真衣野牧
甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説は疑問。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用、真木野字、古牧馬所今有、牧ノ原 、又伴、余戸、惣名、武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』の記載事項やそれを引用した類似書を持って真実は導くことはできない。
甲斐の歴史を探究する人々が未だに『国志』曖昧な内容から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有 牛馬之牧 )もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。
甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説は疑問。牧ノ原の地名は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。こうした説は『国志』から始まる。それは
「真衣、萬木乃と訓す。又用、真木野字、古牧馬所今有、牧ノ原 、又伴、余戸、惣名、武川は淳川なり。云々」。
『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。しかし盲信することは危険である。『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と附合符合すれば概ね正しいと思われるが、『国志』の記載事項やそれを引用した類似書を持って真実は導くことはできない。
甲斐の歴史を探究する人々が未だに『国志』曖昧な内容から抜け出せないのは情けない話である。
「まき」「まきの」「まき」の地名は甲斐の他地域にも存在した。同じ『国志』に栗原筋の馬木荘、現在の牧丘町に残る牧の地名、櫛形町の残る地名牧野、甲斐に近接した神奈川県の牧野(『国志』-相模古郷皆云有 牛馬之牧 )もある。その他にも御坂町に見られる黒駒地名や「駒」に関連する地名も多い。甲斐には間違いなく三御牧は存在した。中央側に残された資料から解かれたもので資料はその所在地域を限定していない。御牧跡地を示す遺跡の少なさが地名比定の困難を生む要因である。これは山梨県だけではなく全国的な様相である。隣の長野県には有名で最後まで貢馬をした望月の牧がある。長野県には十七御牧があったがその所在地にとなると不明の牧も多い。古墳から出土する馬具などから四世紀後半には乗馬の風習があったと推察できる。