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広重の甲斐路旅日記

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広重の甲斐路旅日記

『街道物語』甲州街道 三昧堂

安藤家略歴

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広重はその技法の遠近透視法が西洋画に影響をあたえ、好んで使った青色は広重ブルーとして知られながら、前場が幕府定火消同心だったことはあまり知られていない。
 一立斎(安藤)広重は寛政九年(一七九七)江戸に生まれた。幕臣である。父の役職は定火消役同心といって、四、五千石以上の旗本がつかさどる〝定火消御役〟に所属して、臥煙(がえん)と呼ぶ、三百人の火消し人足の指揮と取締りにあたった。
 禄高は、一般におなじみの定廻り町方同心とおなじの三十俵三人扶持から、十五俵二人扶持と低いが、身分は御譜代准席と御抱席があり、厳密にはそうではないが、ほとんどが世襲を認められていた。
 火消屋敷は八代洲河岸、赤坂溜池、半蔵御門外などの十カ所で、江戸城を取巻く形で置かれていた。
 定火消の設定は慶安三年(一六五〇)六月、三代将軍家光時代の終わりごろであり、江戸風物の代表の一つ、町火消より七十年たらず以前であり、ついでながら、大名火消は享保七年(一七二二)だから、さらに四、五年あとになる。
 広重の父親は八代洲河岸勤務であった。八代洲河岸は現在の皇居前、馬場先門から日比谷交差点にかけての一帯で、いまは丸の内のビル街になっている。
 十六歳のとき、父が退隠したため広重がその職をついだ。だが三十俵(石)という小禄ではきわめて生活が苦しい。それが広重をのちの大画家に成長させる理由にもなるのだが、この歳から三十六歳までの二十年間、広重は幼年時代から好きであった画道にうちこみ、それで生計を助けていた。
 その広重が世に出るきっかけは、天保三年から四年(一八三二~三)にかけて、描き、出版した『東海道五十三次』によってだが、これは天保三年役目を辞した広重が、幕府の内命をうけ、七月に行なわれる御馬献上の行事のスケッチのため、京都に赴いたときの道中スケッチがもとになっており、このとき、広重は限りないロマンを盛り込んだ風景画家として、着実な第一歩をきざんだといえよう。
 それまでの広重は、幕臣である以上みだりに宿泊旅行もできぬまま、風景画はせいぜい江の島・鎌倉あたり、生計のためには美人画や役者絵を多く描いていたのであった。

甲斐への道中記

 その広重は天保十一年(一八四一)四月、甲府をおとずれた。名作・東海道五十三次を世に出してからすでに九年の歳月が流れ、いまや広重の名は世間にあまねく知られていたし、定火消同心時代には考えられなかったほど、生活も豊かであったろう。
 道中日記は晩春の甲州街道を、食物にうるさい江戸っ子らしく小マメに観察しながら綴られている。
「四日、晴天。野田尻を立って犬目にかかる。この坂道、富士を見て行く。座頭ころばしという道あり。犬目峠の宿、しからきという茶屋に休む。この茶屋、当三月一日見世(店)ひらきしよし。女夫ども、江戸新橋の者、仕立屋職人なりとの話。居候一人、これも江戸者なり……」
 ここで、だんご、にしめ、桂川白酒、ふじの甘酒、澄酒(清酒)味醂などが売られていて、「見世少々きれいなり」と感想をのべている。
 このあと次の上鳥沢までの一里十二町は、帰り馬に乗り、鳥沢で下りて猿橋に向かう。
「猿はしまで行く道二十六町の間、甲斐の山々遠近に連らなり、山高く谷深く桂川の流れ清麗なり。十歩、二十歩行く間に変わる絶景、言語に絶えたり。拙筆に写し難し」
 とその風光を激賞し、猿橋の茶屋で、やまめの焼きびたし、菜びたしを食べている。
「大月の宿、富士登山の追分あり。右へ行きて坂を下り、大なる橋あり。谷川流れすさまじく、奇石多し。岩石聳え、樹木しげり、四方山にして屏風を立てしごとく、山水面白くまた物すごし。この大橋朽ち損じて、わきに掛けしと見える橋あり」
 大月の町はずれの山は、武田勝頼の滅亡に加担した小山田信茂の居城のあった岩殿山をはじめとして、たしかに岩山が多く、このあたりの描写は、いかにも風景画家の広重らしい。
「上初狩はずれに茶屋あり。だんご四本食う。この所の女房、甲府八日町生まれにて、江戸へも行きしとなり。かつ、珍しく茶釜にて茶を煮る」
 このあたりで日暮れとなり、広重は黒野田宿で宿を求めるが、最初狙いをつけた扇屋で断わられ、やむなく泊まった若松屋のあまりの不衛生さに憤慨しているが、きれい好きの、江戸者らしい感じ方であろう。
「この家、古今汚なし。前の小松屋に倍して、むさいこと言わん方なし。壁崩れ、床落ち、地虫座敷を這いて、畳あれども填積み、くもの巣まといし破れあんどん、欠け火鉢一つ」
 で、よかったのは湯呑み形の茶碗だけで、「家に過ぎたり」と書いている。こんな汚ない宿とあれば、食事もそこそこにしそうなものを、よほど食い気満点なせいか、「料理献立」として、
「皿、めざし、いわし四ッ。汁、平、わさび、ごぼう、豆腐、いも、飯」
 と記録している。
 この日の道中で江戸品川の人という三、四人連れとたびたび一緒になったが、少し言葉を交わしたところ「気障あるゆえ」はずした。いかにも芸術家らしい、神経のこまかさであろう。
「五日 晴天。黒野田を立ちて、笹子峠にかかる。半分ほど登りて休む。江戸男女姉弟づれ、遠州掛川の人男女三人づれ、甲州市川在(現市川大門)禅坊主と俗(一般人)一人にあい、物言う。それよりまた登りて、矢立の杉左にあり。樹木生い茂り、谷川の音、諸鳥の声いと面白く、うかうかと峠を越えて休む。下りにかかる」
 ここで一句。
  ゆくあしをまたとどめけり杜鵑(ほととぎす)

甲府へ、その仕事ぶり

 笹子峠で甲斐に入った甲州街道は、甘酒屋をすぎて麓の駒飼、甲州第一番目の宿をすぎて鶴瀬にかかる。
「鶴瀬の宿をすぎ、細き山道十三町行きて、つるせの番所を通る。女は切手あり。この町にて飯食う。山うど、煮つけ平なり」
 鶴瀬の番所(関所)は箱根ほどではなかったにせよ、天領甲斐の番所としてうるさかった。女は切手ありとは、切手改めをいうが、ついでながら、切手は町人(商人ではない)が道中に携行を義務づけられている身分証明書であり、一人分一枚であり、関所手形は一人の場合は別として、仮に三人連れだったら三人分一枚発行された。手取を必要とするのは、箱根関所以外は江戸から出るときだけで、入るときは〝御挨拶〟だけで不要である。ただし女は上り下りとも改めをうけた。
 さて広重は昼食のあと、
「それより横吹という原へかかる。このあたりより江戸講中、一群と連立つ。右は山にて、山の腰を行く。左に谷川、高山に岩石そびえ、樹木茂り、向こうに白根ケ岳、地蔵ケ岳、八ヶ岳など高峰見えで古今絶景なり」
 いまや甲府盆地に入ったばかりという地点で八ヶ岳連峰と南アルブスが一望できた広重は、文中感動しているように好運だったというほかない。今日では、よほどのことがない限り、この二つの連山は、旅人に同時に姿をみせてくれないのである。

勝沼・ぶどう

「ここに柏尾山大せん寺という寺あり。門前に鳥居ありて、額に『馬一疋 牛一頭』とあり、(由来)きかず。このあたりより先、勝たりまで名物ぶどうを作り、棚あまた 掛けあり。かつ沼(勝沼)。この町長し。ここにて江戸連中と共に、常盤屋という茶屋にてしたく。玉子とじにてめし。飯安し。江戸もの
は横道にはいる。この茶屋出ると、また江戸姉弟と市川の人にあう。この道連れ、はなはだ面白し」
 広重のいうように、勝沼の町はおそろしく長いことはいまも変わりはない。
 国道二〇号線となった甲州街道をたどると、勝沼町の標識などなくても、とたんに軒を並べはじめるぶどう園の直売所で、勝沼に入ったことがわかる。
 甲州ぶどうの生産は、ごく近年と思われがちだが、新種の栽培は別として、つたえでは鎌倉時代の文治二年(一一八六)とあるから、平氏が長門壇ノ浦に滅亡した翌年で、かなり古い歴史をもつ。

雨宮勘解由

 この年、勝沼町上岩崎に住む雨宮勘解由という人物が、岩崎山中腹で見つけた山ぶどうを持ち帰り、城正寺という寺で育てたのがはじまりという。
 勘解由の努力は五年もつづき、建久元年(一一九〇)にやっと三十房を収穫できたというから、おそろしく高価なものであった。
 建久八年、勘解由は、おりから善光寺参詣におもむく源頼朝に、宝物にひとしい三十籠を献上した。
 時代がくだり、信玄時代の天文年間(一五三二~一五五四)には、勘解由の子孫織部が信玄に献上、佩刀一口を拝領したという。

長田徳本

 それまで平地栽培だったぶどうを、現在の棚栽培に変えたのは、江戸初期の本草学者で、もとは信玄の侍医であった長田徳本という医者。
徳本は号を如駁撃乾鄭などと称したが、諸国を転々としたため、生国ははっきりしない。
 脱俗の人といい、貧しい者に情深く、自ら薬袋を首にかけ、「甲斐の徳本、一服十八文」と薬を呼び売りしたという。
 甲斐に草庵を結んでいた元和年間(一六一五~二三)、上岩崎のぶどう栽培地をしばしばおとずれ、ぶどうが美味であるばかりでなく、滋養になることに着眼、栽培の改良を思いたって調査研究した結果、棚栽培を考え出したという。

雨宮竹輔

 こうしていま、ぶどうは山梨名産の代表にかぞえられるようになったが、ついでながら、いわゆるデラぶどうは、勘解由の血脈である雨宮竹輔という人が、明治十九年に渡米、三十余種の新苗を移入したのがはじまりとされ、その後も新種の移入がつづくと同時に、品種の改良も加えられた。

石和

 さてぶどう直売所がとだえた先で、甲州街道は笛吹川を越えて石和にはいる。
「石和の宿に至る。入口の茶屋にて江戸講中、大勢休み居る。ことの外にぎやか。ここにて焼酎一杯、うどん一膳食う。江戸姉弟の道連れは、浅草にて梅川平蔵、阿仲をよく知る人なり。勝沼よりこのあたり、平地にて、道至ってよし、それより瀧手を越えて、甲府の町にとりつく」
 団体旅行客のにぎやかなのは、昔も今も変わりはなかったろう。

旅立ち

 普通の人で、多くても数年に一度、生涯一度も箱根山を越えたことがないという人が、江戸っ子のなかにざらにいた時代である。
 旅立ちときまると、気の早い着で数カ月前、旅馴れた者でも半月や十日も前から準備にかかり、それが一カ月以上もかかる、上郡方面への旅ともなれば、前々日あたりから餞別客がつぎつぎに連れ立って挨拶にくるし、出立の当日は
家族や主だった親族、友人・知人が、甲州街道なら内藤新宿まで見送ったほど、昔の旅は大ゲサにいえば一大壮挙であった。したがって、一人旅というのは、よほど旅馴れした者でなければほとんどせず、二、三人連れか、講中での十五、六人の団体旅行というのが、商用以外の旅の形であった。
 広重の旅は甲府入りで終わるのだが、ついでに甲府での行動記録をつづけてみよう。画家という職業に関係なく、いわゆる〝所用〟が、どういう手順で行なわれるのか、興味あるところであろう。

甲府での行動記録

 甲府に入った広重は、柳町で連れにわかれ、七ッ時分(日没二時間前)に、緑町一丁目の伊勢屋平八宅に着き、なにはともあれ入浴、さかやきを整えた。この家が広重を招いたのであろう。
「六日 晴天。かひや町芝居へ行く。狂言、伊達の大木戸、二幕見物。用事これあり帰る。幕御世話人衆に対面す。酒盛りあり」
「七日 晴天。朝、さの川市議に全う。朝より芝居見物。しらぬ女中より茶菓子もらう。返礼す。お俊伝兵衛、いろは四十七人新まく(ともに芝居の外)」
「八日 晴天。朝、荷物到着。幕霞ようやくきまる」
「九日 晴天。細工所きまる。昼過ぎより芝居見物。それより町々ふらつき、一蓮寺へ行く。境内稲荷、天神、その外末社あり。土弓場、料理茶屋などあり。遠光寺まえ料理にて夜食。たくさん御馳走になる」
 甲府に着いてから九日王での三日間、広重は仕事らしい仕事をしていない.八日に荷物到着とあるところを見ると、この旅は打合わせや下検分といった目的のものではなく、現地で執筆するつもりで江戸を発ち、道具類は別便で送ら
せたもののようだ。
 それにしてもよく酒盛りをする広重である。
もっとも、甲府の町は、すこぶる酒屋が多かったというから、土地の人もしぜん酒好きが多いのかもしれない。
「十日朝、曇晴。二間に一間(約四メートル×二メートル)の鍾旭を描く。幕世話人衆、奥にて酒もり。少々馳走になる。夕方、亀雄大人同道、一蓮寺貸し座敷にて酒もり。三桂法師同道。石橋庵にてさわぎ」
 このあと、十一日に五尺の屏風一枚、十二日にはふすま四枚、十四日にはふすま二枚というように、夜はあいかわらず馳走酒にありついているが、昼は大へんなスピードで大作を描きあげている。
 これだけの大家が、出張してきての大作執筆とあれば、画料も相当なもので、鐘馗が金二百疋、幕の絵というのが五両とある。
 このころの貸弊価値がどのくらいであったか確実なことはわからないが、米一石がほぼ一両としてみれば、およその見当はつこう。
 広重はこのあと、中仙道をテーマにした『木曽海道六拾九次』を英泉と共作したりしたが、安政五年(一八五入)、六十二歳でその偉大な生涯を終えている。
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