北杜市武川町の俳人 小沢草の王 『武川村誌』
草の王は、本名武八といい、明治三十年(1897)四月二十八日本村宮脇八七五番地に、父與逸、母いまの次男として生まれた。
東京薬学専門学校(現東京薬科大学)を卒業するや、横浜市八幡橋で小沢薬局を開業したが、昭和八年(1933)故あって宮脇の生家に帰り耕農薬局を開店した。その後牧原に出て武川薬局と改名して営業を続けた。
生来自然を愛し、学生時代から植物の研究にも専念した。特に山野の草花を好み、どんなに小さな草花でもその名前を知っていた。
学生時代から俳句を好み、薬剤師をしながら作句はしていたが、本格的に始めたのは日華事変の勃発したころからである。軍事色の高まる中で軍隊の異動が激しくなり道路沿いの田園で麦刈りをしていた武八はふと一句を作った。
車上の兵士麦刈る我れにほゝえみぬ
田園の土手に腰をおろして、茶を飲みながら家族に披露したのである。当時郷里に帰った武藤亜山等の感化をうけ仲間と共に盛んに作句をした。
その後は飯田蛇笏の主宰する雲母に所属するところとなり、もった才能を活かして県下に頭角を表わした。「雲母峡北支社武川吟社」を設立、雲母同人の乙顔幽夢を指導者に小学校の宿直室で長坂桂園、武藤亜山等と月例会をして俳句研鑽をつづけ、自らリーダーとなり、会の主宰運営に当たった。
武八は草の花を好んだことから号も「草の王」といい作句も草花に纏わる自然を詠んだものが多い。
朝顔のきりきり巻いてまだ暑し 草の王
また、武川吟社の主催による俳句大会を実相寺で行った際、蛇笏の御来篤を請うたところ快く引受けてくれた。蛇第は日野春駅から七里岩を徒歩で下り釜無川を越えて、多くの著名な高弟を引連れて来村された。
この時は実相寺の書院をうずめつくすほどの盛会であったという。草の王はこの句会で一位に技稿されたがどういう作句をしたのか記録がない。
「長坂桂園遺稿集」の中に草の王は、自ら寄稿文に桂園の句が二位に披稿され満場の拍手に迎えられたとして次の句が掲げられている。
棒桑に上衣投げかけ春耕す 桂園
晩春のころで伽藍の大屋根にかむる大木の辛夷がしきりに花をこぼしていたという。
日華事変は不拡大主義を唱えながらますます拡大して行き、逆に太平洋戦争へと突入してしまった、こういう戦中においても作句は続けた。
「雲母」昭和十八年五月号に、
果樹園のはだか木低く冬晴るゝ 草の王
寒明のかたりことりと水車 〃
日輪に雲無き光冬耕す 〃
武川吟社
石菖に氷つゞれる野川かな 桂園
朝日さす冬の川瀬に露立ちぬ 〃
氷上に近道のありおのづから 草の王
青々と寒九の水に木蔦垂る 〃
炭焼のゆくも帰りも月の径 美兆
老境を知りて睦月の人となる 〃
寒明や物蔭解けて月の車 武川
つぶらなる寒の葡萄を舌に触る 亜山
初茜雲やはらかに生れつぐ 々
雲母二十年四月号に
春虹を見るかんばせに雨の糸 草の」土
雲母が一時終戦を境に休刊となったが二十一年三月復刊すると直ちに投句した。戦後の主なるものをひろって見ると
門川や落花流れて絶え間なし 草の王
山蜘妹のつよき糸かな粟拾ふ 〃
からす鳴き宿雲の日ざし又かげる 〃
茄子畑の立枯るゝまま小雪舞ふ 〃
昭和二十二年春、武藤亜山等と共に飯田蛇笏を薮の湯に招待して、記念句会を催した。この句会は雲母峡北支社が主催したもので、飯田蛇笏に朝日俳壇の選者武石佐海をはじめ多くの高弟が同行した。佐海は昭和十七年、東京本社から甲府支局長に栄転した人である。この時の句は佐藤鳩村が寄せ書きを保持している
春風 山廬
甲斐駒の雪まだ輝るに花杏 佐海
薮の湯句会の寄せ書き
春陰の大瀬にいでて岳の道 舟月
蜊蚪春やまほじろの音を曳きぬ 蒼石
(蜊蚪=おたまじゃくし)
この寄せ書きに朝風が絵を画いている。主たる参加者は、乙顔幽夢をはじめ佐藤鳩村、中村一静、小林耕人、植松竹人、五味酒蝶、等の他武川吟社の俳人十数人が参加した。
この句会が催されてからは、戦後下火となっていた峡北吟社は再び盛大となり、毎月一回句会が開かれるようになった。
その後昭和二十六年武藤亜山、林立平等と「奥甲斐吟社」を創設し会員も二〇名を超え、長野県諏訪俳壇との交流も盛んに行われるに至った。一方、朝日俳壇には、精力的に投句を続け、ノートには克明に記されている。
全国から数多くの名句が寄せられる中で、なかなか取り上げられないと見えて、日誌には「一年に二回でもよいから自分を主張して見たい」と、しながら、「それでも七回出たということは小さな喜びだけれどとてもうれしい。わずか十七字という短評形の外に庶民専有の詩が活字になるとたのしいものだ」と書いている。
朝日新聞山梨俳句「武石佐海」選にも投句を続けた。ここではさすが常に巻頭に出されている。
窓に山無垢な童女の昼寝顔
新樹に風通じて朴の葉の重し
巻頭に二句出され選者からほめられている。佐海は、点景の「窓に山」は見なれた山ながら、さすがに手なれたもの、澄んだ句境といえると評している。草の王は日誌にほめられていやな気はしない、としながら二句の「葉の重し」は、「葉は重し」と投句したが、どちらがよいか問題だ、としている。
昭和三十七年(一九六二)には、「山梨俳句」選者賞に輝き、次の句が選ばれた。
迫る雨ひたすら屈し麦刈れる。 草の王
坂の道遅き夕焼け仄と受く 〃
選者武石佐海は、小沢草の王は県でも名の知られた古い作家だけに作風も堅実であぶなげがないと賞した。この三十七年という年は良い年であった。長野県諏訪市において、諏訪俳壇主催、信濃毎日後援による「諏訪俳壇秋季大会」が開かれ、奥甲斐吟社の連中を引き連れてこれに参加し、社中林立平が知事賞を獲得した。
昭和三十四年の冶風七号の被害によって、地域一帯が流失した。その中で武川薬局も濁流に呑まれ人命だけは助かったが、昔からの作句関係資料は悉く流失してしまった。
「水渦あと歳月すでに花南瓜」店が流失してから新しい薬局を建築した昭和三十七年に奥甲斐吟社連中一三名によって、「草の王新俳小屋第一回記念句会」が催されている。
雲母にも盛んに投句を続けていたので、雲母はまだ来ぬと待ちどおしく、既に此のころから師匠の蛇笏が病んでいたこともあって、先生が病気のために遅刊となっているかも知れないと、その淋しさを表わしている。
雲母への投句
風絶えて雷雲を呼ぶ竹煮草
とにかく草の王は精力的に方々へ投句したが、その中で「なるほどという感心する俳句もいいけれど、相手に、なるほどと思わせようとして作るのは、作為が見えすぎて不愉快である」といっている。
昭和三十七年、飯田蛇笏師匠が亡くなってからは、石原八束の主宰する「秋」同人となって作句を続け、昭和四十三年十二月号の「秋」に、
秋の日やけものの檻に石叩
の名句が、石原八束推薦で掲載された。また四十三年度年鑑同人自選句に
人間の奇妙な足に料叫さわる
犬が犬をやはらかに咬む春の草
がある。
句会も昭和四十年前後が一番のピークとなり、雲母峡北支社、奥甲斐吟社の共催による春季大会が、四十一年二月二十日に釜翠荘で開かれた。この時の参会者は実に三十数名に達し草の王は盛会を喜んでいる。
このように草の王は句会の発展高揚に努め本村の文化向上に力を注いで来たが、昭和五十一年九月、七十八歳を以って他界した。しかしながら武川薬局は今に空しいけれど、草の王の俳業は永遠に存するところである。
その後は長坂剛、斎木直治が引き継ぎ「奥甲斐吟社」は武川村文化協会の設立によって同会俳句部として現在に至っている。
草の王の妻みつえは、今はなき主人を偲んで、「都忘れ押花となり辞書の中」主人の使っていた辞書を開いて見たところ都忘れの草花が押し花となっていた。作者としてはどのように感じながら、この花を捉えたのであろうか。
草の王新俳小屋第一回句会記念 奥甲斐吟社連中
昭和三十四年八月十四日の台風七号によって草の王宅(武川薬局)は流失した。昭和三十六年に新築したのでその時の記念として句会が行われ草の王に寄せ書を送った。
懐手人の流れの街に出る 立平
職替えて見ても貧しや冬の蝿 牧夫
牛の尾の日に濡れたる冬の蝿 安耕
落葉焚く朝の聖らか駒岳のはれ 峡花
三寒の羽目板の蝿たゝかれず 清泉
冬蝿や荒野をよぎる日の友よ 草の王
ふところ手心の寂にふるる風 桂山
仰向けの冬蝿空をつかみけり 牧荘
剪定の手をふところにながめ居り 初心
嬰の眠り安かれと母冬の蝿 茂樹
坂雪の湖に公魚釣りの三三五五 非拓
売らんかな薪山の下見ふところ手 武川
懐手して新雪に口づける 白星
(以下略)