韮崎市 武田勝規が築城した新府城
藪の湯みはらしから30分
新府城跡(駅から徒歩一〇分。武田勝頼の居城)
新府城跡にちなんでつけられた新府駅は、桑園に囲まれた無人駅である。
駅から、西方へ歩いて、県道韮崎-日野春線にぶつかったところの緑の木立が、新府城跡である。本丸跡に建てられている藤武神社の長い階段を登ると、城跡が一望できる。少し速まわりにはなるが、車でも本丸跡に行くことができる。(現在車は禁)
新府城は、天正9年(1581)、武田勝頼が、府中(今の甲府)にあった躑躅が崎館にかえて築いた城であ
る。天正3年(1575)、武田信玄の跡を継いだ勝頼は、大軍を率いて、三河長篠城を囲み、織田・徳川軍三万と対峠した。有名な長篠合戦である。この長篠合戦は、滅びゆくものと栄えゆくものとの明暗を示した戦いとして世に知られている。このとき織田軍の組織化された鉄砲隊の威力の前に、伝統的な武田の騎馬戦法は敗れ去ったのであった。
勝頼は、長篠での敗走の後、軍勢の挽回を図るべく甲斐に戻り、そこで、敵を迎え討つための新たな築城を決意し、築城の地として、新府城のこの地を選んだのである。
新府城は、釜無川の河岸段丘『七里岩』の台地上にあり、西方は、70-80メートルもある断崖で、他の三方は、堀で囲まれているという、防御地としては最高の条件を備えていた。
新府城は着工から一年も費やさずに完成した。ところが、翌天正10年(1582)になると、武田軍の一人
の家臣の背信をきっかけに、織田軍は信濃から甲斐へ攻め入った。勝頼は、新府城を棄てて敗走する以外に道がなく、結局田野(大和村)の天目山で悲劇的な最期をとげることとなった。
わずかの間だけ墜土を戴いた新府城、今では本丸跡のほかは二、三の曲輪跡の案内板を除いてまったくの廃墟
と化してしまっている。この新府城に立つと、武田氏の悲運を思わずにはいられない。(昭和58年)