Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

富士山の頂上について『甲斐国志』

$
0
0
イメージ 1
<富士山頂上>
頂上に登り、左右を「薬師嶽」と云う。薬師の佛龕あり、別当大宮司(駿州富士郡の大宮神主)、役銭二十文(内十四文は大宮司、六文は吉田)小屋八字。四方に石を横にして壁として、一方に戸を開く。駿州須走の者ここに住して団子餅を売る。甚だ小にして、腹に満たず。およそ中合より頂上に至る。飯を炊くに、薪なく、また水なし。薪は中腹より以下深谷の内より採りて、谷々の小屋へ負擔(かつぐ)して送る、故に上るに随いて直彌々貴し。水は山陰の水を取って来て屋上に置き、中の流滴を汲む。峯ノ周回五十町。中央ハ空坎(あな)なり。深数百丈最底には常に雪あり。或は忽ち雲を出し、忽ち風を生す。周囲の峯を八葉と云う。空坎を内院と云う。高低の八峯を八葉の蓮花に喩え、八葉に各々佛号を配當し、坎中を都卒の内院に比す。「都ノ良香」の記に、曰、
----日頂上有平地、廣一許里、其中央窪下、體如炊甑、甑底有神池、池中有大石石體驚レ奇、宛如蹲虎、----云云「神社考」に曰、----中央有大窪、窪底湛池水、色如レ藍染レ物、飲レ之味廿酸治諸疾、----云云。「神池」、今は存せず。数百年の間、砂石轉落して、埋まれるにや。窪中に南岸より指出したる巨巖あり、「獅子岩」と云う。その形、獅子の蹲踞するが如し。所謂、「體如蹲虎」とあるは、これを謂うか。八合辺りより、頂上も至るまで、異鳥常に栖む。その形、鵲(カササキ゛)の如し。「内院燕」と云う。「藥師ガ嶽」より左へ回れば、廣き平地あり。東の「賽の河原」と云う。十一面観晋ノ鐵像あり。願主の名あり。曰、共尾張國海西郡津島村奉鋳之者也。檀那富士大宮司親時願主、津島住、吉左衛門有久大工、河内?村?左衛門尉??淺間嶽干時、明応二年五月十六日と。この所を「初穂打場」と云う。参詣の者より賽銭を坎(あな)中に投ずる。鐵身銅身の「大日座像」あり。銘あり。曰、----昆州海遭郡富士庄(富田庄イ)江西郷野間彌三郎、大永八年十三日、藤敏久----と傍らに、銅花瓶あり。寛文八年云云と記せり。
それより南へ回りて「勢至カ嶽」、「銚子カ窪」、南の「初穂打場」を過れば、小池あり。麗水常に湛えたり「銀名水」と云う。池の径二尺ばかり、旱(ヒテ゛リ)天にも水涸れることなし。「駒カ嶽」には梯子にて往来する所あり。銅馬あり是太子の驪駒に乗来て、休息せし地なりと云う。七合目にも同様の地名あり。また堂あり、「表大日」と云う。別當は駿州村山村山村大鏡坊、地西坊、辻坊の三家なり。この三坊より、古は山役料として、青指銭二賀文。太刀一振袈裟登掛を毎歳吉田師幟の方へ請取り、谷村役所に納めると云う。秋元氏の領知たりし時、宝永二年、家士二名にて吉田師職の名主へ下知する書に云う。----表大日役料之儀者、上吉田名主方へ被置可差出候----とあるはこれなり。享保の末、斎藤喜六郎支配の時、宥免ありて、その証のみにて可也、tとて数を減して二貫文の代に二百文(七百文イ)、太刀一振の代に小刀二本、袈裟壹掛の代に注連縄二掛つゝ目録を添えて講取る、と云う。「諸州採薬録」に、曰、----富士山ハ甲州の山にて云々----駿河の富士といはせぬ爲に駿州の村山口より、太刀三振青指三貫文づつ、甲州郡内領の御代官御陣屋へ上納仕候由、當御代官被仰付候ハ其形計有之候へは能候間太刀三振の代に小刀三本、鳥目三貫文の代に三百文致上納候様被印付候云々----是ナリ。土人ノ所レ傳と品数不レ同。成澤村、正徳五年ノ村記に云う富士山北面へ駿河口より、相納候小刀鳥目袈裟等之儀を以持山の由証拠に申立候得共、先年は御領主様へ相納候所に御領に罷成上吉田、川口村之御師へ可預置の由被仰付候云々----この書に拠れば、正徳のころすでに三品数の減せりと見える。享保のころよりと云える、土人の説は誤なり。近來不納の年相続きて終わりに止めると云う。この所小屋二字あり。また鉄像の大日二体あり。銘に、曰、----願主富士山奥法寺辻之防覚乗、尾州中島郡於今崎郷奉鋳此尊也。松本宥阿檀那等毛利廣氏並明窒等光大姉雅称野々村妙光、明応四年五月廿六日重吉(古イ)道見永家妙蓮清久妙永光達貞項信今枝定金重延(廷イ)僧都任秀----と、あり。
《大宮道・コノシロガ池》
この所駿州大宮道あり。平砂の間小川の形あり。末は内院へ入る六七月の比は、水涸れて唯々空澗(日→月)なり。雪消のころ、また雨後などには、ここより水流れて内院に落ちる。これを「コノシロガ池」と云う。古くには水溜りて池を爲せしにや。名称、何の謂れたる不レ詳。この池の名によりて郡中?(チチカフ゛リ)魚ヲ不レ食。池上に小橋あり。ここを過ぎ少し行て、「劔ノ峯」の下に至る。また銅像の大日あり。----寛永元年六月、願主勢州渡会郡(郷イ)田丸領益田村成川茂右衛門----と、刻せり。また「劒ノ峯」の最下に鐵像の大日あり。銘に曰、----檀那眞壁久朝白川弾正少弼政朝(在判)延徳二年仲夏十二日?(王口)目安安芸入道宗祥兵部少輔政基安達大官正蓮妙心佐吉日善??祐泉道音妙参----トと。「剣ノ峯」の坂路に大日あり。銘に曰、----天文十二年五月十六日、濃州可鼻郡上任戸右衛門、金谷村入形九郎治郎、と。
《「親不レ知」、「子不レ知」》
ここより西北へ向けて上る道を「親不レ知」、「子不レ知」と云う。道は内院に傾き嶮阻甚だし。ここを攀(のぼ)る者一歩を過れば数百丈の内院に落ちる。この峯八葉第一の高峯にして、遠方より望めば、その形圭頭にして、劒を立てるが如し。故に名称とす。ここに登りて四方を下瞰すれば名だたる高山も皆平地の如くにして、ひとつも眼を遮ぎる物なし。宛然として空中に坐するが如し。眼力及ばされば、千萬里の外を眺整すること不能。唯々西は駿遠三及勢州の海岸東北は筑波山、日光、淺間ケ嶽等小庁の如く東海は渺(びょう)々たるを見るのみ。登山の者多くは嶮路を恐れて、ここに上らず。この中腹を過て北へ回り「釈迦カ嶽」に至る。内院の方を過るを「内濱」と云う。峯の外を回るを「外濱」と云う。外濱の道は巖虧(かけ)落ちて人蹤(あと)及ばず。およそ嶺上の地焼砂の中に堅実にして滑澤ある細石雑り。或いは白く或いは黒く、皆研けるか如し。宛も海濱の波に磨かれたる石に異ならず。都氏の記に窪底に湛池水とあれば、上古は内院の穴に水を湛へたりしも知るへからず。故に斯く水辺の如き石今なお存じて内濱、外濱の名もあるにや。
《鳴沢》
また西北の方は数千丈の谷ありて、砂礫常に飛流し、その声は雷の轟きの如し。中腹に下りては、廣数萬歩脊底の深測るべからず。棚数百段ありて、裾野に至ては益々広し。中腹を攀る者、ここに至りて過る事不能。遥かに裾野へ下り、漸く向の岸に移る。この間一日路ありと云う。これを、大澤と称す。按ずるに古詠にある所ノ鳴澤は、この澤の事ならんか。萬葉集に、----さぬらくは、たまのをばかり、こふらくはふじのたかねの、なるさわのごと----と、あり。
続古今 後鳥羽院けふり立思ひも下や氷るらん ふしの鳴澤音むせふ也 
新拾遺 慈圓 さみたるゝふしのなる澤水越て 音や姻に立まかふらん
新拾遺 権中納言公雅 飛螢思ひはふしと鳴澤に うつる影こそもえはもゆらん
夫木  俊頼紅葉ちるふしの鳴澤風越て 清見か闘に錦おるらし
夫木  俊成さみたれは高根もくものうちにして なるさはふしのしるし成けり
家集  源氏眞山澤のおとになるさのみなかみは 雪吹ふしの嵐なりけり
「無名抄」に云う。
五條三位入道は此道の長者にていますかされと、「ふしの鳴澤」を「ふしのなるさ」とよみて、「なるさの入道」と人にわらはれたまひしかは、いみしき此道の遺恨にてなん侍りし、これほとの事しり玉はぬにはあらすおもひわたり玉へりけるにこそ、藻塩草の一説には、「鳴澤」にあらす「な石」さと書なり、「なるさ」とはふしの山より、いさごふる事あり、其鳴音を「鳴沙」と云。ふしの山には白砂麓へ流れくだる事は一定なり。人のおるゝにつれて「いさご」下りて一夜の間に上ると云々。此説甚だ非なり。實地を踏ざる人の臆測なり。人の下るに連れて、砂こけ落ち、一夜の内に上ると云へるは登山の者の下向道にして、今これを「ハシリ」と称す。走り下るに随いて沙落る事は「藻塩草」の云うところの如し。而て一夜の間に上ると云うは、今も言ふ事なれど信じ難し。鳴澤の實地外に當るべき所なし。偏に大澤の古名なるべし。況(いわん)や、この澤の麓に至て「鳴澤村」ありて、古名を存するをや、然れば鳴澤は駿河に非ず。
《西ノ饗ノ河原・大日ノ懸鏡》
然(さ)て「剣ノ峯」を下れば「西ノ饗ノ河原」に出る。この辺り常に雪ありてテ巖下に氷柱下り極暑の節といえども塞氣堪がたし。また行く事数十歩にして小池あり。麗水常に湛たり。これを「金名水」ト称す。旅人これを汲みて、竹筒に入れ、或いは浄紙に?(ひた)して持ける。また「釈迦カ嶽」、「裂石」と云う所あり。この「外濱」を回れば奇巖突出し甚だ攀がたし。岩窟に取(糸追→一字)り絶?を升降して、漸く進む。窟中に「大日ノ懸鏡」あり、径一尺八寸、銘あり。云、文亀三年八月吉日、願主太郎三郎、と。 
《「安山禅師」入定の所》
また岩窟ノ間わずかに膝を容れるばかりの石あり。これ「安山禅師」入定の所なり。それより少し下りて、「弟子久圓」と云う者、師の跡を遺て、同じく入峯し跡あり。時に延宝五年五月十日なり。その伝、記別に記せり。骸骨、全くして近時まで存せしかど、大地震の時巖崩れて骨と共に深谷に落失せぬ。また東へ回れば漸く高平の峯に出る。石を以って丸める中に白骨あり。これは六七十年前、或執行者の入定せる遺骨なりと云う。人或は「安山ノ遺骨」と云うは誤なり。これより「藥師カ嶽」に下り、旧の道を下向する。八合目に下り、ここより「走道」に係り、五合五勺目まで砂礫と共に走り下り、「砂佛」と云う所に至りて止まる。ここに、二小屋あり。下向の人、休息する。懸鏡あり。銘に、----武州大里郡佐谷郷佳居、願主祐快、天文四年六月一日松鋳平子駒鋳、藤原長泰満吉千手平賀辰子小蔵梅子妙祐藤子松子----と、梵文八字あり。ここより左へ下れば「小御嶽」、右へ下れば、中宮に出て、初の道を下向すべし。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>