甲斐源氏(かいげんじ〕(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
清和天皇(850-880年〕を祖とする清和源氏の一流。新羅三郎源義光から出る。義光が甲斐守に任ぜられ、若神子の館に住んだというが未詳(筆註—これは不可能)。
義光の子義清は12世紀の初めころ市河(川〕庄(青島庄ともいう)の庄司(筆註—これも違う。実際は罪を犯して甲斐に流された)として甲斐に土着、その子清光は逸見庄を根拠として勢力を拡張した。精光には多くの男子があり、それぞれ国内の婁
地を占拠してその地名によって氏を称し、それらの子孫がさらに多くの分脈を生じ、甲斐源氏は天下の大族となって繁栄した。
後世、特に栄えたのは信義と還光(加賀美〕の子孫である。信義は武河庄武田(韮崎市神山町〕によって武田氏の櫨となり、子孫は甲斐、安芸、若狭などの守護となったが、特に甲斐武田氏は戦国時代(1467-1568年〕に信玄が出て天下を争った。
また、還光は加賀美(若草町)によって加賀美氏を称したが、その子孫は南部氏、小笠原氏などとなった。南部氏は陸奥の雄族として江戸時代(1603-1867年〕には盛岡藩主となり、小笠原氏は室町時代(1393-1572年)には信濃守護、江戸時代には豊前小倉、肥前唐津、越前勝山などの藩主となった。<磯貝正義氏著>