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源義清 逸見冠者黒源太清光

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源義清 逸見冠者黒源太清光

(中世『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)一部加筆

 甲斐入部の義清が、はじめに市河の荘・平塩岡に居館を構え、甲斐源氏の勢力拡大につとめて実質的甲斐に根を下ろし、名実ともに在地豪族としての姿をはっきりさせた義清こそが、甲斐源氏の実質的な始祖であると見るべきであるかも知れない。
やがて義清は逸見へ進出、勢力を拡大していくことになるが、これは父祖の頼信、頼義、義光と受け継がれた遺産ともいうべき八ヶ岳山麓開拓を継承するものであった。この義清の嫡男が逸見冠者黒源太と号する清光なのである。
清光は天永元年(一一一〇)六月十九日、市川・平塩岡の居館で生まれている。母は上野介源兼宗の女であるという。清光誕生のころは、父義清が八ヶ岳・逸見地帯へ勢力伸長を図っていたころであろうと考えられる。
清光が号した黒源太とは源氏の嫡家で使われた嫡男の通称であり、また逸見冠者と称したのは、のちに清光が峡北地方逸見荘園の経営に当ったからである。
 逸見荘は塩川の上流、八ヶ岳南山ろくに開けた台地一帯という地形的にも恵まれ、古代からの甲斐三官牧(相前・真衣野・穂坂の御牧)や小笠原牧に近接している上に、信濃の佐久や諏訪地方へ通ずる交通上の要衝でもあった。清光が逸見荘経営の本拠地居城と定めたのが谷戸城であったとされるが、大八田(長坂町)の『清光寺伝』によれば、義清により逸見荘の荘司として経営を委された清光は、初め祖父以来の居館であった若神子館にほど近い津金・海岸寺続きの眺望のよい小丘に「源太城」を構築したが、あまりにも荘園の端に位置するため、八ヶ岳を正面として逸見台地を一望にできる谷戸に城を築いたのが谷戸城であるという。城は八ヶ岳の南山ろく、西寄りに位置しており、『吾妻鑑』治承四年(一一八〇)九月十五日の条にみえる「逸見山」に比定されている。別名を茶臼山、近世では城山とも呼ばれている標高八六二メートルの独立した丘陵である。
(註、このあたりの著述は歴史資料を持たない説。市川から逸見への進出の確かな資料提示が待たれる。地域の神社仏閣の由来を見れば山梨県中に新羅三郎義光の由来伝説が多くある。これは武田信玄が始祖としたことから始まるもので、後世につくられたものが多い。)

八ヶ岳

 俗説によると、清光が谷戸築城当時、八ヶ岳の八峰に権現岳・小岳・赤岳・麻姑岳・風の三郎岳・編笠岳・三ツ頭・松ケ岳などと命名、この松ケ岳に雷神又は石長姫命を祀ったという。これは甲斐源氏初期の武将である清光の功績を称賛、憧憬から後世になって語られるようになった逸話であろう。本来は仏教による山岳信仰の影響によるものと考えられており、旧権現岳の槍峰神社に祀られた八雷神が八峰の由来といわれる。江戸時代中期の『甲斐叢記』では、富士山の祭神である木花咲耶姫命を実の象徴とし、醜い石長姫命を八ヶ岳にたとえたとされている。

甲府市岩窪町の瑞巌山門光禅院 円光院

 のちの戦国時代、武田信玄が甲府は「府中五山」(一般的に甲府五山ともいう)を定めるが、このうち正室三条氏の菩提寺となった甲府市岩窪町の瑞巌山門光禅院は、そのもとは八代郡小石和郷(石和町富士見)の清光院と称し、逸見清光が草創した浄土宗系寺院であったと伝えられている。清光院はのちの室町時代中期、武田刑部大輔信守が修復、外護の手を差し延べて六角山成就院と改め、更に甲府へ移されて円光院となった。
 

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