山梨県の偉人 内藤多仲(ないとうたちゆう)
『山梨百科事典』山梨日日新聞社 一部加筆
1886(明治19).6.12-1970(昭和45).8.25。
山梨県榊村(櫛形町曲輪田 現南アルプス市)生まれ。甲府中学(甲府第一高等学校)-東京帝国大学卒業。早大講師、教授となり、
1917(大正6)年米国留学、
1924(大正13)年工学博士(論文「架構建築耐震構造論」)。翌年早大工学科長、
1939(昭和14)年マニラのサント・トマス大学で耐震構造講義。
1945(昭和20)年、日本建築学会長、
1962(昭和37)年、櫛形町名誉町民、
1965(昭和40)年には第3回世界耐震工学会議(ニュージーランド)に出席。
紺綬褒章、紫綬褒章、文化功労章、勲2等旭日重光章を受け、従3位を贈られた。論文、著書は建築耐震、電気容接、建築材料百般にわたり、関東大栗災に歌舞伎座の耐震は有名。自邸は遺言で「内藤会館」と称し早大に寄付。
山梨県関係では
1921(大正10)年甲府市役所庁三舎、
1928(昭和3)年、貯蓄銀行日本橋支店、第十銀行東京支店、
1939(昭和14)年、産業組合会館、甲府第一高体育会館、
1955(昭和30)年、県民会館ホール、
1957(昭和32)年共修社、翌年共済組合と県民会館、
1961(昭和36)年県庁三舎、
1964(昭和39)年県青少年文化センター及び甲府商工信用金庫本店、翌年甲陽病院(長坂町)、
1968(昭和43)年、武田信玄公宝物殿(塩山市恵林寺)、遠光寺(甲府市)、
1970(昭和45)年塩山信用組合、県医師会館など。
なお郷里の小笠原中学体育館、河川の架橋、菩提寺の円法寺本堂建立、長遠寺の改修は奉仕。
1935(昭和10)年8月、山中湖畔で徳富蘇峰と親交、山梨日日新聞紙上に投稿し、同地開発の端緒をなした。
生来温順、淡々として厳、子煩悩。いわゆる利を追求しない篤学者だった。