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松代藩の概略 真田の歴史

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松代藩の概略 真田の歴史

『新編 物語藩史』第4巻 児玉幸多氏・北島正元氏著
 
 松代藩は、信濃国(長野県)払代周辺を領有した外様(初期、譜代)中藩である。越後と境を接するこの地に、武田信玄は川中島の合戦で名高い上杉軍との戦いに備える前進基地として海津(川中島、のち松代)城を築いたが、天正十年(一五八二)武田氏が滅亡すると、上杉景勝領となった。
 慶長三年(一五九八)景勝が会津へ移封すると、田丸直昌が川中島城主となり、高井・更級・埴科三郡内に四万石を領有した。同五年直昌は美濃岩村に移封となり、美濃兼山より森忠政が川中島四郡十三万九千石で入封したが、同八
年美作津山に移封すると、下総佐倉より松平忠輝(家康の六男)が十四万石(水内・高井・更級・埴科。以後薄領は川中島と分離し、この四郡となる)で入封、元和二年(一六一六)越後高田へ移封となった。その後に常陸下妻より松平(越前家)忠昌が十二万石で入封したが、同五年越後高田へ転ずると、同地から入替りに酒井忠勝が十万石で入封したが、これも同八年出羽鶴岡へ移封となり、代って真田信之(のぶゆき 信幸)が信濃上田九万五千石から十三万五千石に加増されて入封し、藩主の定着をみる。

真田信之

 信之は、関ケ原の役で父昌幸・弟信繁と訣を分かちて東軍に与し、役後その功により上野沼田二万七千石から上田へ加転していた。真田氏は信之のあと、信政・幸道・信弘・信安・幸弘・幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)幸教(ゆきのり)・幸民と十代、約二百五十年にわたり在封した。

真田信政

 この間、信政は明暦二年(一六五六)、甥信利に沼田三万五千石を分封し、以後十方石となった。真田氏は、公儀課役、御助役、普請助役等をたびたび命ぜられ、これがために藩財政は次第に逼迫した。また地方知行を与えられた家臣
の多くが、信房の行った検地によって知行権の保証強化に
つながり、増徴をはかったため、延宝二年(一六七四)には「二斗八騒動」が起ったほか、一揆・打毀しの蜂起をみたし、寛延三年(一七五〇)には、扶持米不払いを不服とする足軽らの出勤拒否を引き起している。

八代幸貫

 幕末、松平定信の二男という血筋で老中となった八代幸貫は、佐久間象山を自藩に招き、大砲鋳造・蘭学振興などをはかった。維新にあたっては、いちはやく拳藩勤王の態度を周らかにしている。
 明治四年(一八七一)廃藩となり、松代の地は松代県を経て、長野県に編入された。 

真田三代と藩祖、信之

 真田というと、まず頭にうかぶのは真田幸村(信繁)であり、真田十勇士であろう。その武勇伝は『真田三代記』などでよく知られている。真田三代というのは幸隆・昌幸・幸村の三代であるが、実は幸村は真田家を継いだわけでは
なく、本当の三代目はその兄信之であり、この信之が、松代藩祖である。しかし、真田宏の輝かしい武勲を語るには、どうしても幸村に言及せざるを得ない。そこで、本論に先立って幸隆・昌幸・幸村の三人について略述しよう。
 真田家発祥の地は、現在の長野県小県郡真田町真田である。ここは上田市北部の谷の入口の部落で、スキーで知られた菅平高原の登山口にあたるが、昔は鳥居峠を越えて上野国へ抜ける道筋であり、また西は地蔵峠を越えて松代へ
も出られる交通の要地である。真田氏はこの地を本貫とする滋野系海野氏の支族であった。滋野氏は平安時代に信濃国に土着した国司の子孫らしく、望月牧など牧場地帯を中心に武士として栄え、海野・禰津・望月の滋野三宏をはじ
め多くの家に分れた。海野はその本家にあたる。戦国時代に真田氏勃興の基をつくった幸隆は海野宗家の女婿だったらしい。

真田幸隆

天文十年(一五五四)武田信虎は、村上義清をさそって海野氏らをはさみ打ちにし、海野一族らはあるいは上野へ逃げ、あるいは降った。
幸隆は上野へ逃げたが、この年信虎は子晴信(信玄)に追われ、その数年後には幸隆は信玄の謀将として、その東信濃侵略の水先案内をつとめて大活躍するようになる。
やがて東信濃は武田領となり、幸隆は旧領を回復して、さらに川中島の戦いでも武田方の有力な部将として活躍した。上野には滋野一族が多く住んでいたので、晩年には信玄の命で西上野の経略をすすめたが、信玄におくれること一年、天正二年(一五七四)六十二歳で没しだ。

真田信綱 戦死

 長子信綱が跡を継いだが、翌天正三年の長篠の戦いで弟昌輝とともに戦死、三男の昌幸が家を継ぐことになった。

真田昌幸

昌幸は若くして信玄の近習となり、武藤喜兵衛と称していたが、本姓に帰って家を継ぎ、西上野の経略をすすめた。
天正十年武田氏が滅びると、その重臣の多くが没落したなかで、昌幸は独立への道を歩み、まず北条民政に属し、織田信長によしみを通じ、次いで徳川家康に従い、いくばくもなく上砂景勝に頼って家康に抗した。豊臣秀吉は昌幸を表裏比興の者と称したが、諸強豪にはさまれた新興の小大名真田には、これよりほかに自立の道はなかったわけであろう。

真田信之 徳川方

 天正十三年閏八月、徳川軍は上田城を攻撃したが、昌幸は長子信之とともに迎え撃って、大いにこれを破った。しかし翌年、秀吉のあっせんで家康と和し、長子信之を家康に出仕させた。人質の意味であろう。信之は家康の臣本多
忠勝の娘を妻とし、徳川家と強く結ばれるようになった。
 慶長五年(一八〇〇)五月、家康は上杉景勝討伐を令し、昌幸は長子信之・次子幸村とともにその軍に従って下野犬伏まで出陣した時、石田三成の密使が訪れた。昌幸は三成と相婿の関係にあり、幸村も豊臣家の将大谷吉継の娘を妻
にして深い関係にあるので石田方に寝返り、信之ひとり徳川方にとどまった。
昌幸・幸村は徳川の陣から抜け出して上田城にたてこもり、徳川秀忠のひきいる東山道軍を迎え撃ってこれを破り、秀忠はついに関ケ原の戦いに間にあわず、面目を失した。不敗を誇る徳川軍を一孤城に引き寄せて二度までこれを破ったのは、ほかに全く例がなく、その武名は天下に鳴り響いた。
 

上田薄祖 真田信之

 信之(はじめ信幸、関ケ原役後に改名)は昌幸の長子として永禄九年(一五六六)に生れ、天正十四年(一五八六)人質として浜松の家康のもとへ送られ、本多忠勝の娘を妻とした。沼田城を領し、関ケ原役後は父の遣領を与えられて上田城に移り、沼田をあわせて九万五千石を領した。元和八年(一六二二)十月、松代へ移封を命ぜられた。松代城はもと海津城といい、上田方面から峠をこえて善光寺平(長野盆地)へ出る出口にあたり、武田信玄によってその川中島経略の根拠地として築かれた城である。近世初期にはしばしば城主がかわった。武田時代は春日(高坂)弾正が城主であったが、武田氏滅亡後は織田信長の将森長可が城主になり、幾ばくもなく上杉景勝領となり、次いで田丸直政(慶長三年八月~同五年二月)、森忠政(~同八年二月)、松平忠輝(~同十五年閏二月)、同城代花井氏(~元和二年七月)、松平忠昌(~同四年四月)、酒井忠勝(~同八年十月)と、上杉景勝転封以来、わずか二十三年間に城主をかえること五回に及んだわけで、まことにあわただしく、これでは歴代藩主も落ち着いて領国経営など行い得なかったであろう。
信之は、松代へ転封を命ぜられたことについて、その事情を老臣出浦対馬守にあて次のように言っている。
 
今度、召に付き、ふと参府仕り候処に、川中島において御知行拝領せしめ候。殊に松城の城は、名城と申し、北国かなめの要害に候間、我ら罷り越し、御仕置申し付くべきの由、仰せ出さるる段、かの表の儀、拙者に任せ置かれ候旨、御直に条々御諚候。誠に家の面目、外実とも残りなき仕合はせに候。
 
つまり、将軍から直接に、北国かなめの名城松城をお前に与えるから、しつかり治めるようにと申し渡され、大いに雷をほどこしたというわけである。しかし、追って書には、ちょっと妙なことが書かれている。
 
なほなほ我らこと、もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へ共、上意と申し、子孫のために候条、御託に任せ、松城へ柏移り候こと、様子に於てほ心易かるべく候。
 
 つまり表面は「家の面目…‥残りなき仕合はせ」と称しつつも、内実は「子孫のため…‥御託に任せ」て移ったものであり、やはり父祖代々の本貫の地を離れるのは、感情的には辛かったのであろう。
 知行は約四万石加増されて川中島十方石、沼田三万石、あわせて十三万石
となった。信之は長子信吉に沼田三方石を与え、自らは松代十万石を統治した。かつて信之の父昌幸が上田の本領地を、長子信之が沼田を領有したのと似ている。
しかし信吉は寛永十一年(一六三四)父に先立って死に、長子熊之助が継いだが、これまた同十五年夭折した。そこで信之は次子の信政に一万石、信吉の次子兵吉(のち伊賀守信利)に五千石と、沼田領を分け与え、沼田城には信政を置いた。信重は正保五年(慶安元年 一六四八)に没し、その遺領は信政にあわせられ、信政は沼田城にいて二万五千石を領した(松城の地名は森忠政の命名という。正徳元年(一七一一)松代と改めた。また、松代領は、近世初期には「川中島」と呼ばれることが多かった)。

相続争い

 明暦三年(一六五七)、信之は九十二歳の老齢に達したので隠居し、次男の沼田城主信政を後継ぎにした。信政は多数の沼田侍をつれて同年六月松代に入城し、信之は侍五十一人以下、相当数の人員を召し連れて城外北約一里の柴
村に隠棲した。
 しかるに信政は入城の翌年正月中風にかかり、二月五日に死んでしまった。城主たることわずか半年であった。
 信政は死の四日前に、家老二人を召し後事をこまごまと遺言した。
●まず、老中へは一子右衛門佐(車道)へ跡目相続願いの書付を差し出したことを述べ、
●次に、将軍をはじめ幕府の重臣へそれぞれしかるべき贈物をするよう、こまごまと指示している。「上様」へは「名作の刀」と「茶入れ」を、「としより衆」へは「しかるべき刀」をというように具体的に述べており、また死後の相続争いを予想して次のように言っている。
 
一、川中島の侍ども、なじみもなく候ヘども、悼みとどけ、存じ寄り次第、奉公頼み入り候。
一、我ら沼田より召連れ候者共、たとい何様のこと候とも、見届け尤もに候。ひとたび本望とげさせべく候ヘども、あいはて候間、残り多く候。必ず跡式しどけなき事これなきやうに、いづれもたのみ候。
 
 信政は信之の次男とはいえ、長く沼田にいて川中島の諸侍とはなじみも薄い。ひとたびは譜代の家臣もひき立てるべき機会にめぐまれたが、死期が迫って残念である。
「沼田より召し連れた者は跡式(右衛門佐に家督させること)を間違いなく取り計らってほしい。川中島の侍も、なじみは薄くても、何分よろしくたのむ」 
というのである。まだ家臣団の掌握も十分できぬうちに死んでしまう新藩主の嘆きがよくあらわれている。
 信政が没し、嗣児右衝門佐はわずかに二歳、それに比べて沼田城主伊賀守信利は壮年であり、しかもその母は酒井忠世の娘で、時の老中酒井忠清の叔母にあたっていたから、幕府当局には信別に真田家を継がせたい希望もあった
らしく、継嗣問題は容易に決しなかった。信之の意向も最初ははっきりしなかったが、やがて右衝門佐支持に固まり、藩論も右衛門佐推挙に固まって五百余人が誓紙血判するという騒ぎになった。そこで幕府も六月、右衝門佐に跡目相続を命じて騒ぎはようやく落着した。
 信之が九十二歳の老齢まで松代藩主の地位にあり、六十一歳にしてようやくその跡を継いだ倍政との間に、とかく意思の疎通を欠くことがあったのであろうか。信政が老中や家臣あての遺言状を残しながらも、父あての遺言がなかったのは、父子不和の一証であるという説もある。
しかし、ともかく右衛門佐が家督を継ぎ、この事件が解決してがっくりきたのであろうか、信之は万治元年(一六五八)十月十七日の夜、柴村の隠居所で九十三年の生涯を閉じた。
 乱世に生れて戦場にのぞむこと数しれず、しかも九十三歳 という稀に見る天寿を全うしたのである。父昌幸の跡を継いで上田・沼田両城を領有すること二十二年、松代城主たること三十五年という長さであった。
 

武田仕立て

家臣団

 真田氏は武田氏の部将だったので、その政治や軍制などの大部分は、武田氏のやり方をそのまま受け継いだものである。
 松代藩士は出身地によって分けると、だいたい次の三つに分けられる。
1、小県郡およびその隣接地域出身-矢沢・禰津・望月など。
2、上野国出身-真田氏は武田部将時代に西上野に進出し、大名になってから沼田城を中心にこの地を支配した。また二代信政が沼田から入ったので、これについて来た沼田侍も多い。鎌原・鈴木・恩田・赤沢など。
3、武田遺臣-小山田・大熊・小幡・原など。
近世初期の三百石以上の上級家臣三十四名について見ると、
1、十二名、2、十五名、3、五名、その他二名となる。
藩士の総数は一千八、九百人で、そのう.ち二百五十~二百七十人くらいが知行取であり、その下に蔵米取の士分のものが知行取と同じ位あり、足軽が約一千人位、残りは仲間その他である。

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