相寺神代桜碑文
甲州山高邑桜樹碑
読み下し
峡の山高邑は一条氏の城址なり。精舎有り、実相と曰う。昔、運上人峡中に遊化して法を説かるるの処なり(説法する処の所なり)。
南面に老桜有り、周囲七尋。蓋し七百年以上の物なり。遠条は鳳の飛び立つがごとく蟠根(バンコン)は虎の躇まるがごとし。春時に至れば花開き芽芳として四方に聞こゆ。これを望めば雲の如く一大奇観なり。相伝う、後陽成帝の皇子華頂王幸灯祠に謫居せられて数年常に帰らんかのなげきをいだき、悒快として楽まず。ただ花の時ごとに樹下に来り逍遥し、諷詠し以ってくにを懐うの情を忘る。是のゆえに文人墨士遊賞する老今に至るも相つぐと云う、それ峡は勝区奇迹多くして草木もまた常と異なるもの有り。
桜は老い易きものなり、しかるに千載になんなんとして生意尽きず、高大繁茂するかくのごとく其れ盛なり。豈(イワンヤ)土地の常に非ざるの以(ユエ)にあらざらんや。柳もまた大士の如き有りて擁護するものか。甘棠の召南に詠じ、古栢の蜀中に歌うは樹の異なるにあらぎるなり。其の人を思うなり。独り斯の樹の麗華たる。風韻を幸貴彙の者に慕い、芽芳を来世に伝えざるべけんや。
これに係るに銘を以ってす、曰ク、峡土秀麗。其山嶇(ク けわしい)たり。何ぞ彼の穠(ショウ しげる)なるかな。これ桜の華。千仞(ジン)本擢(ヌキ)きんで、万畝陰敷く。煒々(イイ かがやく)僅々たり。異香衢(チマタ)に満つ。姑射(コヤ)雪に封じ、赤城霞起つ。これ皇国の産。八紘無き所。況や復た千載をや。久しく栄えて枯れず。大士説法し、帝子遊娯す。観る者賛嘆し、觚(コク さかずき)を操って踟蹰(チチュウ)す。桜は皇国に生じず。所在に能く育つ。芳野泊瀬なり。数百千域。未だ斯くの如くなるを開かず。寿にして且つ郁々(イクイク)たり。生意の隆んなる。神のたすくる所。今逸異を著す。これ石これ勒(キザ)む。もろもろの已往(イオウ)を観て、知り伝えて極まりなし。
万延元年庚申(一八六〇)春
機山公十世の孫従四位下前の侍従源の信之撰。
甲州山高邑桜樹碑の碑文選者
機山公(武田信玄)十世孫従四位下前侍従源信之とは、武田信之のことである。この武田家は信玄の二男信親の系で、
信玄-信親-信道-信正-信興-信安-信明-護信-信典-信之-崇信-信任-要子-信保-昌信(当主)というわけである。
信之は信典の晴男で、幕府の高家武田家の家督をつぐと、家例により従五位下侍従、左京大夫に叙せられたが、安政四年に従四位下に昇叙、高家肝煎役を仰付られた。漢学をきわめ、書道に秀で、雅号を舜山といった。喜は石原嵩山である。
嵩山は通称太郎左衛門、諱は守政、八森館嵩山又は徳翁と号した。漢学を市川南屏に学び特に音韻学に精し、詩文俳諧を能くし、文書道に長じ特に好んで古篆を書いた。明治十五年二月九日八十九歳をもって逝く。実に鳳風山下の碩学であった。