饅頭峠、饅頭石の山来
ふるさと明野をつづるシリーズ『わが里のむかしことば』
第五巻 方言・伝説・民話
昔の話に「御岳三里」という。言葉を思い出したが、それは、甲府からも今の明野からも、御岳迄は二里あると当時の人達は言い伝えた。
御岳は昔も今も山の中ではあるが、往来の人達は大勢であったように思われる。神仏に信仰があり、御岳に向って地方の人々が特に雨乞いなどのため、団体をくんで出掛けていったという。多くの人達が何処からともなく集まって、
御岳へ行くのには茅ヶ岳の東南で穂坂寄りの方、つまり、饅頭峠を越した方が最短距離であったのかと思われる。
今でもその道の傍らに石仏が点々と残り、旅路への道標として仏様の教えを受け、石の鳥居までも現存している。この様に昔の神仏の信仰は想像以上のものがあった事が推測できるのである。
御岳に弥勒寺という寺があったが、明治元年(一八六八)に廃寺となったが、その寺の住職に村岡融仙という偉い坊さんがいた。その坊さんは錫杖を突いて一枚歯の下駄を履き、御岳の弥勒に寸から小笠原の末寺である「福性院」まで日毎通ってこられた。
時代はすぎて、私は大正十四年に小笠原小学校の教員を拝命していたので、時々副性院に参詣した。そんな折、京都から廻って来られたという坊さんに逢い、昔話をいろいろ聞くことができた。その中で、饅頭峠と饅頭石のいわれに
ついては、これは福性院を兼務していたあの村岡融仙師のいい伝えであると言う。
今から千二、参百年前の遠い昔、弘法大師(空海)が全国を巡教の際、御岳へ行く途中この峠の辻に着いた。当時は旅人のために休みする茶店があり、饅頭を作って売っている一人のお婆さんがいた。大師はその店を眺め並べてある饅頭を見て「私にその饅頭を売ってくれないか」とお婆さんに声をかけると、お婆さんは大師の姿が余りにもみすぼらしいので、「お前さんの様な乞食坊主に売る饅頭はないよ」と言って売ってくれなかった。
大師はお婆さんの心を見抜いて、如何なる大に売るにも穴心のある饅頭を作って貰うために戒めねばならないと、人師は懇々と諭したが中々お婆さんは間いてくれなかった。大師はやむなしと秘密の法によって、饅頭を食べられな
いよう石と化してしまった。
お婆さんはいつものように饅頭を作って店に並べていると、旅人がその饅頭を買って食べようとしたが、石饅頭で固くて食べられない。その後もお婆さんは饅頭を作り続けたが、石饅頭のため売れなくなり、最後には生活に困り峠の
店を閉めて山を下り、何処かへ姿を消したと言う。
このようにお婆さんが毎日毎日作っては捨てたという石饅頭が、今でも峠の中から出てきているのである。ある時、小学校の児童を連れて饅頭峠へ遠足に行った事があるが、何人かの児童が、「先生!饅頭石があった」と私の所へ持って来て割って見せた。私も二、三個拾って学校へ持ち帰った記憶がある。
弘法大師と言うお坊さんは、全国いたる所へ衆生済度の旅をなし、地を指しで池となし、岩を叩いて火をおこし、人の病を癒したりなど千差万化の遺業は、今の世にも遺徳として見受けられている。饅頭峠の饅頭石もその一つであると思うのである。北杜巾明野町に伝わる民話。現在は饅頭峠として残されている。(明野寿大学 上野)