武将の文書 真田昌幸の手紙
二木謙一氏著(国学院大学助教授)
慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦に際して、信濃の大名真田氏では、父子・兄弟がそれぞれ敵味方に分かれて戦った。すなわち、昌幸とその次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍徳川方に従った。
そして昌幸・信繁父子は、石田三成の挙兵を知って東山道を西上する徳川秀忠の率いる六万の大軍を、わずか二千の兵をもって上田城にひきつけ、九月十五日の美濃関ケ原の決戦に遅刻させたことは、史上によく知られている。しかし、天下分け目の決戦が西車の惨取に終わったため、昌幸は死罪に問われた。が、東軍に従った信幸が自己の恩賞と引き換えに父昌幸と弟信繁の助命を嘆願したため、父子は死を免がれ、紀州高野山に逃れた。
高野山に登った真田父子は、蓮華定院に入ったが、やがてその山麓の九度山に屋敷を作って移り、昌幸はここで慶長十六年(一六一一)六月四日、六十五歳で没するまで十年余の間、流人としての日々を過ごした。
次の手紙は、安房守昌幸が、長男伊豆守信幸に宛てて書いた自筆の書状セある。日付の「卯月廿七日」は慶長十六年の四月二十七日、その死の約ひと月ほど前のものである。
尚々、其の後知気相如何に候哉、承り候ひて飛脚を以て申し入れ供。我等命の儀、分別致さざる病に、候間、迷惑御察しあるべく候。何様使者を以て申し入るべく候。以上
態と飛脚を以て申し入れ候。春中は、御煩ひ様に承り候間、案じ入り候へ共、筆に尽し難く存じ候処、御煩ひ御平癒の由、御報に預り候ひつる間、満足これに過ぎず候。弥御気相能く候由、目出此の事に候。申すに及ばず候へども、御油断なく御養生専一に候。終らば我等儀、去年病気の如く当年も煩ひ横間、迷惑御推量あるべく候。十余年存じ候儀も一度面上を遂げ候かと存じ候処に、只今の分は望み成り難く候。但し着生の儀油断なく致し候間、目出たく平癒致し、一度面談を遂ぐべく存じ候間、御心安かるべく候。恐々謹言。
(慶長十六年)卯月二十七日 安房昌幸(花押)
豆州(伊豆守信幸)参
文意は
わざわぎ飛脚をもって申し入れる。春のうちは、そなたの病気が重かったことを聞き及び、気にかけながらも、わが気持を筆に表わせないでいたところ、御病気が平癒されたという便りに接し、喜んでいる。いよいよ快方に向かっているとのこと何よりである。
申すまでもないことではあるが、注意を怠らず着生に心掛けられたい。然らば私も、去年病気で過ごしたように、当年も病が抜けず、苦悩している気持は御推量いただけよう。十余年以来抱き続けている心中を、一度お目にかかって陳述したいと思っているが、いまやその望みも適しがたい。但し養生にはつとめ、めでたく平癒し、一度面談したいと考えているから御安心下され。なお、そなたのその後の病状はいかがですか。私の病気は生死の判断もわからぬような難病、この苦しみの胸中を察して下され。いろいろのことは使者が申すであろう。
というのである。
この手紙は、昌幸が蟄居していた高野の山里から、信幸の病気を心配し、自分の病状のよくないことを報じたものであるが、文中で「十余年以来抱き続けていた心中を、一度会って陳述したい」といっているのは、あの関ヶ原合戦における真田父子・兄弟のとった奇妙な行動について語っているようで、いささか興味をひく。
ところで慶長五年の七月、徳川家康の会津遠征に従い、下野の犬伏で石田三成挙兵の報を受けた昌幸は、信幸・信繋兄弟に向背の道を自由に選ばせ、その結果、家康の寵臣本多忠勝の娘をめとっていた信幸は東軍に属し、豊臣家の奉行大谷吉継の娘を妻とし、かつ三成とも親しかった信繁は、昌幸とともに西軍に味方することになったといわれている。
しかし、この関ケ原における真田父子・兄弟の訣別について、いっぽうには、家を守るために意識的に敵味方に分かれたとみる考え方もある。
「東西に見ごろをわける真田縞」
「たね銭(真田氏家紋)が関東方に残るなり」
「銭づかひ上手にしたは安房守(昌幸)」
これらの狂句も、同様の考え方から作られたものである。
たしかに昌幸の立場からみれば、こうした、考え方にも納得がいく。もともと昌幸は、豊臣にも徳川にも、それほど恩顧を受けていたわけではなかった。真田氏は信濃佐久郡の小豪族であり、はじめ村上氏に属し、武田信玄の信濃侵入とともにこれに従い、さらに武田滅亡と同時に信長に通じ、その後も北条に就き、家康になびくといった狡猾なまでの保身術をもって、戦国の世をたくみに生き抜いたのだ。
こうした昌幸の処世ぶりは、秀吉に「表裏比興」、とまでいわせている。「表裏」は謀叛、「比興」は「卑怯」という意味である。昌幸はまさに表裏比興に徹して、時勢の流れを的確にとらえ、その間隙をぬって、自家の発展拡大に成功してきたのであった。だから昌幸が東西いずれに勝敗が決しようとも、わが手で築いてきた真田家を滅ぼすことだけはしたくないと考えたのも当然であろう。そして結果として、真田の家名は松代十万石に封ぜられた信幸によって存続されたのであるから、昌幸の筋書きどおりになったといえる。しかしこの思惑も、昌幸の胸の中だけに納めていたことであったらしい。真田家で編纂した家史によると、犬伏における父子三人の余談では、西軍参加を主張する信繋と、東軍従属を一歩も譲らぬ信幸との間で、論策が激昂したことを記している。あれから十年余、昌幸は重い病の床にあって、信幸に対して、胸に秘めてき真意を吐露したかったであろう。