒源太」とあります。ということは、清光の濫行の罪により父親の義清もそれに連坐して、甲斐国市河荘に配流されたことが知られるのです。親まで連坐にまきこみ流罪という重罪を犯した清光の濫行とは、いったいどんな行為だったのでしょうか。濫行とは今日の乱行の意に類し、「みだりの所行、でたらめな行い」の意味があります。
 
  • 源為朝のこと・悪源太清光のこと
源為朝は『保元物語』上の「新院御所各門カ固めの事」によると、幼年のころから「不敵にして兄にも所をおかず、傍若無人」であったので、十三歳のとき父為義は鎮西に追い下した、とあります。仁平元年(一一五一)のことであります。為朝は尾張権守家遠を守り役として、豊後国に居住し肥後国阿蘇忠景の子、忠国の婿となり、九州の総追捕使と号して三年のうおに九州一円を攻め落してしまったといいます。
左大臣藤原頼長の日記『台記』の久寿元年(一一五四)十一月二十六日条には、「今日、右衛門尉為義五位解官、其子為朝鎮西濫行事依也」とあり、『百錬抄』久寿二年四月三日条にも、
源為朝は豊後国に居し、宰府を騒擾、管内を威脅す。依って与力の輩に彗ん由つ禁遇すべきの由、宣旨を大宰府に賜う、
とあります。
為朝の濫行に連坐して父の為義が解官しているのは、清光の濫行と似ているのであります。為朝は幼年のころから不敵にして、傍若無人であったといいますが、清光にもそうした性格があったように思われます。清光は『尊卑分脈」や「武田系図」によれば十八名の男子をもうけています。これだけからみても清光は精力絶倫で、並はずれた気量の人物であったことが知られます。おそらく、祖父義光の性格をうけついだのでしょう。そうすると、『尊卑分脈』にみえる「黒源太」という称号が間題になるのです。「源太」は源家の太郎の意でありますが、「黒」はなんでしょうか。清光の顔色が赤黒かったという考えもありますが、元来この称号は、この人物の性格をあらわすものと思われるので、その姿、彩の形容ではありません。おそらく、「悪源太清光」と呼ばれて人びとから恐れられていたのではないでしょうか。
 
悪源太ならば、他にも類例があります。源義朝の嫡子義平は、『尊卑分脈』に「鎌倉悪源太と号す」とあり、『平治物語』『源平盛衰記』によれば、義平は十五歳のとき叔父の春宮帯刀義賢と武蔵大倉に戦い、これを斬ったので、世に鎌倉の悪源太と呼ばれた、とあります。義平の母は三浦大介義明の女で、鎌倉にいたので、そう呼ばれたのです。悪源太義平は、平治元年(一一五九)、十九歳で六条河原で討たれております。「悪」をつけられた人物は、他にも、悪左府、悪七郎兵衛景清、悪禅師がいます。悪左府とは左大臣藤原頼長のことで、『保元物語』には賞罰をわかち、善悪を正すがあまりの頼長のきびしく行きす
ぎた言行に対し、時の人が「悪左府」と称して恐れた、とあります。
悪七兵衛景清は、『源平盛衰記」『平家物語』によれば、上総七郎兵衛と称し、躯幹長大、勇を以て一時に聞こえ、世呼んで悪七兵衛という。平家減亡後逃走、のち頼朝に降り、八田知家の家に預けられたか、食せずして死すとあります。悪禅師は「清和源氏系図」によれぽ、将軍実朝を誅した公暁を世の人が、悪禅師と呼んだことが知られます。「悪」は中田祝夫『新選古語辞典」によれぼ「正義、道徳、良心などに反すること。またはその行い。性急はげしい、荒々しい、強剛である、などの意を表す語』とあります。そうすると、清光は「黒源太」よりも「悪源太」と呼ばれる方がふさわしい人物であります。「悪」と「黒」は草書では間違いやすいので、「悪源太」とあったのを、「黒源太」と誤記したのか、あるいは悪源太の称号を嫌って後世の人が「黒源太」としたことも考えられるのです。
 
◆甲斐源氏の祖 新羅三郎義光歿後、在地勢力反発、大治五年、清光濫行 甲斐島流し
 
仁平元年(一一五一)四月八日の吉田神社文書によると、当時、吉田郡に倉員といわれる別名がありました。郡司吉田氏(幹清か広幹)は別符武田荒野には倉員名の古作田二町があり、新作二町を開発し、今後さらに追年これを加作するとの請文を国守に提出して、別符に対する則頼の執行の停止を求めたのです。国守平頼盛は、国益のため則頼の沙汰を停め、郡司の名田として開発させることとする国司庁宣の施行を命じた留守所下文が、吉田郡倉員に発せられています。
この文書にみえる「則頼」は、「春日権現験記」にみえる鹿島社の大禰宜中臣則助、保元元年十月の関白家政所下文(香取大彌宜家文書)にみえる鹿島大禰宜則近、永安四年(一一七四)十二月の国司庁宣(鹿島大彌宜家文書)にみえる大彌宜則親など、人名に「則」の字がついているのをみると、鹿島社の大禰宜を世襲した中臣氏一族の者であることは間違いないのであります。したがって、鹿鳥神宮の勢力が武田郷に及んでおり、吉田郡の郡司職を相伝する吉田氏と衝突していたのです。十二世紀初めごろの武田郷周辺の地は、吉田杜や吉田郡の郡司職を相伝する吉田清幹.盛幹父子、荒野開発や買得による名田の獲得に動く鹿島杜の大彌宜中臣氏、それに武田の地に拠点を構えた義清・清光父子らがたがいに勢力を張り合っていたのです。
 はじめは吉田清幹と姻戚関係にあった義清であったが、義光が策略を用いて清幹の子の鹿島三郎を殺害してからは、吉田氏との間柄も険悪になっていたと思われます。そうした情勢の中で若さにあまる清光は、武力をもって吉田郡内の吉田氏や鹿島社大彌宜の領地を侵略する行為にでたものと思われるのです。「濫行」「悪源太」といった言葉からうける感じは、単なる争いごととは思われません。
大治二年(二一二七)義光が世を去ると、新参者に対する在地勢力の反発が強まり、大治五年十二月、清光の濫行として朝廷に訴えられたのです。
訴えた常陸国司は藤原朝臣盛輔です。盛輔はこの年の五月二十五日に、鹿島社の神殿修造をし、重任の功の宣旨を賜わっており、大禰宜中臣氏とは関係が深いものがあったのです。在庁官人である常陸大橡平致幹か直幹は、義光亡きあとの義清.清光に対しては、一族の吉田氏に対する仕打ちからみて、快く思っていたかったものと思われます。もし常陸大橡が義清・清光に好意をもっていたら、清光を訴える手続きはしなかったのではないでしようか。
しかも清光の濫行にことよせて、父親の義清までも配流にして武田郷から源氏の勢力を一掃してしまった背景には、常陸大橡と藤原氏の周到な計略が感じられるのです。獄令によれば、「凡そ流人配すべくは罪の軽重に依りて、各々三流に配せよ」とあり、遠流が伊豆、安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐、中流が信濃、伊予、近流が越前、安芸となっております。『令義解』には、その遠近を定むるは京よりこれを計る、とあります。甲斐に流された義清・清光は中流に当たるのでしょうか。
義清.清光が甲斐国に配流されたときは、佐竹氏にとっても危機であったに違いありません。しかし、昌義の母が吉田清幹の女であったこと、義業が従位下、相模介、左衛門尉、進士判官、昌義が信濃守と『尊卑分脈』にみえるように、中央との関係も密であったことや、佐竹氏の支配地が常陸大橡一族や鹿島社などと競合したかったことが、佐竹氏の土着を成功させたものと思われます。
 

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