馬と甲斐源氏
康和3年(1101)10月23日
贈馬 甲斐守惟実、右大臣に馬を贈る。 殿暦
康和4年(1102)2月3日
贈馬 刑部丞源義光、馬匹疋を右大臣忠実に贈る。 殿暦
康和5年 1103
牧山村 勝沼町出土の経筒に康和五年、山東郡内牧山村米沢寺の記。
嘉承1年 (1106)10月28日
贈馬 甲斐守藤原惟実ら馬七匹を関白忠実に贈る。 殿暦
天仁2年(1109)9月6日
競馬 高陽院競馬の礼式作法。
五番左出方(左)左府生中臣近時、(左大臣随臣)栗毛、(方人甲斐守師季朝臣出馬)
殿暦天永2年(1111)10月8日
贈馬 刑部丞源義光、一匹献之、余見之件馬也。 殿暦
永久1年(1113)12月29日
贈馬 刑部丞源義光、男自坂東来、馬将来、栗毛一匹、今夜
一条殿渡給。云々 殿暦
安元7年 1176 8月
飯野牧 施楽院領飯野牧住人、貞重殺害の記事 玉葉集
治承4年 1180 9月24日
逸見山 武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ。 々
養和2年 1182 1月28日
神馬 神馬十疋庭上に引立つ。栗毛。武田太郎信義。 々
文治3年 1187 7月23日 。
故一条次郎忠頼之侍の甲斐四郎秋家被召具之以歌舞為業之者也。小笠懸の後盡 舞曲。吾妻鏡
文治3年 1187 8月15日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久4年 1193 8月16日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久5年 1194 3月13日
武河牧 甲斐国武河御牧駒八匹参着、京都に送る。 々
11月21日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久6年 1195 5月20日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田小五郎信政、射手を務める。 々
建暦1年 1211 5月19日
小笠原牧 小笠原御牧奉行人三浦平六兵衛尉義村代官喧嘩事 々
寛喜1年 122910月22日
流鏑馬 武田六郎、由比ヶ浜の流鏑馬の射手を務める。 々
寛喜2年 1230 1月23日
犬追物 武田六郎、由比ヶ浜の将軍家年首御浜出始射手。 々
天福1年 1233
八田牧 西郡北鷹尾神社奮記に見ゆ。「甲斐国八田御牧」甲斐国志
建長2年 1250 2月26日
武田五郎、弓馬の師となる。 吾妻鏡
仁治2年 1241 1月23日
笠懸 馬場殿の笠懸に武田伊豆守光連(信光)が参加。 々
寛元2年 1244 8月16日
流鏑馬 鶴岡八幡宮での流鏑馬に武田五郎三郎政綱射手。 々
寛元4年 124610月16日
笠懸 武田政綱、馬場殿で笠懸の射手を務める。 々
宝治1年 1247 2月23日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
宝治1年 12月10日
笠懸 武田政綱、馬場殿での遠笠懸の射手を務める。 々
宝治2年 1248 1月15日
御弓始 武田政綱、御弓始の射手を務める。 々
建長2年 1250 8月18日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
建長3年 1251 8月21日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
建長3年 1251 24日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
弘安中 1279~1280
南部牧 南部・飯野牧は日蓮法師の書中に見ゆ。甲斐国志
飯野御牧『日本古代文化の探究 馬』
南部牧 頼朝の平泉攻略後、関東武士団が大挙して奥羽に進駐、特に牧馬経営に優れた武士を地頭に任命、甲斐国南部・波木井両牧の牧監の南部氏に糠部の地を与えた。云々
参考
弘安二年甲斐国飯井野御牧三箇郷云々。
三年甲州飯野御牧云々日蓮書状甲州飯野御牧波木井の郷云々
元享3年 1323 27日
馬進納 武田信家、北条貞時十三年忌供養に際し馬一疋、銭50貫目進納。
馬進納 武田十郎五郎、馬一疋(栗毛)、進納。 吾妻鏡
馬進納 武田弥五郎入道、馬一疋(栗毛)、進納。
諸方進物 武田弥五郎、 馬一疋(栗毛)、進納。
武田伊豆入道(信家)、馬一疋(鹿毛)、進納。
武田孫七郎、馬一疋(鹿毛)、進納。
武田十郎五郎、馬一疋(栗毛)、進納。
建武1年 1334 1月29日
御的 武田政義、御的始の射手を務める。
建武年中 1334~○信濃駒牽 後醍醐天皇
八月十六日、信濃の駒ひき、あまたあれども、甲斐の穂坂牧ちかごろはたえたり。
望月ばかりは今まで絶えず。云々 建武年中行事
参考
当時の馬の身幹には長崎悪四郎の一部黒、萬里小路中納言の甲斐の大黒、云々
興国4年 1343 12月11日
梶原甲斐守馬瓦毛取レ之、今日乗て帰る。祇園執行日記
延文1年 1356 10月9日
貢馬一匹事、相催遠光跡庶子等任例、可致沙汰之状如件、延文元年十月九日
小笠原兵庫頭館判(足利義詮花押)勝山、小笠原文書
貞治5年 1366 12月2日
甲斐駒牽八月十七日 入道大納言藤忠嗣
来ぬと民もにきはふ秋の田の 穂坂の駒をけふぞ引なる
甲斐駒牽は、甲斐国穂坂の御牧の駒を八月十七日に奉る也。
大方駒牽は一年に数百疋なり。国々より奉るにや。
穂坂の御馬は三十疋。今日奉れば、南殿に出御ありて御覧じける也。
今は望月の駒のおも影より外は絶て侍らぬこそ。いと念なき事に侍れ。年中行事歌合
応永30年 1423 月23日
御牧庄
中巨摩郡敷島町吉沢の羅漢寺の釈迦如来の銘文に
甲州御牧庄天台山羅漢寺釈迦如来銘文(真言宗今は曹洞宗)釈迦如来像
応永三十年四月二十三日 住持比有金、植松又次氏発見
武田牧=都留郡-北限、武田牧云々。残簡風土記
永享10年 143810月四日
賜り物 跡部掃部助、武田信重の甲斐入国に尽力した功績により、
御太刀、御腹巻、御馬一疋(黒印、雀目)を下さる。
足利将軍御内書並奉書留
宝徳4年 1451
犬追物 武田忠務大輔殿、六匹。云々 犬追物手組日記
寛正6年 1465 3月5日
献馬 甲州武田五郎信昌、大長の御馬事。
就 御尋一匹(瓦毛印、雀目結)進上之 。去三月六日京着。 親元日記
文明14年 1482 3月12日
献馬 武田治部少輔信親、献馬一匹。云々。 後鑑
文明15年 1483
犬追物 犬追物手組事、武田刑部少輔、四匹。
大永1年 1521 10月21日
武田馬場 武田馬場有 射犬儀 、伊州馬場犬追物令 見物 、今日武田招請云々。
後鑑
永禄9年 8月15日
犬追物 武田義統(武田大膳大夫)犬追物を興行して将軍の遊覧に供す。
続応仁後記巻九
天文9年 1546 5月4日
献馬 将軍義晴薨ず。葬送の次第、先ず御馬を引せらる。是は先年若州武田伊豆守
信豊進上の龍蹄也。云々。続応仁後記
康和3年(1101)10月23日
贈馬 甲斐守惟実、右大臣に馬を贈る。 殿暦
康和4年(1102)2月3日
贈馬 刑部丞源義光、馬匹疋を右大臣忠実に贈る。 殿暦
康和5年 1103
牧山村 勝沼町出土の経筒に康和五年、山東郡内牧山村米沢寺の記。
嘉承1年 (1106)10月28日
贈馬 甲斐守藤原惟実ら馬七匹を関白忠実に贈る。 殿暦
天仁2年(1109)9月6日
競馬 高陽院競馬の礼式作法。
五番左出方(左)左府生中臣近時、(左大臣随臣)栗毛、(方人甲斐守師季朝臣出馬)
殿暦天永2年(1111)10月8日
贈馬 刑部丞源義光、一匹献之、余見之件馬也。 殿暦
永久1年(1113)12月29日
贈馬 刑部丞源義光、男自坂東来、馬将来、栗毛一匹、今夜
一条殿渡給。云々 殿暦
安元7年 1176 8月
飯野牧 施楽院領飯野牧住人、貞重殺害の記事 玉葉集
治承4年 1180 9月24日
逸見山 武田信義らの甲斐源氏、逸見山から石和御厨へ。 々
養和2年 1182 1月28日
神馬 神馬十疋庭上に引立つ。栗毛。武田太郎信義。 々
文治3年 1187 7月23日 。
故一条次郎忠頼之侍の甲斐四郎秋家被召具之以歌舞為業之者也。小笠懸の後盡 舞曲。吾妻鏡
文治3年 1187 8月15日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久4年 1193 8月16日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久5年 1194 3月13日
武河牧 甲斐国武河御牧駒八匹参着、京都に送る。 々
11月21日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田信光、射手として参加。 々
建久6年 1195 5月20日
流鏑馬 鶴岡八幡宮放生会で武田小五郎信政、射手を務める。 々
建暦1年 1211 5月19日
小笠原牧 小笠原御牧奉行人三浦平六兵衛尉義村代官喧嘩事 々
寛喜1年 122910月22日
流鏑馬 武田六郎、由比ヶ浜の流鏑馬の射手を務める。 々
寛喜2年 1230 1月23日
犬追物 武田六郎、由比ヶ浜の将軍家年首御浜出始射手。 々
天福1年 1233
八田牧 西郡北鷹尾神社奮記に見ゆ。「甲斐国八田御牧」甲斐国志
建長2年 1250 2月26日
武田五郎、弓馬の師となる。 吾妻鏡
仁治2年 1241 1月23日
笠懸 馬場殿の笠懸に武田伊豆守光連(信光)が参加。 々
寛元2年 1244 8月16日
流鏑馬 鶴岡八幡宮での流鏑馬に武田五郎三郎政綱射手。 々
寛元4年 124610月16日
笠懸 武田政綱、馬場殿で笠懸の射手を務める。 々
宝治1年 1247 2月23日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
宝治1年 12月10日
笠懸 武田政綱、馬場殿での遠笠懸の射手を務める。 々
宝治2年 1248 1月15日
御弓始 武田政綱、御弓始の射手を務める。 々
建長2年 1250 8月18日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
建長3年 1251 8月21日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
建長3年 1251 24日
犬追物 武田政綱、由比ヶ浜で犬追物の射手を務める。 々
弘安中 1279~1280
南部牧 南部・飯野牧は日蓮法師の書中に見ゆ。甲斐国志
飯野御牧『日本古代文化の探究 馬』
南部牧 頼朝の平泉攻略後、関東武士団が大挙して奥羽に進駐、特に牧馬経営に優れた武士を地頭に任命、甲斐国南部・波木井両牧の牧監の南部氏に糠部の地を与えた。云々
参考
弘安二年甲斐国飯井野御牧三箇郷云々。
三年甲州飯野御牧云々日蓮書状甲州飯野御牧波木井の郷云々
元享3年 1323 27日
馬進納 武田信家、北条貞時十三年忌供養に際し馬一疋、銭50貫目進納。
馬進納 武田十郎五郎、馬一疋(栗毛)、進納。 吾妻鏡
馬進納 武田弥五郎入道、馬一疋(栗毛)、進納。
諸方進物 武田弥五郎、 馬一疋(栗毛)、進納。
武田伊豆入道(信家)、馬一疋(鹿毛)、進納。
武田孫七郎、馬一疋(鹿毛)、進納。
武田十郎五郎、馬一疋(栗毛)、進納。
建武1年 1334 1月29日
御的 武田政義、御的始の射手を務める。
建武年中 1334~○信濃駒牽 後醍醐天皇
八月十六日、信濃の駒ひき、あまたあれども、甲斐の穂坂牧ちかごろはたえたり。
望月ばかりは今まで絶えず。云々 建武年中行事
参考
当時の馬の身幹には長崎悪四郎の一部黒、萬里小路中納言の甲斐の大黒、云々
興国4年 1343 12月11日
梶原甲斐守馬瓦毛取レ之、今日乗て帰る。祇園執行日記
延文1年 1356 10月9日
貢馬一匹事、相催遠光跡庶子等任例、可致沙汰之状如件、延文元年十月九日
小笠原兵庫頭館判(足利義詮花押)勝山、小笠原文書
貞治5年 1366 12月2日
甲斐駒牽八月十七日 入道大納言藤忠嗣
来ぬと民もにきはふ秋の田の 穂坂の駒をけふぞ引なる
甲斐駒牽は、甲斐国穂坂の御牧の駒を八月十七日に奉る也。
大方駒牽は一年に数百疋なり。国々より奉るにや。
穂坂の御馬は三十疋。今日奉れば、南殿に出御ありて御覧じける也。
今は望月の駒のおも影より外は絶て侍らぬこそ。いと念なき事に侍れ。年中行事歌合
応永30年 1423 月23日
御牧庄
中巨摩郡敷島町吉沢の羅漢寺の釈迦如来の銘文に
甲州御牧庄天台山羅漢寺釈迦如来銘文(真言宗今は曹洞宗)釈迦如来像
応永三十年四月二十三日 住持比有金、植松又次氏発見
武田牧=都留郡-北限、武田牧云々。残簡風土記
永享10年 143810月四日
賜り物 跡部掃部助、武田信重の甲斐入国に尽力した功績により、
御太刀、御腹巻、御馬一疋(黒印、雀目)を下さる。
足利将軍御内書並奉書留
宝徳4年 1451
犬追物 武田忠務大輔殿、六匹。云々 犬追物手組日記
寛正6年 1465 3月5日
献馬 甲州武田五郎信昌、大長の御馬事。
就 御尋一匹(瓦毛印、雀目結)進上之 。去三月六日京着。 親元日記
文明14年 1482 3月12日
献馬 武田治部少輔信親、献馬一匹。云々。 後鑑
文明15年 1483
犬追物 犬追物手組事、武田刑部少輔、四匹。
大永1年 1521 10月21日
武田馬場 武田馬場有 射犬儀 、伊州馬場犬追物令 見物 、今日武田招請云々。
後鑑
永禄9年 8月15日
犬追物 武田義統(武田大膳大夫)犬追物を興行して将軍の遊覧に供す。
続応仁後記巻九
天文9年 1546 5月4日
献馬 将軍義晴薨ず。葬送の次第、先ず御馬を引せらる。是は先年若州武田伊豆守
信豊進上の龍蹄也。云々。続応仁後記