北杜市の先人 武川町 武藤亜山と短歌
『武川村誌』一部加筆
武藤亜山は通称忠信といい明治二十三年(1895)三月十五日、本村下三吹二四一七番地に武藤代作の長男として生まれた。亜山は主として俳句を選科としたが、短歌もまたなかなかの達人であった。
昭和の初期広島県三原市に住したころ「詩のとも」という雑誌の創刊号に祝吟を詠じた。
星一つ空に残りてさやかなる 朝晩うれし秋のあけぼの
また広島市東白畠町岡本明の主催する「言霊」会に所属していた。昭和十年前後には精力的に投稿したので其の一部を掲載しておきたい。
この窓の茂りて空をうしないぬ 静かなる朝昼顔の花
今年また花を持たざる葡萄より 虫葉の梢蜩(ひぐらし)の鳴く
ほうほけきょ薮の中にも日があるよ 釈迦の日近き栴の光り
山の秀はたゞ常錆の七里岩 神代桜ねて居ても見ゆ
八ケ嶽傾斜の裾に大泉 そのはてにまた小泉あるらし
ワイシャツの胸もとかたく固めけり たにし(田螺)に泥を吐かしめており
軍歌溢る啻ならぬ世を秋来り ひしひしと寒さおもはゆるかも
みんなみの国なる君の選ばれて 立ち征くすがた夜毎に思ほゆ
忠信「愛誦歌の一首」に
いたづらに反故はみちらしはみちらし ななそとせおいぬおぞの羊われ
(坪内逍遥)
坪内逍遥七十一歳をむかえた昭和四年春の作、戦時体制の中にはりきっている私たちの生活の中にも、こうした一面があってもいい。
事変短歌に向かっていっせいに進軍するであろう、これからの短歌の中にも、真実静かなる他面を見まもることも無意義ではない。私に目標を示してくれるこの歌が今また新しい考え方を私にもたせてくれたことをうれしく思う。江戸末期の歌人平賀元義は万葉集の講延に講師として臨んだが、ただ人暦の歌を繰り返し朗読しているだけなので、終に怪しみ尋ねられたところ「歌は感ずるべきもので説くものではない」といってさらに朗読を続けたという。柄でない琴言をもてあそぶより犯に浸っていたいと思う。忠信はこのように記している。
次に「春場所」と題して、
蒲団の雨欺声大鉄傘内に響きて あとは静かなりけり
と詠じている。このころは国技館の相撲は双葉山全盛時代であった。
子供等のふらここに暮の陽は淡し 鉢の金魚がまだ生きており
笹舟を子は丹念につくりおり 吾は疲れて妻の側にねぶる。
「言霊」の選者が合評した歌がある。
たばこの火すればわずかにあたゝかく 雪解の水の走る六窪
「六窪」とは何だろう地名じゃないのか、六窪という所に川があるだろうと評しているが、「六窪」とは中山の柳沢から見える地名である。「たばこの火すれば」は鋭くないが読者を引き付けるものがある。雪どけとたばこの火との対象がよい。また一人は境地は確かこよいが、表現上には少し無理があると評している。
亜山は幼い時母を亡くし、継母のもとで育てられたため詠歌の中にもどこかに現れているところがある。また反面滑稽なるところも出ている。その時代における感情即ち喜怒哀楽などの気持、対象を意識して心の中に起こる主観的な精神活動が良く歌い込まれていてすばらしい。
晩年は専ら俳諧を楽しみながら生涯を文芸に勤しみ、昭和二十七年六十三歳をもってこの世を閉じたことはまことにおしい極みであった。