甲斐と荘園
甲斐の荘園 市川荘
(甲斐と荘園 『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)
甲斐国に初めて荘園が設置されたのは、冷泉天皇の安和二年(九六九)山城国法勝院の市川荘である。市川荘は田地一三町九段三一〇歩で、今の市川大門町付近で、大部分は富士川右岸の巨麻郡、一部は左岸の山梨、八代の両郡にまたがっていた。後に摂関家藤原氏の所領に移ったが、大治五年(二三〇)常陸国(茨城県)那珂川北岸の武田郷に住む武田冠者源義清がその子清光とともに、この地に移され、甲斐源氏の祖となった。因みに義清は八幡太郎義家の弟義光の三男で、清光は逸見冠者と称し、谷戸を創建し逸見荘を治めていたが、領主の衰微に乗じて支配権を獲得したと思われる。
甲斐の荘園 八代荘
(甲斐と荘園 『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)
今の東八代郡八代町の地で、久安年間(一一四五~五一)に、甲斐守藤原顧時が熊野神社に寄進したものである。ここには現在も熊野神社が鎮座している。
熊野神社は紀伊国熊野にある。本宮、新宮、那智三社の総称で熊野三山と呼ばれ、古くから霊地として尊崇され、法皇を中心とする貴族の参詣が盛んであった。
荘園の増加によって、十世紀半ばには班田収授の法は全く行われなくなり、政府は荘園の取締りを厳重にしたため、各地に国司と荘園領主との争いが生ずるようになった。「長寛勘文」に見られる八代荘の紛争もその一つである。
応保二年後白河法皇の院政時代、甲斐守に任命された藤原忠重は京都にとどまったまま中原清弘を日代(代理人)として甲斐国に派遣し、在庁官人の三枝守政と共に国務にあたらせた。彼等は八代荘が新立荘園禁止令に違反するとして禁止を命じ、境界の杭を抜きすて、年貢を奪いとり、神人や荘民に乱暴狼籍をほしいままにした。熊野神社側は鳥羽院庁によって公認された社領であることを主張して朝廷に訴えた。裁判の結果は熊野神社側の勝利となり、忠重、清弘、守政は罰せられた。この事件を契機に、甲斐の豪族三枝氏は没落し、甲斐源氏の台頭を見るのである。
平安時代末までの甲斐の主な荘園
(甲斐と荘園 『大泉村誌』第三編 大泉村の歴史)
その他、平安時代末までの主な荘園(牧を含む)を挙げると次のものがある。(括弧内は領主)(? は断定できない)
山梨郡
塩部荘(醍醐寺)・柏尾別所(大善寺)・小原荘( ? )
大八幡荘( ? )・牧荘(臨川寺)・山前荘( ? )
小松荘( ? )
八代郡
市川荘(法勝院)・鎌田荘(藤原氏)・安田荘(熊野神社)
岩間牧(藤原頼長)・八代荘(熊野神社)・石和荘(金沢氏)
石和御厨(伊勢神宮)・青島荘(長講堂)
巨麻郡
小笠原牧( ? )・大井荘(源基俊)・稲積荘(法金剛院)
逸見牧(藤原氏)・布施荘(藤原氏)・八田牧( ? )
奈胡荘(法善院)・甘利荘(宝荘厳院)・篠原荘(八条院)
飯野荘(施薬院)・武川牧( ? )・志麻荘(九条家)
加々美荘(青蓮院)・逸見荘(近衛家)・原小笠原牧(近衛家)
山小笠原牧( ? )・小井川荘(安楽寿院)
都留郡
鶴田荘( ? )・波加利本荘(長講堂)・波加利新荘(長講堂)
大八幡荘(普賢寺)・井上荘( ? )
これらの荘園や牧を拠点にして、甲斐源氏が甲斐国を支配するのである。
この大泉村誌の見解は妥当である。
むりして各地に否定してもそれは根拠はない。
歴史家の焦りを感じる書物が多い。